第9話
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――ゆっくり目を開けてみると、眩しい日差しが私を優しく照らしていた。
そんな私の頭を支える柔らかい感触。おでこに置かれた小さくてひんやりとした冷たい手。
そこには、優しく私を覗き込む狐面の姿があった。
「おはようございます。良い朝ですよ」
目が覚めた私は神童の膝からそっと頭を上げると、ゆっくり辺りを見渡した。
「……夢は、終わったのね」
「ええ、そのようですね」
私は『そっか』と小さく呟きながら、目の前にそびえ立つ神樹を見上げた。隣では私と同じように、少年も神樹を見上げている。
私は神樹に目を向けたまま、神童に問いかけた。
「……ずっと、ここにいてくれたの?」
「はい。貴女がなかなか目を覚まさないものですから」
神童も、私に一切目を向ける事なく、そう返した。
「膝……重くなかった?」
「平気です」
「……ありがとう」
神樹は突然吹かれた風によって、優しくその葉を揺らす。どこか遠くの方から、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
(……あぁ。心がとても和む)
この大きな大樹が人の肉体を喰らうなど、今でも信じられない。
もしかして私は、本当に長い夢でも見ていたのかもしれない。
そう思えてしまうくらいに、目の前の神樹はとても美しかった。
「それにしても……あの日に比べ、貴女は大きく成長をしましたね」
神童は、ゆっくりと口を開いた。
「あの日って……もしかして私が、初めて黄昏の街から戻ってきた【あの日】の事?」
「はい。貴女が地面に這いつくばって号泣しているのを拝見した、【あの】雨の日の事です。あの時は、生まれて初めて人型蛙を見たと……とても感動を覚えたものです」
「か、蛙?」
「――ふふ、冗談ですよ。しかし、あの時の貴女の気迫は物凄かった。まったく、私も余計な約束をしてしまったものです」
神童は、五年前のあの日の事を懐かしむかのように小さく笑った。
「……ねぇ、神童。そういえば、私……初めて黄昏の街に入って、意識を失った時……とても不思議な夢を見たの」
「ほう、どのような夢ですか?」
「とても綺麗な夢だった。一面に広がる緑の草原。美しい青空に流れる白い雲。私は裸足で、その世界を思いっきり駆け回るの。花も木も水も、全てが本当に美しくて、思わず目を奪われてしまうくらいに素敵だった」
「ふむ。……それで?」
「そこにね? 座り込んで泣いている子供がいたの。たった一人で、とても悲しそうに……苦しそうに涙を流していた」
「ほう、子供が。それは男児だったのですか? それとも女児でしたか?」
「それが……わからないの。どうしても思い出せないんだ」
「ではそれは、もしかして幼い頃のカズキさん、もしくは弟のカズトさん。それとも……貴女自身だったのかもしれませんね?」
その言葉を聞いた私は、何だかちょっぴり可笑しくて、小さく笑ってみせた。
そんな私を見て不思議に思ったであろう神童は、『はて? どうしたのですか?』と言いながら、隣で首を傾ける。その姿がとても愛らしい。
私はそっと口を開いた。
「ねぇ、神童。私の話、聞いてくれる?」
「……いいですよ。聞きましょう」
私は神童の方に向き直り、じっと狐面を見つめると、一つの考えを口にした。
「私ね、あの夢の中の世界は、黄昏の街の本来の姿だったんじゃないかって思うの」
「……ほう。では、何故そうお思いに?」
「大樹が……神樹が、そこに立っていたから。強く、優しく、全てを見守るように」
「……ふむ」
「本当は、初めから夜が来なかったわけじゃないのかもしれない。朝も昼も夕方も夜も、ちゃんと存在したのかもしれない。人の罪の全てを飲み込み過ぎた故に、あの世界までが犠牲になってしまったのかもしれない」
神童は、何かを考えるように黙り込んだ。
