第8話


 彼の口から語られる長い長い物語は、ゆっくりと終わり告げる。

 それはとても切なく、残酷な物語であった。

「……カズトは全テ知っテイタんだ。自分ガどンな最後ヲ遂げルか。そシて、イずれ俺ガ……異世界で命ヲ落とスとイウ事も」

 彼は手帳を見つめ、そっと口を開いた。

「……十六頁」

 彼が静かに朗読を始める。手帳を開かずとも、内容は全て暗記しているようだ。

 十六頁に何が書かれているか……

 それは勿論、私も知っている。


***


 十六・黄昏の街。


 俺達が住むこの世界には

 朝も、昼も、夜も来ない、

 ずっと夕焼けだけが広がる……

 そんな不思議な世界が存在するらしい。

 俺はその世界を黄昏の街と名付けようと思う。

 何故その名前をつけたかと言うと、俺なりに想像してみたからだ。その世界の全貌を。

 一面に広がる、美しい夕焼けの情景を。

 で、咄嗟に思いついたのが黄昏の街だった。

 その世界は生きている。空も海も森も、俺達と同じように息をしている。

 黄昏の街自体が、その世界の神と言えよう。

 そしてその神は、とても慈悲深いとも聞く。

 罪を悔いた人間達が、森に足を運び、自ら命を絶とうとする姿を見て……それを憐れに思った神が、罪を背負った人間達がこれ以上傷付かずにすむようにと、黄昏の街を作り出した。

 肉体を代償に、魂のみをこの地に残し、全ての罪を許し、皆が幸せに暮らしていけるように。

 本来そこは、そんな優しい世界であった。

 しかし……人間の肉体を喰らい、成長を続けた神樹は留まる事を知らずに、更に多くの人間の肉体を求めるようになる。

 次第に神樹は、自らの欲求を満たす為だけに、罪人を導いてくる者を選出し、過ちを嘆き苦しみ、死を求めている人間達を、この世界に連れてくるように命じた。

 この世界はもう駄目と、彼女は言う。

 神童がいなければ、ここは既に崩壊していてもおかしくないだろう……と。

 神童とは、神に使える幼い子供の事らしい。

 どちらにしても人間の罪を喰らい過ぎた神樹は、近いうちにその毒素により身を腐らせ、朽ち果てていくだろう。

 肉体を奪われ、影の姿となった人間達は、この世界が消え去ると同時に消滅する。

 兄が迷い込む世界が、この世界じゃないといいのだが。


 ……けれど俺は、兄が迷い込むとしたら、きっとこの【黄昏の街】だと思った。

 兄には元々自殺願望があるし、何より優しい人だ。

 自分を責め、悔やみ、死を選ぶ……

 今の兄に一番近くて、どうしても深い繋がりを感じてしまう。

 俺は彼女に黄昏の街について、出来るだけの情報の提示を願ったが……何せ余所の世界の事だ。関与出来ない事もあると言われ、詳しい事は何一つとしてわからなかった。

 更なる情報が分かり次第、追記する。


***


「カズトはヤッぱリ、何デもオ見通シだな。アいツハ本当二……俺ノ自慢の弟ダヨ」

 彼は空を見上げながら、ポツリと呟いた。それと同時に、背後の方から手を叩く音が聞こえてきた。

「素晴らしい。とても素晴らしかったです」

 振り返ると、いつからいたのか……そこには神童が立っていた。

「すみませんが、少しその手帳を見せてもらってもよろしいでしょうか?」

 彼は何も言わず、神童に向かって手帳を投げる。神童はそれを受け止めると、ゆっくりページを捲り始めた。

「――ほう、夜宴の島の事まで。ふむ……なるほど。この手帳の中に書かれている世界は、間違いなく全て存在しております。貴方の弟は、さぞかし由緒ある古の神に見初められていたのでしょう。貴方を護っていたのは、この神の力でしたか。恐らくこれは……まぁ、その話はいいでしょう」

