第四節 夢とかやくご飯と白煙と

希戮きりくさん、夕餉ゆうげの時間ですよ」


 屋敷の中に、産まれたときから聞き知った声が響き渡る。

 母の声だ。


 私の生家は、帝都の近代建築とは違う。地方の古き良き日本家屋だった。

 襖さえ取り払えば、客間を三つ繋げて宴会会場にすることが出来る、その程度の大きさの家だ。

 家の横には井戸と蔵があるが、蔵の私財は尽きて久しい。


 有木ありきの家が遙か昔に高天原たかまのはらから降りてきたとかなんとか言う、由緒正しき血統図ぐらいしか残ってはいない。

 そんなもの、家人の誰も信じていないし、爺様だって笑い飛ばすような代物だ。


 とはいうものの、どこぞの異国の血が私に混じっているというのは、どうやら事実なのだろう。

 子どもの時分から、この肉体はずば抜けて大柄だった。

 故に、自分が他人とは違うのだということを、幼い頃から私はよく知っていた。


 それに、私には奇妙な特技があった。

 ものの〝味〟がわかるという、才である。


 たとえば、いまの母の声には疲れという〝味〟があった。

 一味ではない。

 疲れ、いたわり、勤め、慈愛、願い、空腹……いろいろ混じった、複雑な味だ。

 母達が感情と呼ぶものが、私にとって〝味〟であることを理解するまで、それほどの時間は必要なかった。


 人や自然と関わるなかで、この〝味〟はいつもついて回ったように思う。

 とくに、死の味は堪えきれないようなものだった。

 冷たくて、渋く、辛酸で……


「希戮さん?」


 名前を、もう一度呼ばれる。

 ──ああ、思い出した。私は、この光景に覚えがある。

 しからばこれは、夢の類いなのだろう。


 私は、過日の夢を見ているのだろう。


 母に呼ばれるまま、でかい図体を引きずって、食卓へと向かう。


「やっときたのですね。今日はお父さんはいませんから、先に食べましょう」


 引っ詰め髪に白髪の交じる母が。

 割烹着を着て、少しやつれた顔の母が、私に笑いかける。

 食卓の上には、温かな味噌汁とメバルの煮付け、それから〝かやくご飯〟が並んでいた。


 椎茸に薄揚げ、にんじんにごぼう、こんにゃくと、米をだし汁で炊き込んだかやくご飯は、母の得意料理であり、同時に御馳走の類いだった。

 そっとのせられた三つ葉が、なんとも食欲をそそる。


 ごく稀にであったが、潰された鶏肉が入っていることもあったと思う。

 このときは、残念ながら入ってはいなかったが。


 卓につき、手を合わせ、箸を執って食べ始める。

 それをみてから、母も箸を執る。


 食事の味は覚えている。

 けれど、別のことが強く、私の脳裏には焼き付いていた。


「希戮さん」


 母が、私の名を呼んだ。

 驚いた。

 食事の最中というのは口をきいてはいけないものだと教育されていたからだ──軍に入ってからは、忙しさで認識が変わったが──だから、母が口をきくのはよほどのことだと思った。


 母は言った。


「ひとは、必ずいつか死にます」


 思えば唐突な話だ。

 しかし母は、どうにも余人には推し量れない物言いをする女性だった。

 だからだろうか、父様ととさまも決して母をないがしろにすることはなかった。


「死は恐ろしいものです」


 さて。死ぬ、ということについて、この頃の私は明確には理解していなかった。

 ただ、数日前に近所で、親しくしていた老婆が亡くなっていて、その葬儀のときに胸が荒れるような〝味〟を感じていた。


「死ねば神様になります」


 神様ですかと、私は訊ねた。

 母は頷き、「ひとではなくなるのです」と言った。


「神様は荒ぶりもしますが、ひとを助けもします。長雨は川を氾濫させますが、雨がなければ作物は枯れます。神様とは、そういうものです。わかりますか?」


 それはつまり、神様にもよいものと悪いものがいるのだろうかと。

 そういった、こましゃくれた口を、私はきいたと思う。

 母は目を閉じて。


「ひととおなじです。ただ、神様を懲らしめるものはいません」


 とだけ、言った。

 それから、またしばらく無言で食事を続けて。

 食べ終わった頃に、母はもう一つだけ、言葉を付け足した。


「希戮さん、どうか死を恐れなさい。神様になることを、遠ざけなさい。誰かのために働くことは、ひとの間でも出来ます。けれど、それは責任を自分が負うから是とされるのです。理性を尊びなさい。好き放題にひとをもてあそぶ神様に、ならないようにしなさい。だから」


 母は。

 私の母様かかさまは。

 慈母の表情で微笑んで、こう締めくくった。


「お腹いっぱいに、ご飯を食べなさい。愛する人とご飯を食べなさい。大丈夫ですよ、希戮さん。誰かとご飯を分け合えるのなら──」


 その限り、ひととしての尊厳が死ぬことはないのですから──と。


 私は覚えている。

 母様の優しい言葉を。

 優しい料理の味を。


 こうやって、夢に見るほどに──


§§


『さん……間さん……起きてください、人間さん』


 ぼんやりと目を開ければ、目の前にアイの姿があった。

 どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。

 あたりを見渡すと、そこはひまわり畑で、近くには猫のように丸まった巫女殿がすやすやと転がっている。


 奇妙な夢を見たと頭を掻けば、アイがずいっと顔を寄せてくる。


「なんだね、アイ」

『たいへんなんです、人間さん』

「なにがだ?」

『魔女が、魔女が……』


 ブルブルと震えながら、ある方向を指差すロボット。

 そこからは、もうもうと煙が上がっていて。


「……ッ」

「むにゃぁ? どうしたのだ、婿ど──」


 反射的に、駆け出していた。

 寝ぼけた巫女殿が、着崩れた衣服をただしながらなにかを言っていたようだが、耳にも入らない。


 何かあったのだ、ヴィーチェに。

 だからアイがここまで知らせにやってきたのだ。


 ぶわっと脂汗が噴き出す。

 恐ろしさに胃がキリキリと痛み、心臓が縮み上がる。

 なぜだ。

 何故私は、こうも不安になっている。

 何故──


「嗚呼」


 ヴィーチェ、ヴィーチェ、ヴィーチェ。

 どうか無事でいてくれ。

 ああ、そうだ。恐れている。私は、君を失うことを。


 ヴィーチェを亡くしたくない。

 ただその一心で、私は走り続けて。


「ヴィーチェ!」


 煙の上がる区画へと、飛び込み叫んだ。

 そこには──


「ありゃ? ちょっとー! 来るのが早いわよ、キリク?」

「あ、あ?」


 何故か割烹着を着て、鼻の下に煤をつけたヴィーチェが、何事もなかったように立っていて。

 そのすぐそばでは、かまどの火が燃えていて。


「あー」

「え? なに? 大丈夫?」


 へなへなと、その場に崩れ落ちる。

 気の抜けた声で心配されるが、知ったことではない。ただただ、彼女の無事に、私は安堵していて。


「なにをしているのだ、ヴィーチェ」


 思わず、非難がましい目で、彼女を見つめてしまう。

 するとヴィーチェは、なぜだか笑顔になって。


「ふっふっふ。よくぞ聞いてくれました」


 豊満な胸を張りながら、自慢げにこう言い放ったのだ。


「なんとあたし──生まれて初めて料理を作りました! あなたのためによ、キリク?」

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