第2話
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二十四になった私は、既に今の職場で働いていて、覚えなくてはいけない事が山ほどありましたが、毎日とても充実した日々を過ごしていました。
次第に彼の事を思い出す事も少なくなっていき、あの頃の事は良い想い出として、そっと心の中にしまい込むようになりました。
それでいいと思っていたのです。実際に仕事は忙しく、考える余裕もなかった事には違いなかったのですから。
――そんな、ある日の事でした。
お昼休み。私は自宅に弁当を忘れてきてしまった事に気が付いたのです。
けれど、今日中に終わらせなければならない仕事が山のように溜まっていて、とてもじゃないけどランチになんて行ってる暇などありません。
私は仕方なく、近くのコンビニで何か買ってすまそうと思い、急ぎ足で向かいました。
選んでいる時間すら惜しかった私は、適当におにぎり二つとお茶を手に取ると、そのままレジに一直線。慌てる私を見て店員さんはクスリと笑うと、『ありがとうございました』と元気よく送り出してくれました。私はペコリと頭を下げ、急いで出口に向かいました。
店の自動ドアが開き、一歩足を踏み出した……その時でした。
柔らかな風が優しく髪を揺らしながら、そのまま私の中を吹き抜けていく。コンビニの前にいた鳥達が、一斉に高く飛び立っていきました。
ただ、風が吹いた。……それだけでした。
けれどそれは、何故か不思議な感覚でした。
だって風が、忘れる筈のないあの人の……彼の香りを一緒に運んできたのだから。
……彼がいる。きっと、あの河原に――
それは、単なる想像でしかありませんでしたが、限りなく確信に近い予感でもありました。
脳が身体に命令を送るよりも早く、私の足はあの河原に向かって走り出していました。汗だくになりながらも、全速力で。
何度か躓いて転び、周りの人に笑われたりしたけれど、私は決して足を止める事はありませんでした。
あの河原までは結構な距離なので、休憩時間はとうに終わってしまっていただろうし、途中で履いていたヒールも折れてしまいましたが、そんな事はどうでもいいのです。大した問題ではないのだから。
――結局彼には会えないまま、今日も一日が終わる。
そっちの方が、私にとっては大問題でした。
折れてしまったヒールを見て、私は大きく溜息を吐きました。本当に時間が惜しいけれど、このままでは走る事が出来ません。
暫く裸足で走り続けていましたが、視界に入り込んできた靴の専門店に入り、適当に選んだスニーカーを購入すると、さっきまで履いていたヒールをそこに脱ぎ捨てて、再び全速力で走り出しました。
――もう少し! ……あと少し!
運動不足なせいか、下腹部がかなり痛み始めました。こんな事なら、もっと運動して体力をつけておけば良かった。
……今更悔やんでも、意味のない事ですが。
やっとの思いで河原に着くと、やはりそこには【彼】の姿がありました。
視界が涙で滲み、胸がギュッと締め付けられるような感覚……
ふいに振り返った彼は、私の存在に気が付くと、そっと右手を挙げました。
私は走り、彼の腰に手を回すと、力一杯抱きしめました。
この手を離してしまうと、彼は一瞬の内に……蜃気楼のように、はたまた泡沫のように、儚く消え去ってしまいそうだったから。
もう、どこにも行かないで欲しかった。
彼は眉を下げ、照れたように頭を掻くと、五年前と同じように、私の頭を優しくポンポン撫でながら……
「ただいま」
そう言って、優しく微笑みました。
「……おかえりなさい」
「うん」
「……カズトくん。会いたかったです。ずっと」
「ありがとう。俺もだよ」
気の抜けた私は、彼を抱きしめていた腕の力を緩め、その場にへたり込んでしまいました。もう足がガクガクで、力が入りません。
「……汗だく。走ってきたんだね。そんなに俺に会いたかったの?」
「ち、違うし!」
「まったく素直じゃないんだから」
子供のようにケラケラと、屈託なく笑う彼の姿。
私は何だか腑に落ちず、そんな彼の事がとても憎らしくて堪りませんでした。
けれど彼の笑顔を見ていると、結局は怒りなんて一瞬にして吹き飛んでしまい……気付けば私も、彼と一緒に笑っていました。
会いたかったよ。凄く会いたかった。
本当に昨日までここにいなかった存在だなんて、とてもそうは思えませんでした。
彼が私の隣にそっと座り、五年前と同じように他愛のない事を話し始める。その優しい声に耳を傾けながら、私はまるで夢の世界にいるような、そんな気持ちになりました。
それくらい、彼の隣は私にとって心地良い空間だったのです。
久しぶりに見る彼はやはり素敵で、胸が激しくときめいてしまうのが嫌でもわかってしまいました。
いつも楽しそうに夢を語っていた彼。私に無いものは全て、彼が持ってるんじゃないか? ……そう思えてしまうくらい、彼は他の誰よりも輝いて見えました。
二十九歳になった彼は、やはり以前より大人びて見えて……私の胸は高鳴るばかり。
二十四歳になった私は、彼から見て……少しは大人になったように見えたのでしょうか?