 神童は突然彼の前に立ち、狐面を外す。

 そしてその面を彼の顔に被せると、右手に鈴を持ち、左手で彼の胸を軽く押さえながら、不思議なまじないのような言葉を唱え始めた。

「……大切な手帳を見せてもらったお礼です」

 彼の影が急に輝き始め、踵から順に……ゆっくりと姿を現していった。

「アイコ……? 一体、何が……」

 彼は私に尋ねてきたけれど、あまりの出来事に上手く言葉が出なかった。

 見る見るうちに、彼が本来の姿を取り戻していく。やがて、彼の黒い髪がふわりと風に揺れると、神童が『もう面を外して良いですよ』と口を開いた。

 彼は狐面を外すと、一番最初に目に入った自分の手のひらを見つめ、言葉を失った。

「……貴方が身体を失っている事は、決して変える事の出来ない事実です。その姿でいる事が出来るのは、せいぜい一時間が限度でしょう。それにしても、兄をこの世界に来させたくないと思っていた弟の死が……結果、兄をこの世界に招いてしまう原因となるとは。本当に何と言えばよいのやら、言葉も出ませんよ。いつだって運命とやらは、残酷で非情です。……これ以上お邪魔をするのは申し訳ないので、私はこれで失礼しますね」

 神童は手帳を彼に返し、代わりに狐面を受け取ると……再び面を被り、鈴を鳴らしながら、ゆっくりその場から立ち去った。

「……ありがとう」

 彼は、もう見えなくなった神童に感謝の言葉を述べると、振り返り私を見た。

「……アイコ、いい加減に泣き止んだら? さっきからずっと泣いてばかりじゃないか。酷い顔だよ? 本当に」

 彼は眉を下げながら笑う。彼の過去の話が終わった今でも、私の目からはポロポロと涙が零れ落ちていた。

「最後まで聞いてくれてありがとう。君が聞いてくれたお陰で、何だか少し救われた。本当に感謝してる」

「こっち……こそ、だよ……辛いのに話してくれて、本当にありがとう……!」

「……まったく。また君が俺の分まで泣くもんだから、俺は泣けやしないよ」

 彼は笑う。精一杯の笑顔で。

 気が付けば私は彼の元に行き、両手を首に回して、思いっきり抱きしめていた。身長差があるので、バランスを崩した彼は尻餅をつく形となったが、それでも私は気にせず……強く、強く、彼の身体を抱きしめた。

「……泣いていいんだよ。我慢しなくていいんだよ。そんな泣きそうな顔で、無理して笑わなくたっていいんだよ」

「アイコ……」

「あのね、カズキくん。……カズトくんはね」

 私は彼に真実を伝える為、そっと口を開いた。

 カズトくんの手帳は、途中から彼が使っていたようで、彼の苦悩が赤裸々に書かれてあった。

 ――カズトが自殺した。俺のせいだ。俺がカズトを殺してしまった。

 そう書いていたのを、私はちゃんと覚えている。

 そして先程の彼の話を聞いて、ようやく確信が持てた。

 彼は勘違いをしている。……とても悲しい勘違いを。


「――あの日。カズトくんは、カズキくんが家を飛び出した後……そっと部屋を出たの。そして、カズキくんが結んだロープを解き、全て処分した」

「え……?」

「カズトくんは、初めからカズキくんに自殺幇助なんて重荷を背負わすつもりなんてなかったんだよ。多分、今までカズキくんに邪険に扱われてきた腹いせにそう言っただけだったんじゃないかな? ちょっとした仕返しのつもりだったんだよ」

「けど、君はさっき……カズトは死んでいるって」

「うん。カズトくんはあの日、間違いなく亡くなった」

「じゃあ、カズトはどうやって……」

「カズトくんはロープをゴミ袋にまとめてから、すぐにカズキくんを捜しに外に出た。慌てていたから、ちゃんと周りを見れていなかったんだね。……彼は事故死だったんだよ。自殺じゃない」

