黄昏の街
夢空詩
第1話
1
「貴方の傍にいるだけで幸せ」
ゆっくりと移動する各駅列車の中。隣に座っていたカップルの女性が、男性の腕を絡めとり可愛らしくそう溢す。
男性は、女性ではなくスマートフォンに視線を向けたまま……『あー、俺もー』なんて適当に返事をしていた。それでも、女性は男性の隣で幸せそうに微笑んでいた。
――傍にいるだけで幸せ……か。
そう相手に伝える事が出来る彼女は、何て幸せな人なのだろう。大切な人に触れる事が出来る彼女が羨ましくて堪らなかった。
だって、いくら想っていても届かない。……届く筈がないもの。
今、私と同じ気持ちでいる人達は世界にどれくらいいるのだろうか?
……考えてもキリがない。世界は広いのだから。
暫く列車に揺られていると、突然雨が降り出し始めた。
私は読んでいた手帳を閉じて鞄に戻すと、窓の外に目を向けた。
視界に、沢山の人達の姿が映り込んでくる。
傘がなく、上着を傘代わりに走る青年。
雨宿りをしながら、時計を見ている女性。
濡れる事に何の抵抗もなく、寧ろ楽しそうにはしゃぐ子供達。
そして、たった一つの傘で寄り添うように歩いている恋人同士。
大きな雨の粒が、列車の窓の外側全体を支配する。
まるで、『中にいれてくれ』と懇願しているかのように見えなくもない。
こちらから触れても、滴が指を濡らす事はないのだけれど、触れた指先はひんやりと冷たく、私の心の中にまで雨を降らした。
『雨はね、空の上で神様が泣いているから降るんだよ。ようするに、神様の涙なんだ』
……なんて、小さい頃に誰もが一度は耳にした事があるような与太話。
勿論、私も神様の存在なんて信じていなかった。
けれど、今はどうだろうか? 神様はいる……のかもしれない。
本当に空の上で泣いているのかもしれない。
しかし、もしそれが本当なら……神様は地上にいる人間達をこんなにもびしょ濡れにしてしまうくらい、何をそんなに悲しんでいるのだろう?
神様も恋をし、涙を流す事もあるのかな?
想像すると何だか可笑しくて、誰にも見つからないように小さく笑った。
――雨は好き。
どこか懐かしいあの匂いも、心地良い旋律を奏でるあの音も……とても、とても大好きだ。
あの日……今と同じように、突然雨が降り始めた。
勿論、傘なんて持っていなかった私は、濡れる事などお構いなしにその場で崩れ落ちた。
雨は容赦なく私の身体に降りかかり、急速に体温を奪っていく。
それでも私は、その場から一歩も動く事が出来ずにいた。
次第に雨は、私の頬を流れ落ちる涙と同化を始め、私の弱い心も、醜くて汚い感情も、一緒に洗い流してくれたのだ。
――もう一度、立ち上がれるように。
――もう一度、這い上がれるように、と。
雨は優しかった。とても。
しかし今の私は、ずぶ濡れになりながら雨の中を歩いていられるほど、もう若くはない。
私は軽く苦笑しながら、鞄の奥にいつも常備している花柄の折り畳み傘をギュッと握りしめた。
私の名前は斎藤愛子。今日でもう二十九になる。
同期の殆どは寿退社をし、家族を持ち、幸せに暮らしている。
そんな中、ずっと会社に居座り続けている私の事を、後輩達が隠れて【お局様】と呼んでいる事には、とっくの昔から気付いていた。
勝手に何とでも呼べばいい。私は強い女でなくてはいけないのだ。
……もう二度と、何も失いたくないから。
貴方が居なくなって、もう五年近く経ちますね。私もやっと、あの頃の貴方と同じ歳になりました。
それでも私は、何年経っても貴方に追いつけそうもありません。
いつでも私の一歩先をゆく、そんな貴方。
永遠に追いつけないその距離感がとても好きで、とても大切でした。
今も貴方はあの場所で、夢を語っていますか?
今でも、あの優しい笑顔で笑っているのでしょうか?