「神童」
「……はい?」
「もしかして、あそこで泣いていたあの子供は……貴方だったのかもしれないね」
「…………あは、あはははは!」
突然神童はいつものような含み笑いではなく、まだどこか幼さの残るような、あどけなく無邪気な声で笑い出した。
「ふふっ。非常に楽しく愉快な解釈でしたよ。私、こんな姿をしていますが……もう齢千をとうの昔に超えておりますので、そんな昔の事は覚えていないのですよ。黄昏の街の本来の姿が、一体……どのようなものであったのかも、ね」
そう言って笑う神童の表情は、狐面に隠されていて私にはわからなかったけれど……その言葉から、私は何故かとても寂しく、切ない気持ちになった。
「では……私も貴女に一つ、質問してよろしいでしょうか?」
「? いいよ? 何?」
「貴女の【罪】は、一体どのようなものなのですか?」
「え……?」
「皆さんは勘違いなされています。いくらカズキさんが道を開いたとしても……罪と死に直面していない人間は跳ね返されてしまい、あの世界に入れる筈がないのですよ。誰にでも、簡単に入り込めるというわけではないのです」
神童は口元に手を添え、クスクスと笑った。
「最初から……気付いていたの?」
「えぇ、最初から」
神童はそう言うと、じっと私を見つめた。
「貴女が胸の奥底に隠している闇は、深くてとても禍々しい。人間相手にはうまく隠し通せるでしょうが、私達の前では意味がない。……全てわかっておりましたよ。私もあの世界も、ね」
「じゃあ……何故神樹は、私の肉体を奪おうとはしなかったの?」
「それは……貴女が死を望むのと同じくらい、生を望んでいたから。――貴女の中には迷いがあった。きっとカズキさんと出逢った事によって、貴女の運命は変わってしまったのでしょうね。残念です。もし、カズキさんと出逢っていなかったら……貴女は間違いなく、この世界の住人になれたのに」
「――そっか。じゃあカズキくんは……カズトくんと私、二人の運命を変えてくれたのね」
「……そういう事になりますね」
涙が込み上げてきた。
彼はずっと……私の中で生き続けているんだね。
私は空を見上げ、もう会えない彼の姿を頭に思い浮かべながら、心の中で『ありがとう』と呟いた。
「カズトさんが他の神に深く慕われていたように、彼もまた、特殊な人間だったようです」
「神童……カズキくんの事、よろしくね」
「大丈夫。彼は強い。それに……あの世界はまだまだ滅んだりしませんよ。私がいる限り、そうはさせません」
「ありがとう」
『では、そろそろ行きます』と、神童が私に最後の挨拶を交わす。小さな少年に手を引かれ、私はゆっくりと腰を上げた。
「貴女が再び闇に飲まれて、深く心を蝕まれ、死を強く意識した時には……いつでもどうぞ。待っておりますよ」
「……お生憎様! その日はきっと、一生やってこないから」
「おやおや。……それは残念」
神童はそう言うと、フッとその場から消え去った。
最後にちりん、と……儚い鈴の音を残しながら。
「さよなら、神童。さよなら、――異世界」
私は立ち上がり、再び駅に向かう。
あの世界の、汽車が走る駅ではない。この世界の、列車が走る駅に……だ。
動き始めた時計を確認すると、既に始発が出ている時間だった。
私は一歩前に踏み出す。もう振り返りはしない。
彼はいつだって、私の心の中に存在するのだから。
一樹くん。
私は、私の道を歩いて行きます。
だから……貴方は貴方の道を。
――今でもずっと、誰よりも愛しい人。
私は一生、貴方の事を忘れません。
だから、ずっと遠くから……私の事を見守っていて下さいね?
愛しています。……永遠に。
――風が吹いた。
風は、私の髪を優しく揺らした。
忘れられる筈のない、貴方の香りを一緒に運びながら……
彼がそっと、笑ったような気がした。
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