「そん……な……まさか、嘘だろ……?」

「嘘じゃない。彼は自殺なんかしていない。カズトくんはきっと、世界で一番大切な彼女のところに行く事が出来たんだよ」


 ――決して抗えないといった運命。

 けれど、彼の涙が弟を止めたのは事実。

 たとえ死は免れられなかったとしても、未来を変える事は出来たんだ。

 私はポケットの中から一枚の紙切れを取り出すと、彼の目の前に差し出した。

 見る見るうちに彼の目に涙が溜まる。零れ落ちないように必死で堪えているようだが、次々と溢れてくるその涙は、まるで蛇口のひねられた水道水のようなものだ。簡単には止まってくれそうもないだろう。

 紙切れには、たった一言だけ……こう書かれていた。


【兄さんへ。こないだはごめん】


「カ……ズト……」

「きっとカズトくんも、喧嘩の事をずっと気にしていて……仲直りしたかったんだね。だから、自分が死んだ後、カズキくんがすぐに見つけやすいように、机の一番上に目立つように入れていたみたい」

 もう限界だったのか、彼は堰を切ったように泣き叫んだ。

「何でお前が……お……れに謝るんだよ、カ……ズト。あ……やまらなきゃいけないのは俺の方だろうが、馬鹿野郎……! ば……かやろっ……!」

 慟哭が喉を引き裂く。涙で顔がぐしゃぐしゃになっても、彼は込み上げてくる想いを抑えきれずに泣き続けた。

 私は、そっと彼を抱きしめた。小さい子供を抱きしめるように、優しく。

「ア……イコ……」

 彼は私の頭を抱えるようにして抱きしめ返す。その力はとても弱々しく、尋常じゃないくらいに震えているのがよくわかった。

 私の目からも大粒の涙が溢れ出し、彼の服を濡らしていく。それでも私は彼の震える肩を、強く強く抱きしめ続けた。


 ――好きだ。

 好きだ。大好きだ。

 この人の弱さが、不器用さが……前よりずっと愛おしい。

 何も知らないくせに、ただ盲目的に好きだったあの頃とは違う。

 本当は憧れていただけだったのかもしれない。

 恋に恋をしていただけなのかもしれない。

 好きだと言いながら簡単に疑い、手を離した私。若すぎた私。

 けど、もう迷わない。

 カズキくん、私ね……貴方の事が大好きなんだよ。


 慈悲深く優しい、この世界の神よ。

 そして……神童。

 どうかこの人の苦しみや悲しみを、その涙と共に全て流してあげて下さい。

 彼がこれからこの世界で、誰よりも幸せに、誰よりも光り輝く笑顔で笑っていられるように……力を貸してあげて欲しいのです。

 悲しみで埋め尽くされた深い闇から彼を救い出し、光の中にある道を示してあげて欲しいの。

 ……私はもう、彼に何もしてあげられないから。


「――アイコ、ありがとう……もう大丈夫」

 暫く二人で泣き続けた後、彼はそう言って顔を上げた。

「……すっごい顔」

「……何よ、そっちこそ!」

 私達は顔を見合わせ、プッと吹き出すと、馬鹿みたいにケラケラ笑った。

 黄昏の街に、明るい笑い声が響き渡る。

 私達は目に涙を浮かべながら、ずっと笑い合っていた。