……それは、私にはわかりません。
彼は、そんな私の思考を読み取ったかのように言いました。
「しかし、君は相変わらず何も変わってはいないね。本当に昔のままだ。ここに現れた時、すぐに君だってわかったよ」
そう言ってクスクスと笑う彼が、妙に腹立たしく感じる。……いつまでたっても、子供扱いは健在か。
「何よ! 少しぐらい変わったでしょう⁉ 私、二十四になったんだよ? あの頃に比べて、ずーっと大人になりましたよーっだ!」
こうやって言い返してしまう所が、まだまだ子供な証拠なのだと自覚していながらも……つい、そう言ってしまうのは、彼に子供扱いされる事が嫌いではないから。
……けれど、やはり彼の方が一枚上手なようで。
「嘘。綺麗になったよ、とても」
そんな言葉を顔色一つ変えずに平気で言ってしまえるのだから……私は一生、彼には敵わないのでしょう。
「けど、君ももう二十四かぁ。時が経つのって本当に早いね」
河原であぐらをかき、空を見上げていた彼は、ふと自分の手の下に視線を移し、そこに落ちていた石を一つだけ掴むと……オレンジ色が鮮やかに反射している水面に向かって、思いっきりそれを投げました。
一……
二……
三……
四……
五……
六……
七……
八……
九……
…………
何度か水の上を楽しそうに跳ねていった石は、やがて静かに水面下へと沈んでいきました。
「……あのね、カズトくん」
「ん? どうしたの?」
私は、そっと彼に尋ねました。
「カズトくんは、今まで一体……どこに行ってたの?」
本当はずっと聞いてみたかったけれど、聞いてはいけないような気がして……聞けなかった。
それでも、結局は気になって仕方がなかったので、私は勇気を出して彼に聞いてみる事にしたのです。
二人の間に、暫しの沈黙が流れ始めました。
返答を待っている間も『君には関係のない事だよ』なんて言われたらどうしようとか、やっぱり聞かない方が良かったのかもしれないとか……そんな不安な気持ちに押し潰されそうになりましたが、私は彼の言葉をじっと待ち続けました。
彼は胸のポケットから煙草とライターを取りだし、一服すると、再び空を見据えながら言いました。
「きっと信じてもらえないだろうけど、あれは……あの場所はきっと……【異世界】、かな」
……そうか、異世界か。異世界ね。
――って!
「い、異世界⁉」
待ちわびていた返答が、私にとって想像もつかないものだったので、私は開いた口が塞がりませんでした。
そんな私を横目に、彼はぶれずにゆっくりと話し続けました。
「そこは、本当に不思議な街だった。朝も、昼も、夜もこない。ずっと夕焼けが広がっている……そんな場所に、俺はいたんだ」
そう言った彼の横顔は寂しそうで切なげで、けれど、とても綺麗で……私は思わず目を奪われました。
「……はは。急にそんな事言われても信じられないよね。勿論わかってるよ」
「いや、あの、その……」
「いいんだ。聞き流してくれれば」
彼はそう言うと河原に寝転がり、『んーっ!』と腕を真っ直ぐ伸ばしました。
私と目が合うと、ふにゃっとした笑顔を見せた彼は、手を頭の下に敷き、再び空に視線を移しました。
……彼の言っている事は、正直私にはよくわかりません。
突然異世界だなんて言われても、『そっかー! 異世界に行ってたんだね! どうだった?』……なんて素直に受け取れはしないし、そもそも信憑性に欠けています。
けれど、先程彼が見せた真剣な瞳には一片の曇りなどない。
