番外編 第4話
四 生命の神樹
「やれやれ……ようやく落ち着いたみたいですね。今日は色々と忙しく、大変な一日でした」
いつもと変わらない橙色の空が、今日はやけに哀しく見える。何故だろう?
「……何だか、お互いに気が晴れませんね。どうしてでしょうか?」
狐面を被った少年は神樹の身体に背を預け、少々物思いにふけっていた。
「それにしても……黄昏の街、ですか。貴方は気に入りましたか? 私には、どうも少しむず痒い」
黄昏の空は返事をしない。それでも神童は構う事なく話を続けた。
「この世界も、以前は命の楽園と呼ばれていた事もあると言うのに……随分と廃れてしまいましたね。神樹の暴走がなければ、今でもあの美しい風景を眺める事ができたのでしょうか?」
神童は首を横に向け、ちらりと神樹を見る。物言わぬ神樹も何か想う事があるのだろうか?
神童の言葉に機嫌を損ねた神の樹は、風の力を使って太い樹の枝に腰を掛ける少年の身体を乱暴に振り落とそうとした。
「……おっと」
神童は突然の突風に振り落とされる事なく、しっかりとその身を支えた。
突風は、神童の腰に付けられた鈴を激しく揺らしながら……足早に通り過ぎていった。
神樹は何も語らない。狐面の少年はふぅ、と深い溜息を吐いた。
「すみませんでした。貴方を責めているわけではないのですよ? 貴方もこの世界の犠牲になっただけ。わかっているのです、そのような事は」
ただ……もう一度、もう一度だけでいいから……私はあの世界が見たいのです。
「ここから見えるこの夕焼けにも……少々飽きてきました」
神童は神樹に深くもたれ、項垂れながら、小さく口を開いた。
「……最近はとても疲れる。永く生き過ぎたせいでしょうか?」
神童は狐面に触れながら、クスリと笑った。
「いつか私のこの肉体も、神樹の一部にされるのでしょうか? ……まぁ、それもいいでしょう」
神童は再びゆっくりと頭を上げ、美しい夕焼けの空に目を向けた。
「こんな可笑しな事を考えてしまうのは、私が人間と深く関わってしまったせいでしょうか……?」
私はこれまで、色んな人間を見てきた。欲に溺れ、自ら破滅に向かう……憐れで嘆かわしい、そんな……愛おしい程に弱くて脆い人間達。
そのような人間達を、この世界に案内するのが私の役目であった。しかしあくまでそれだけ。
それ以上は、特に関与する事もなかった。
……けれど、今回は少し違う。私は少々、動きすぎたかもしれない。いや、動かされたのだ。
斎藤愛子という人間の【相手を想う大きく深い愛情】と、森野一樹という人間の【暗闇に射し込む強い希望の光】に。
私には何だか、それがとても心地良かった。
「私にもし、父や母という類のものがあったなら……こんな感じだったのでしょうか?」
神童は、そのような人間じみた言葉を口にした自分に少しばかり驚きながらも高らかに笑う。
「……本当に不思議な人間もいるものです。これだから人の世は奥が深い」
神の童と書いて【神童】と呼ばれる私は、気が付けば随分と古くからこの世界に存在していた。
本当の名も知らず……自分がどうやって生まれてきたのかも、どこから来たのかもわからない。
『自分は何者なのか?』なんて考えた事もなかったし、興味などある筈もなかった。
私に与えられた使命は、この世界を守る事。……ただそれだけだったから。
――神童は愛情というものを知らない。
――神童は希望というものを知らない。
少年には全て、必要のないものだったから――
「あ。そういえば……貴方、知っていましたか? 山桜の姫は、もうこの世にはいないみたいですね」
黄昏の空は相変わらず何も語ろうとはしない。まるで、最初からそのような神など存在しないかのように……
それでも、神童は語り続ける。
「惨めで、憐れで、可哀想な娘でしたね。山に捨てられていた人間の赤ん坊を自分の娘にするなど、『山桜の神もトチ狂ったものだ』と当時は皆で笑ったものです。しかし、実に利発に育ったようですね。まさか、この世界にまで影響できる力を持つとは。一樹さんを護っていたのは山桜の力ではなく、あの少女のものでした。……本当に大したものです」
時として人は【神】をも超える。
予知の力を持つ山桜は、この事を全て見越していたのだろうか?
「……まったく、食えない女だ」
神にも色々ある。形を持つ者。そして、この世界のように形を持たない者。
邪悪な者もいる、勇敢な者もいる、聡明な者もいる。そして……慈悲深い者もいる。
相性が合う、合わないは勿論あるが……山桜のそれとこの世界のそれとは以前、少しだが交流があった。
山紫水明、紫幹翠葉といった言葉が当てはまる美しく穢れを持たぬ、あの山々。
地上に存在するそれらとは似て非なるものだ。きっと、足元にも及ばないであろう。
私は、あの世界がとても好きだった。
柳は緑色をなすように。花は紅色に咲くように。――自然は自然のままに。
しかし、【娘】を失った山桜は……さぞかし意気消沈している事だろう。
「落ち着いたら、久しぶりに会いにいきましょうか。山桜の姫の弔いの意も兼ねて、ね」
鈴が、微かに音を鳴らした。
「……おや? また誰かやってきたようですね」
神童は樹からゆっくりと飛び降りた。そして、腰につけられた鈴を手に取り宙にかざすと、それをそっと覗き込む。
「……ほう。これは、これは。非常に深い闇を抱えていらっしゃる。早くお迎えしなくては」
まだまだ眠るわけにはいかない。
この世界にはまだ、私が必要なのだから。
「……いってまいります」
これだからいつの日も人の世は面白い――
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