「カズキくん。何だか吹っ切れたって顔してるね」

「……んー。それでもカズトが死んでしまった事に変わりはないから、やっぱりまだ悲しいけど……何かスッキリしたかな。全部アイコのおかげだよ。ありがとう」

 そう言うと彼はそっと立ち上がり、黄昏の空に向かって大声で叫んだ。

「……カズト! 聞こえるか? お前の気持ち、ちゃんと届いたぞ! 俺の方こそ本当にごめんな! そして……ありがとう」

 彼の言葉は風に運ばれ、空へと高く舞い上がる。

「……届いてるといいね、カズトくんに」

「……うん」

 黄金の優しい空は、きっと彼の想いをカズトくんの元へと届けてくれるだろう。

 きっと……


「カズキくん」

「ん?」

 彼が振り向くと同時に、そっと背伸びをする。一瞬……軽く触れたくらいの短いくちづけ。

 私はそっと、踵を地面につけた。

「アイコ……?」

「カズキくん。私ずっと、カズキくんの事が大好きでした」

 私は、精一杯の笑顔を彼に向ける。

「そろそろ帰らないといけないから、最後にちゃんと伝えておきたかったの。……返事、聞かせてくれる?」

 彼は真剣な顔をしながら、じっと私を見つめる。そして、ゆっくりと口を開いた。

「……ごめん」

「……うん」

「俺には、今でもよくわからないんだよ。人を好きになる気持ちっていうのが。それに俺はもう、この世には存在していない人間だ。……俺の事は早く忘れて、アイコには幸せになって欲しいと思う」

「……うん」

「けど、アイコが俺にとって特別な人だって事はわかる。それだけは、自信を持って言えるよ」

「……うん」

「でも、なんだろうな……こんなに悲しいキスは生まれて初めてだ」

 彼はそう言うと、少し寂しそうな表情を見せた。

「何だか、凄く胸が苦しい。それに……痛い」

 彼は苦笑いを浮かべながら、自分の心臓付近をギュッと押さえる。

「……カズキくん。私ね、ある人に結婚してくれないかって言われてるの」

「……ん」

「凄く良い人なの。責任感があって、思いやりのある……とても優しい人。ずっと好きだと言ってくれていたけれど、私には忘れられない大切な人がいるって断っていたら、『待つから』って。私の気持ちが変わるまで、ずっとずっと待ってるからって……そう言ってくれたの」

「そっか……」

「そろそろ私も、前を見て歩き始めないとね!」

 そう言って、私は笑ってみせた。

「さよなら、カズキくん。最後にもう一度、貴方の姿を見る事が出来て……本当に良かった」

「……うん。アイコ、本当にありがとう」

 彼が差し出した右手を、私は強く握り返す。そして、ゆっくりと二人の手は離れた。

「……貴方のおかげで私、変われたの。本当に感謝してるんだからね? あの日、カズキくんと出逢えて良かった」

「俺もアイコに出逢えて、本当に良かったと思ってるよ」

「ふふ、ありがとう!」

 私は自分が出来る最高の笑顔を彼に贈る。そんな私を見た彼も、優しく微笑み返した。

 ――ねぇ、カズキくん。

 私、上手く笑えてるかなぁ? みっともない顔、してないかな?