或いは……もう既に消えてなくなってしまっているのかもしれません。
会いたいです。貴方に会いたいです。
春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て。
貴方と過ごした時間よりも、遥かに長い時を過ごしてきたけれど、貴方との記憶、貴方の存在は……風化する事なく、いつでも私の心の中に存在した。
けれど、貴方に伝えたい想い、貴方に伝えなくてはいけない言葉は……心の中にいる貴方には、決して届かない。
だから、貴方に会いに行きます。
辞表は今日、提出しました。勿論、後悔なんてしていません。貴方の笑顔が、もう一度見たいのです。
きっと、貴方は喜んでくれないのでしょうね。
それでもいい。自分自身で決めた事なので。
アナウンスが聞こえ、私はゆっくりと列車から降りる。外はもう日が沈んでいて、辺り一面真っ暗だ。
外灯の灯りだけが、弱々しく道を照らしていた。
ここは無人の駅なので駅員はいない。私は設置されている箱に切符を押し込むと、鞄の中から可愛らしい花柄の傘を取り出し、素早く開いた。
町外れにあるこの場所は、住んでいる人が少ないせいか、建物などはあまりなく、沢山の樹木が凛として立ち並んでいる。
ここは本当に、自然に包まれた良い場所だ。しとしとと降り続ける雨音が、静寂すぎるこの地に活気をもたらしてくれているようにも思えて、何だか少し可笑しい。
――ああ、こんなに心が穏やかなのは、どれくらいぶりだろう?
仕事中の私は、いつも眉間に皺を寄せ、イライラしていた。その内に社内の嫌われ者となった私に、好んで話しかけてくる人なんて一人もいなかった。
耳にするのは、いつも私の悪口ばかり……
勿論、私だって人間です。傷付きもすれば、悩んだりもします。
けれど私は、そんな事を気にする事なく、この五年の間……ずっと貴方の事ばかりを考え、生きてきました。
そして、自分に言い聞かせるのです。
『こんな事くらいで負けては駄目、もっと強くならなきゃ』と。
……本当はね、私、待っていたんです。
あの頃の貴方と今の私が同じ年齢になるその時まで……ずっとずっと、待っていたんです。
貴方と同じ歳になった時、見える景色もまた違って見えるんじゃないかって……そう信じていたのです。
まだ時間まで少し早いみたいなので、貴方の事を思い出すのもいいかもしれませんね。
今でも鮮明に覚えています。瞼の裏に焼き付いて、離れてくれそうもありません。
あの、不思議な街……
黄昏の街で起こった出来事を――
私が初めて彼に出会ったのは、まだ十九歳の夏の日の事でした。
当時の私の素行は決して褒められたものではなく、外見ばかりを派手にし、家にも帰らず、毎晩のように友人と夜の街を徘徊し、遊び呆けていました。
私はいつだって、皆と同じじゃないと不安でした。皆と少しでも違うと不安でした。
だから私は、皆と同じようなメイクをして、露出度の高い服ばかりを選んで着る。
お気に入りの甘いパフュームの香りが、いつも私を包み込んでいました。
そして周りには常に、派手な外見に騙された馬鹿で軽い男達が群がる……私は男達に偽名を教えては、ご飯に連れていってもらったり、カラオケで熱唱したりして時間を潰していました。
勿論それだけで終わらない連中も、中にごまんといます。なので……『この男は危険だ!』、そう察知すると、適当な理由をでっち上げたり、トイレに行く振りをしてそのまま友人と逃げ出したりと、上手く危険を回避してきました。
『さっきは危なかったねー!』などと言いながら、いつものように馬鹿みたいに笑い合っているのが、その頃の私の全てだったのかもしれません。
「――じゃあね」
「あ、うん」
友人と別れると、私は一人、自宅に向かって歩き始めます。
誰もいない夜の空の下。輝く星がとても綺麗で、急に虚しさが込み上げてくるのがわかりました。
私は一体、何の為に生きてるんだろう?
私は一体、何が楽しくて笑っているんだろう?
本当の私は一体、どこにいるの?