私には、彼がわざわざ私に嘘を吐いたり、作り話を聞かせる理由なんてない。……そう思いました。
多分、カズトくんは何か勘違いしてるんだ……きっとそう。
「あの、えっと……ね?」
「……ん?」
「その不思議な街は、現実の世界……ではないんだよね?」
「……うん、絶対に違う。現実じゃ有り得ない事が多すぎるから」
「じゃあ、カズトくんはどうやって……その不思議な街に行ったの?」
「どうやってって……」
「聞かせて欲しいの。知りたいから!」
私がそう言うと彼は身体をゆっくり起こし、そっと私に耳打ちしてきました。
たったそれだけで私の胸は高なり、体温が異常なくらいに上昇してしまいました。顔なんて、茹で蛸みたいに真っ赤だったに違いないです。
けれど幸運な事に、赤々とした夕陽が私の顔を隠してくれたので、何とか気付かれずに済んだようでした。
後は、『この高鳴る心臓の音が、彼に伝わりませんように』と……そっと祈るだけ。
「……秘密」
私の感情を激しく掻き回した耳打ちの内容が、これだ……非常に彼らしい。
彼はさながら、無自覚で女性を虜にさせるスイーツのようです。
「何それ! からかわないでちゃんと教えてよ!」
「ふふ、ごめんごめん。――じゃあ、少しだけ」
彼はその不思議な街を、【黄昏の街】と呼んでいました。とても美しく、どこか物寂しい……そんな世界。
行き方を聞いてみたところ、そこは誰でも簡単に行けるような場所ではなく、行くには何らかの条件があるようでした。
けれど何度尋ねても、彼が私にその条件とやらを教えてくれる事はありませんでした。
「……さてと。俺、そろそろ行くよ」
「えっ? もう行っちゃうの⁉」
「うん、ごめん。――あ、そうだ!」
そう言うと、彼は持っていた鞄から何かを取り出し、私の前に差し出しました。
「はい」
「……何これ?」
「君にあげるよ」
彼の手の上にあったのは、琥珀色をした……とても綺麗な石でした。
「これ、その黄昏の街で見つけたんだ。君にあげたくて持って帰ってきたんだよ」
――だから、はい。
そう言って、彼はそれを私の手のひらの上に置きました。
「凄く綺麗……! ありがとう。大切にするね」
「うん。じゃあ、俺行くね」
彼は私の頭に優しく触れると、またふにゃっと笑いました。
彼はいつも笑っていて、私はその笑顔を見るのが、とても大好きでした。……けれど、今日は何だか違う。
笑っているのに、何故か私には……彼が泣いているように見えました。
あの、星を眺めていた夜と同じように。
彼の言う【黄昏の街】が本当にあるというのなら……今夕陽で赤く染まっているこの場所と、どう違うのでしょう?
急に私は……彼が今からまた、その黄昏の街に行こうとしているのではないか?
そして、もう二度とここには戻ってこないのではないか?
そんな、底知れぬ不安に襲われました。
……聞かなければ。そして、もしそうなら止めなくちゃ。
焦りが、一瞬の内に脳内を支配しました。
私は……既に私に背を向け、歩き出そうとしている彼に向かって、大きく声を上げました。
「カズトくん!」
その声に彼は振り返ると、『ん?どうしたの?』なんて……特に何とも思っていないかのように声をかけてきます。
私は、彼に尋ねました。
「また……会えるよね?」
彼は驚いた表情を見せながら……少し間を置いて、こう言いました。
「――勿論! また会えるよ、きっと」
その言葉を聞いて……わかってしまいました。
(……もう、会えないんだね)
「本当に、本当にまた会える⁉」
「必ず」
(嘘だ。もう二度と会えないんでしょ?)