 あぁ、これで最後だ。

「じゃあ、私行くね! カズキくん、元気で。貴方がこの世界で幸せに過ごせるように、私……ずっとずっと願っているから!」

 そう言うと私は彼に背を向けて、ゆっくり一歩ずつ歩き始めた。

 ……決めたんだ。決して後ろを振り返らない。

 もう一度彼の顔を見れば、決心が揺らぐかもしれないし、きっとこれ以上は堪えていた涙を抑える事が出来なくなるから。

 彼に覚えていて欲しいのは、泣き顔なんかじゃなく笑顔の私がいいの。だから、笑顔で『さよなら』するんだ。

 ――頑張れ。泣くな、アイコ。もう少しの辛抱だ。

 樹のトンネルの前に立つが、なかなか足が動いてくれない。

 この中を越えて、汽車に乗って……私は元の世界に帰る。

 これでもう、お別れなんだ。

「……アイコ!」

 突然、後ろから伸びてきた両腕。気付けば私は、強く彼に抱きしめられていた。

 勿論、背後にいる彼の表情はわからない。

「行かないで」

 弱々しく震える声で、そう呟く彼。その声を聞いた途端に、我慢していた涙が込み上げてきた。

「カズキく……ん……なん、で……?」

「……どうしてだろう? 今追いかけないと、きっと後悔するような気がした」

 彼の言葉が胸に刺さる。ポロポロと涙が頬を伝って流れ落ちた。

「ねぇ、アイコ……どうしても行ってしまうの? 君はこんなに泣いているのに、こんなにも震えてるのに……どうして行ってしまうんだ」

「カズキくん、離して……」

「………嫌だ」

 私は無理矢理腕を外そうとするが、彼がそれを許さない。

「独りはもう嫌だ。……寂しいんだ。寂しくて寂しくて堪らないんだよ」

「……カズキくん」

「アイコ、お願いだから俺から離れないで。ずっと、俺の傍にいてよ……」

 彼は、私の肩に顔を埋めた。

「カズキくん……それは出来ない」

「……どうして?」

「貴方が必要なのは私じゃないから。貴方はただ寂しいから、誰かに傍にいて欲しいだけでしょう?」

「アイコ……」

「……貴方の、優しく頭を撫でてくれるその手がとても好きでした」

 ――頭の中に貴方を思い出す。貴方は、私の頭の上にぽんっと手を置くと、私の隣で優しく笑った。

「貴方の、陽だまりのように温かいその笑顔が……とても好きでした」

 辛い事があっても、悲しい事があっても、貴方が傍にいてくれたから……私は全てを乗り越えられたんだ。

「貴方の弱さの中で一際輝きを放つ、その芯のある強さがとても好きでした。貴方の言葉に私がどんなに助けられてきたか……きっと、貴方にはわからない」

 こんなに、こんなに好きなのに……行く先の違う二人の道は、もう二度と交わらない。

「カズキくん……」

 私は少し緩んだ腕からゆっくり身体を抜くと、振り返って彼の姿をその目に焼き付けた。

 彼の瞳に映り込む……涙で滲んだ私の瞳。

 私の瞳の中に映り込む……悲しく歪んだ彼の顔。

 精一杯の気持ちを込めて、私は彼に伝えたい。

「愛してる……!」


 気が付けば私は、再び彼の胸の中にいた。彼が腕を引き寄せ、私を抱きしめたから。

 ……強く、強く、抱きしめていて。夢が終わっていく、その寸前まで。

 貴方が見せてくれた優しい夢。それはいつも、私を優しく包み込んでくれましたね。

 いつか、覚めるとわかっていたけれど……それでも、どうしても手放したくなかった。

 貴方が教えてくれた沢山の事。私はきっと忘れない。

 ――貴方は私の、人生の教科書でした。


「私がこれから先、どんな困難にも負けずに幸せに暮らしていけるように……! 何があっても、笑っていられるように……! ずっと、ずっと……この世界から見守っていて下さい!」