……もう疲れてしまった。消えてしまいたい。いっその事、こんな私なんて、誰からも忘れ去られてしまえればいいのに。……本当に馬鹿みたいだ。
涙が止めどなく溢れ出し、マスカラが落ちて目の周りが真っ黒になっても、私はお構いなしに泣き続けました。
そんな時に限って、昔の事が頭をよぎるのです。
――学生時代。私はとても真面目な生徒でした。成績は決して悪くはなかったし、決まり事はちゃんと守る……そんな面白味の欠片もない、退屈で窮屈な人間だったのです。
自由に生きている同級生達に羨望の眼差しを向けながらも、同じように生きる事が怖くて、私には到底真似出来そうもありませんでした。
そんな真面目だった私が、どうしてこうなったのか。それには勿論、理由があります。
私には、こうならなくては生きていけない事情があったのです。こうしなきゃきっと……生きていけそうもなかったから。
とにかく、私は孤独でした。
友達や遊び仲間が大勢いたって、私の心の中はいつも独りぼっち。
歩く事に疲れた私は途中で足を止めると、マスカラで汚くなった顔のまま、近くの河原に腰を下ろし、綺麗な星を眺めていました。
……その時、私以外にも河原で星を眺めている男性がいる事に気が付きました。
彼はただ、座って星を見ていただけでしたが……何故だか私には、目の前の彼が泣いてるように見えました。
彼の口から吐き出される煙草の白い煙が、ふわりと空に流れ、夜空に浮かぶ星まで届く事なく、儚く消えていく。
そんな中、彼は空に輝く幾千もの星に向かって、思いっきり手を伸ばしました。まるで何かを捕まえたいような仕草のようにも見えましたが……勿論、星を捕まえる事は出来ません。
ならば、彼のあの強く握られた拳の中には、一体何が入っていたのでしょう?
彼は……何を手に入れたかったのだろう?
そんな事をぼんやりと考えていると、不思議と私は、彼から目が離せなくなりました。
ジッと見つめてくる私に気付いたのか、彼と私の視線が真っ直ぐに重なり合い、ピシャリと時を止める。
どうしようと戸惑っていると、彼は私の顔を見て、『ぷっ!』と大きく吹き出しました。
「その顔、すごいね」
そう言って彼はゆっくりと立ち上がると、ジーンズの地面に触れていた部分を軽くはたきながら、こちらに向かって歩いてきました。
「――隣、いい?」
私は思わず、こくりと頷く。
そんな私を見て柔らかく笑った彼は、私と一人分の空間を空けたその先に、ゆっくりと腰を下ろしました。
「どうして泣いてたの?」
彼は空に視線を向けたまま、私にそう問いかけてきました。……少しだけ、言葉が詰まる。
しかし、どうせ赤の他人。見知らぬ相手だ。本音で話してみても、恐らく差し支えはないだろう。
ここで別れてしまえば、どうせまたすぐに知らない者同士に戻ってしまうのだから……
私は、そんな軽い気持ちで口を開きました。
「……孤独だから」
可愛い気なく、素っ気なく、そんな事を言う私に、彼は……
「そっか。じゃあ、俺と一緒だね」
そう言って、クスクスと笑いました。
無邪気に笑う彼の表情はとても優しいもので、私の胸は小さな振動を覚えました。
「君、名前は?」
突然名前を聞かれ、偽名を使おうか一瞬悩んだけれど……
「アイコ」
気付けば私の口は、勝手に本名を口にしていました。
「俺はカズト。よろしく、アイコ」
私の手を握り、ブンブンと上下に振る彼。『随分と豪快な握手だな』と、私は思わず苦笑いを浮かべました。
彼の名前は森野一人。【ヒトリ】と書いて、カズト。
彼は笑いながらそう言いました。
歳は私より五歳上の二十四歳。けれど童顔な彼は、私とさほど変わらない年齢のようにも見えました。
「君は孤独が怖いんだね」
「……うん、そうだね。とても怖いよ」
何故か私は初対面だというのに、彼には素直に何でも話す事が出来ました。……本当に不思議です。
初めて会ったのに、随分昔から知っていたような、そんな感覚。
「俺はさ、孤独なんてものは誰もが必ず持っているものなんだと思ってる。見せるか見せないか……ただそれだけ。人は皆、孤独と共存しながら生きているんだよ」