「……じゃあ! 今度はいつ会える⁉」
彼は手のひらを自分の心臓部分に当てながら、ゆっくりと口を開きました。
「……そうだな。君が会いたいと願ったら、かな? 俺はいつだって、君の傍にいるよ」
「……嘘つき。また行っちゃうんでしょ?」
「え?」
「黄昏の街に」
彼は口を閉ざしました。それは、肯定しているのと同じ事。
私は、彼が私に何も言ってくれない事に酷くショックを受けながらも、話を続けました。
「どうしても行くなら止めないよ。……けど、お願い。私もそこに連れていって欲しい。一緒に」
私の言葉に、一瞬驚きを隠せない表情を見せた彼。
しかし彼は、すぐに毅然とした態度をとり、はっきりと私に向かって言いました。
「君を連れてはいけない」
……あぁ、やっぱり連れていってもらえない。
彼の言葉が胸に深く突き刺さりました。けれど、引き下がるわけにはいきません。……そう簡単には引き下がれません。
せっかく五年振りに会えたのに、また会えなくなるだなんて……そんなの絶対に嫌だったから。
「何故、連れていってくれないの……? それなら、どうしてその街の話を私に聞かせたの? ……そりゃ、最初に聞いたのは私だよ。カズトくんはただ、それに答えてくれただけ。貴方は何も悪くない。滅茶苦茶な事を言ってるのは私の方だって、ちゃんとわかってる。……けどっ! こうやってまた私の事を置いて、どこかに行ってしまうのなら……言わないで欲しかったよ。カズトくんは勝手だよ」
行き場のない想いが爆発する。こんな事……本当は言いたくないのに。
――勝手なのは私。
――我儘なのは私。
あぁ、私は本当に醜い。
「……それもそうだね。アイコが正しいよ」
彼は困ったように笑いました。
こんなに理不尽な事を言われているのに、優しく肯定してくれる彼。私は、激しい罪悪感に苛まれました。
彼を困らせているという事は、重々承知していました。でも……ここまで言ってしまったのです。
私は絶対、カズトくんについて行く。だから、どれだけ嫌な女だと思われても……
私は――
「……それとも、やっぱり嘘だったの? 黄昏の街だなんて本当は存在しないんじゃないの? ……ねぇ、私を騙したの?」
私は優しい彼に、言葉のナイフを突きつける。
「嘘なんかじゃない。騙してもいない。黄昏の街は、確かに存在する」
「……なら、証明してみせて」
彼は暫く何かを考え込んだ後、真剣な表情を見せながら私に言いました。
「……一度だけ。一度だけなら、君はあの場所に行く事が出来る。俺と一緒ならね。けれど、必ず帰らなくてはならない。ちゃんと元の世界に戻ってくるって……約束出来る?」
「! うん! 約束するよ」
「決してあの世界に魅了されてはいけない。帰りたいという意思を手離してはいけない。……本当に、約束出来る?」
「出来るよ! 絶対に出来る!」
「……君の心は、とても弱くて脆い。状況によっては簡単に左右され揺さぶられる事もあるだろう。それでも、俺の言う事は必ず聞く事。俺の事は何があっても信じる事。――いいね?」
「……うん! わかった」
そう私が伝えると、彼は『やれやれ』といった様子で苦笑いしながら、私の前に手を差し出しました。
「……おいで、アイコ。一緒に行こう。――黄昏の街に」
差し伸べられた手に戸惑い、少し躊躇しながらも……そっと手を乗せました。
ギュッと握られた手は、とても大きくて温かったのを覚えています。
「本当に君って人は……強情なんだから」
「ごめんなさい、酷い事ばかり言って。私、カズトくんが嘘をついてるだなんて……本当はそんな事、全然思っていないから!」
「わかってるよ。気にしないで」
そう言うと、彼は優しく微笑みました。
「きっと君は、俺と離れるのが嫌なんだね」
「……そういう事にしておいて下さい。もう」
「そういう事にしときます」
本当に、彼には頭が上がりません。
私は空を見上げました。既に綺麗な夕日は沈みかけていて、いつものように夜を連れてこようとしています。
――黄昏の街。夜がこない街。
そんな場所が、本当にあるのでしょうか?
本当に存在したとしたら……そこは一体、どんな世界なのでしょう?
……私は、少しだけ不安になりました。
けれど、きっと大丈夫。彼が私の隣にいる……それだけで、大きな安心感に包まれました。
バッグの中の携帯電話がずっと震動している事には気付いていたけれど、どうしても取る気になれず……私はそっと電源を落としました。
列車に揺れる彼と私。私達は、今までの空白の五年間の事をお互いに話し合いました。
彼は私のどんなに下らない話でも、ちゃんと最後まで話を聞いてくれて、『いっぱい頑張ったんだね』と褒めてくれました。私は、それがとても嬉しかったのです。
会えなかった期間が帳消しになるくらい、私と彼は沢山の話をしました。
実際、私達が河原で会った回数はたったの十数回。
けれど、その十数回は……私にとって、とても大切でかけがえのない宝物のような日々でした。
これから何年、いいえ……何十年経っても、この気持ちはきっと、一生変わる事はないでしょう。
もう遅い時間なので、列車の中にはあまり人がいませんでした。
少し離れた場所に、神について討論してる老夫婦の姿が見えました。聞き耳を立てているつもりはないのですが、声が大きすぎてここまで聞こえてくるのだから、仕方がありません。
――神様、か。
私は、欠伸をして眠そうにしている彼を横目で見ました。
……神様。もし本当に存在するのなら、お願いです。
もう彼をどこにも連れて行かないで下さい。
そして、出来る事なら……このまま時を止めて下さい。彼と、ずっと一緒にいたいのです。もう二度と、離れたくはないのです。
貴方が本当に偉大な存在なら、そんな事は簡単でしょう?