 今日、私は十年分の愛を……この世界に置いていきます。

 そして私は、私の人生を。

 貴方は、貴方の人生を――


「……わかった」

 彼が、そっと私から離れる。

「わかったよ、アイコ。困らせてしまって本当にごめん……」

 そう言うと、彼は河原の方に足を向けた。そして、数歩進んだ先で振り返ると、大きな声で叫んだ。

「俺なら大丈夫! この世界で楽しく、毎日笑顔で暮らしていくから!」

『だからもう心配するなよな?』と、屈託なく笑う彼の姿。

「……うん! わかったよ!」

 その言葉に、私も笑顔で答えた。

「でもその前に、カズトの日記に書いてたようにこの世界が消えてしまわないか……それが問題なんだよなぁ」

 彼は両腕を上げ、『んーっ』と背伸びをすると、そのまま手を後頭部にそっと添えた。

「まぁ、あの神樹がこれ以上暴走しないように、神童と話し合ってみるか」

「……あれ? 影としてこの世界で穏やかに、静かに暮らしていくんじゃないの?」

「そんなの面白くないじゃないか! この世には、まだまだ俺達の知らない世界が無限に広がっているのだから」

 彼はまるで子供のように笑うと、両手を広げ、空を仰いだ。

「そっか……うん、そうだね!」

「あ、そうだ」

 彼は私に向かって、『手! 手!』と声を上げる。

「手?」

 私は思わず両手を見る。それを見た彼は、まるで悪戯っ子のようにニヤリと笑った。

「それ! 御守りだ」

 弟に渡す筈だった琥珀の石が、キラキラと光り輝きながら空を舞う。飛び疲れた光は、私の両手の中に綺麗におさまった。

「……ありがとう! 絶対に大切にするからね!」

「おう! じゃあな!」

 そう言うと彼は、右手を上げながらゆっくり背を向け歩き始めた。

 私も彼に背を向け、樹のトンネルを一歩ずつ、ゆっくりと進んで行く。

 少しずつ、離れていく二人。

 もう二度と、出逢う事はないだろう。

 暗い樹のトンネルを抜けた後、私はそっと後ろを振り返った。

 闇に支配された樹の道は、ザワザワと葉を揺らし、この街から出ようとする私に呪いの言葉でもかけているように思えた。

「……さよなら、カズキくん」

 私は再び背を向け、歩き始める。私は私の世界に帰る為、汽車に乗り込み、出口を目指した。


 汽車は機体を揺らしながら、ゆっくりと前進する。窓の外を眺めていると、車内で影達が楽しそうに会話している声が聞こえてきた。

 少し離れた場所で、仲良く話している三人の影。その中心にいるのは、間違いなくガンさんだった。

 楽しそうに大きな声で笑っている。それはまるで、かつてからの旧友と仲良く語り合うように、心の底から楽しんでいるように思えた。

「ガンさん……やっぱり影に」

 ここからは、私の勝手な想像だ。

 ガンさんが神童から盗んだ、あの光り輝く棒のような、杖のようなもの。

 私を元の世界に戻した後、カズキくんはきっと、出口の穴を支えていたあの棒を外しただろう。

 それにより道は閉ざされ、一瞬にして消える。

 きっと、ガンさんは怒り狂った筈だ。

 彼と色々話をしたいなどと言っていたけれど……あの短気なガンさんの事だ。まともな話し合いが出来たとは思えない。

 神樹の為に人間をこの世界に運ぶ事で、それを身代わりとし、人間の姿のまま、気楽にこの世界と元の世界を行き来していたガンさんの末路はきっと……神樹に肉体を奪われたのだろう。

 そうは思っていたけれど、実際に影の姿になっているガンさんを見ると、何だか少し胸が痛くなった。

 ガンさんが自分の為だけに、彼や沢山の人達にしてきた事は、勿論許されない事だ。

 けど……

 確かに怖い人ではあったけど、『迷い込んだ』と言った私達に対して、とても優しくしてくれたから……きっと、元は良い人だったんだと思う。

 根っからの悪人ではなかったと信じたい。罪を悔やんだ人間しか、この世界に招かれる事はないのだから……

 きっと神樹は、ガンさんの優しい人柄につけ込んで、あの人を強欲で冷酷な人物に変えてしまったのだろう。

 悲しい物語は、ここにも存在したのだ。

「さよなら、ガンさん。……ありがとうございました」


 ――汽車が駅につく。いつの間にか、ガンさんの一行はいなくなっていた。

 汽車から降りた私は、帰路を目指し歩き始めた。

 あの小さな公園を越えて、落ちると危ない堤防を越えて、いつ来るのかわからないバス停を越えて、緑が広がる野原を越えて――

 貴方との思い出を、一つずつゆっくりと振り返りながら……


 気付けば私は、入ってきた入り口の前でぼ~っと立ち尽くしていた。

 水車が回る音と共に、『オーイ!』という声が聞こえてきたので、私はそっと振り返る。すると、何人かの影達が私に向かって、優しく手を振っているのが見えた。

 影の中の一人が、私に向かって……

「モう来タらアカんヨー!」

 そう言った。

 私は目尻に涙を溜めながら、影達に向かってぺこりと頭を下げた。

 影達は『うんうん』と、頷いているように見えた。


 私は涙を堪えて、空を見上げる。

 夕焼けの空。

 黄金の空。

 美しい筈のその空は……今の私には、涙でぼやけてよく見えない。

 美しくも恐ろしい世界。

 優しくも儚く……悲しい世界。

 私、この世界にきて本当に良かった。

「……さよなら、黄昏の街」

 輝く光が私をゆっくりと包み込んだ。

 オレンジ色の空が、そっと笑ったような……そんな気がした。

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