「……共存」
「うん。人はね、産まれてくる時も死ぬ時も必ず独りなんだ。ただ……誕生を喜んでくれる人、いなくなる事を悲しんでくれる人は必ずいると思う。それでも、やっぱり人は孤独から抜け出す事は出来ないんだよ。人である限り、ね」
「……たとえ私が死んだところで、誰も悲しんだりしないよ」
私は俯き、そう答える。
彼はそんな私をじっと見つめました。
やがて彼は、一人分の空間の先にいる私に向かってゆっくり手を伸ばす……彼のその大きな手のひらは、私の頭をそっと柔らかく包み込んでくれました。
「俺が悲しむよ」
そう言って彼は優しく頭を撫でると、『よいしょ』と立ち上がり、真っ直ぐ星を見つめながら言いました。
「君が死んだら、俺が悲しむ」
……初めて会った人で、まったくの赤の他人です。名前だって年齢だって、さっき知ったばかりで、私は他に彼の事など何一つ知りません。
それどころか、初対面の人間に対してこんな事を言うなんて、案外軽い人なのかもしれません。
それなのに、何故かその言葉は私の心の深い部分まで染み渡り……気付けば私は、まるで小さな子供のように大声で泣き喚いていました。
嬉しかったのです。認められた気がして。
嬉しかったのです。受け入れてもらえた気がして。
彼の横顔は月明かりに照らされて、とても綺麗でした。
それから私は、毎週日曜日の夜に、あの河原で彼と会う事になりました。
虚しいだけでしかなかった夜の遊びは、勿論あの後すぐに辞めました。
彼と過ごす時間は、とても楽しいものでした。
彼の話を聞くだけで心が弾む。彼の笑顔を見るだけで心が安らぐ。
彼は今まで出会ったどんな人よりも、魅力的で素敵な人でした。
勿論、私がそんな彼に好意を寄せるのに、そう時間はかかりませんでした。
心の中に生まれる、淡い恋心。
時としてその心は大きく吹き荒れる台風の目となるが、温かい春の日差しに包まれ、満開に咲き誇る桜となる事もある。
言葉ではとてもいい表せない不思議な感情。
――それが、恋だ。
けれど……私は彼に、その想いを伝える事はありませんでした。
自分に自信などなかったし、こうして今まで通り彼と会えなくなるのが嫌だったから。
私は、彼と話せるだけで充分満たされていました。それだけで、本当に幸せだったのです。
今思えば、恐らく彼は私の気持ちに気付いていたのだと思います。
それなのに気付かない振りをしてくれたのはきっと、彼の優しさだったのでしょう。
こうして、私と彼が出逢って数ヶ月が経ちました。初めて出逢った夜から今まで、何の問題もなく、楽しく過ごせていたと思います。
……だけど、【その日】はいつもと違ったのです。
いつもなら夕方過ぎに河原に行くと、必ずそこに彼はいました。しかし、その日は何故か彼の姿が見当たらなかったのです。
『今日は遅いなぁ』なんて思いながらも、特に気にする事なく、私は座って彼を待っていました。
けれど、いつまで経っても彼が現れる事はなく……時間だけが、ただ非情に過ぎていく。
ずっとずっと待っていたけれど……結局その日、彼が河原に来る事はありませんでした。
次の週も、次の週も、そのまた次の週も……彼が河原に現れる事はありませんでした。
勿論、何度も彼に連絡してみたけれど、一度も繋がる事のないまま……無機質なアナウンスは、行く宛のない私の想いを無情にもかき消していきました。
私は、きっと彼に嫌われてしまったのだなと思い……悩んだ末、もう河原には行かない事にしました。
いきなり何も言わずにいなくなってしまった彼の事が許せなくて。けれどそれ以上に……悲しくて、寂しくて、切なくて。
もうこのまま、彼の事は忘れよう。……そう思う事にしたのです。
夢のような時間はあっという間に終わりを告げ、私を現実の世界に引き戻してしまいました。
――それから約五年の年月が流れ、私は二十四歳に。
初めて出逢った頃の彼と、同じ年になりました。
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