……なんてね。
正直私は神様なんて信じていないし、そんな非現実的なものが、この世界に存在などする筈がない……そう思っていました。
けれど、彼の言う異世界が本当にあるというのなら……神様だって本当はいるのかもって、信じられるかもしれません。
だから神様? お願いです。私の願い……きっと叶えて下さいね?
私は何だか可笑しくて、クスクスと小さく笑いました。
「アイコ……? どうかした?」
「ううん、何でもないよ! ちょっと下らない事を考えてて可笑しくなっただけ」
「そう? ……まぁ、君はすぐに自分の世界に浸り込む癖があるからね」
「……それ、カズトくんだけには本当に言われたくないんだけど。――あ、そうだ! 黄昏の街の事、もっと聞かせてくれる?」
「うん、わかった」
そう言うと、彼は黄昏の街について……先程よりももっと詳しく、具体的に話してくれました。
そんな彼の話はとても不思議で、どこか神秘的なものでした。
「黄昏の街には沢山の人がいる。けれど、それらは全て肉体がないんだよ。存在するのは真っ黒な影だけ。影が動いたり、話しかけてくるんだ。黄昏の街、って言うより……【影の街】っていう方がピンとくるかもしれないね」
「影の……街……?」
「うん。けどまぁ……俺みたいに、偶然迷いこんでしまった普通の人間も、たまにいるみたいだけどね」
私達の声を拾ったであろう女の人が、怪訝そうな顔をしながらチラチラとこちらを見てきました。
恐らく私達の会話は、周りから見たらとても滑稽で……きっと、頭のおかしな人間だと思われているのでしょう。
別に、誰にどう思われても構いません。
私達は気にせず、話を続けました。
「カズトくんは……怖くないの?」
「ん? 何が?」
「だって……影が動くとか、影が話すとか」
「はは、大丈夫だよ。影達は無害だし、まったく怖くはないよ。……けど、あの世界に対してはどうだろうね? 怖い、のかもしれない。『怖くない』とは言い切れない。けどね、人間は誰しも想像もつかないような事が突然起きてしまえば、少なからず恐怖を覚えるものさ。認めたくないからね。人は弱い生き物だから。でも、それらを全て認めてしまえば……本当はそこら中に、誰も想像すらした事のない不思議な世界がありふれているのかもしれない。それに比べたら、こっちの世界なんて本当にくだらないよ。出来る事ならずっと、あっちの世界に留まりたいくらいさ」
そんな事を言いながら、自嘲気味に笑う彼を見て……私は彼の事なんて、何一つとしてわかっていなかったのだなと思い知らされました。
彼はとても社交的で、よく私に色んな話を聞かせてくれました。……けれど、それはいつだって【彼自身】の話ではなかった事に気付いてしまったのです。
私は彼の事を何も知りませんでした。
それどころか、本当の彼の姿は私が知っている彼とはまったく当てはまらない【別人】なのかもしれません。
私は今まで彼の事を深く知る努力もせず、いつも話を聞いてもらうばかりでした。
それなのに彼は嫌な顔一つ見せず、励ましの言葉や優しさを私にくれました。
じゃあ、彼は辛い時……一体誰に弱味を見せてきたのでしょうか? 愚痴をこぼしてきたのでしょうか?
支えてもらうばかりで、彼を支えてあげられなかった自分を恥じて……とても心が苦しくなりました。
「ご乗車ありがとうございます。次は~……」
……ちょうど、アナウンスが次の停車駅の名を告げてきました。
「アイコ、次で降りるよ」
ずっと繋いだままの左手は、何だか先程とは違い……ひんやりと冷たく感じました。
降りた先は無人の駅。『暗いから気をつけて』と、私の手を引いて進む彼。私達は木々の間をすり抜けて、狭い畦道をひたすら歩き続けました。
……とても静かな夜です。時折、虫や蛙の鳴く声が聞こえるくらいで……今この瞬間、この世界に彼と私しか存在していないかのような、そんな錯覚に陥りました。
優しい静寂が、私にはとても心地良く思えたのです。
「アイコ」
突然、前を行く彼が私に話しかけてきたので、私はすぐに返事を返しました。
「どうしたの?」
すると、少しだけ間が空きましたが……彼はゆっくりと口を開いて、こう言ったのです。
「……ありがとう」
「えっ?」
彼のそんな言葉に、私の口から思わず間の抜けたような声が出ました。
彼は一度も振り返る事なく、ずっと前だけを見て歩いているので……私には彼がどんな顔をして、どんな気持ちでお礼を言ってくれたのかはわかりません。
私は急に、不安な気持ちに襲われました。
「……いきなりどうしたの? お礼を言いたいのはこっちの方だよ」
彼はその場で立ち止まると、ゆっくりと私の方に振り返ります。柔らかな風が、そっと二人の髪を揺らしました。
「アイコ、本当にありがとう」
「――もう! ほんとやめてよね⁉ そういうの、何かやだよ。最後のお別れみたいでさ……」
「黄昏の街に行く前に、ちゃんと君に言っておきたかったんだよ。……大丈夫。別れの挨拶とかじゃないから」
「本当に……? 約束だよ?」
「うん、約束」
「ならいい。……で、何がありがとうなの?」
「……それは秘密」
人差し指を唇に当てると、彼は悪戯っ子のようににっこりと微笑みました。
「もう! わけわかんない!」
彼の思考は本当に理解不能で、私は毎回頭を悩まされます。
けれど、彼が笑ってくれたので……何だか少しだけ、安心しました。
……きっと、深い意味なんてないよね? 私は自分に、無理矢理そう言い聞かせる事にしました。
「行こう、アイコ。この森の先に黄昏の街がある。もうすぐだよ!」
「あ、うん……!」
それから彼は一言も話す事なく、森の中を真っ直ぐ進み続けました。
私は歩幅の違う彼の後ろを、ただひたすら追いかけ続けるだけ。
繋がれた手が離される事はなかったけれど、何だか少しだけ……彼の手が震えているように感じました。
「着いたよ、ここだ」
目の前にはとても大きな樹木。一体どのくらい昔から、この樹は存在しているのでしょうか?
……これだけ大きな樹です。神様が住んでると言っても恐らく皆、納得するでしょう。
それは神樹と呼ぶのに相応しい、堂々たる装いでした。
彼は呆気にとられてる私の姿を横目に見て、クスリと笑うと……繋がれた手をそっと離し、樹の中心部に手を添えました。
「……カズトくん? 何してるの?」
「シッ……ちょっと待って」
「う、うん」
私は言われた通り、静かに待つ事にしました。
彼の手が、徐々に淡い光を宿し始めます。最初は錯覚かとも思いましたが、どうやらそうではないようで……私は驚きのあまり、上手く声が出せませんでした。
――その時、物凄い突風が森の中全域に吹き荒れたのです。
荒ぶり始めた風は、まるで鎌鼬のように激しく葉を揺らし、それを地面に落としました。
宵闇に木霊する低い唸り声は、まるで悪魔の咆哮のように感じられ、背筋がひんやりとした。
私は声を絞り出すようにして、彼の名を呼びました。
「カズトくん!」
「アイコ! 開くよ、扉が」
すると、彼の手が触れている周辺から金色の糸のような線が生まれ、その場に大きな円を描き始めました。
中は眩しすぎて直視できない程に輝き、黄金の光が森中に溢れ出します。
「眩しいッ……!」
「暫く目を瞑ってて。すぐに収まるから」
「う、うん! わかった……!」
少し時間が経つと彼が言った通り、光は徐々に弱まり始めたようでした。
「もう目を開けても大丈夫だよ」
彼がそう言ったので、恐る恐る目を開けてみると……風は落ち着きを、そして森は静寂を取り戻していました。
「行こう、アイコ。早くしないと入り口が閉じてしまうよ」
そう言うと、彼は私を置いて一目散に光の中に飛び込んでいってしまいました。
「え、ちょっと……! カズトくん! 待ってよ!」
行ってしまった彼には、私の声は届かず……その声は虚しく森の中に消えていきました。
「何だったの、今の光……」
目の前には、光り輝く円状の大きな穴。人一人、簡単に入れるくらいの大きさでした。
……けれど、それは徐々に小さくなっていっているような気がします。
「急がなきゃ……!」
得体の知れない【何か】に飛び込む事は、やはり少し怖かったけれど……私は彼を追う為、無我夢中で光の穴に飛び込みました。
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