第五節 飢餓は無慈悲な惨劇の幼女
黒く、
真っ黒な飢餓が、牙を剥く。
浮上するのは、禍々しい衝動。
§§
「────」
膝をついていた
俯きがちに、だらりと両手を下げて立つ矮躯。
それが、寸前に巨人の腕をはじき飛ばし、へし折ったのだと、理解するものはその場に誰もいなかった。
ただ、魔女だけが。
『ダメ! 意識を取り戻して、キリク! 零地点を超えたままじゃ──アンタは望まないことをしてしまう!』
悲痛な声で、訴える。
けれど、躯体は動き出す。
ゆらりと一歩踏み出しながら、両手をあげる。
よどみも迷いもない動作で、赤い手甲は幼女の喉を握りつぶした。
『
電子合成音が告げるよりも早く、躯体は姿を消した。
「バゴオオオオオオオオオオオオオ!?」
「リトー……!?」
巨人は宙を見上げていた。
弾丸のごとき速度で地を蹴った躯体が、そのまま巨人の顎を蹴り砕き、巨大な顔面を跳ね上げさせたのだ。
これまで完全に防がれていた一撃が、それだけで容易く破壊の波動を侵食し──巨人の顎を削り取る。
巨大な獣が咬み千切ったように、巨大珪素騎士の肉が抉られ、貪られる。
絶対堅牢なはずの鎧がボロボロと崩壊し、青い血液をまき散らす。
痛みに絶叫をあげる巨人を尻目に、躯体は着地。
その姿が、変貌を始める。
真紅の装甲から、闇黒の
靄は巨人のオーラに似ていたが、性質は真逆だった。
──〝負位置の功子〟である。
「ゴガアアアアアアアアアア!!!」
怒り狂った巨人騎士の打ち下ろし。地形すらも変える、破城槌!
それを──躯体は片手で受け止める。
矮躯を中心に床面がひび割れクレーターを形成、だが闇黒の獣は微動だにしない。
巨人がさらなる力を込める。
嫌な音を立てて、躯体の左腕が複雑にひしゃげた。
その場から飛び退く躯体は、痛がるそぶりも見せない。
ただ機械的に、異常な行動に出る。
よどみのない動作で、左腕を掴み。
ミチ、ミチミチミチ──ブチリ。
躊躇なく、引き千切ったのだ。
引き千切った左腕を、躯体は巨人へと向けて射出する。
音速を超えて投擲された左腕が、巨人に触れた瞬間、気化燃料爆弾のような火力で爆発。
巨人騎士の胸元を、大きく抉り、消し飛ばす。
作用対消滅爆弾。
功子で生理活性を維持する珪素騎士にとって、功子作用は絶対的なものだ。
では、作用自体を消してしまえば、どうなるだろうか?
「ゴ、ゴバアアァア……」
──この通り、ただの珪素に戻った肉体は、ボロボロと崩れ落ちるしかないのである。
巨人の顎を削り飛ばしたのも、同じ原理──即ち〝
枯渇し、底をつき、零地点を突破した功子は、底抜けに貪欲な負位置の功子へと変貌する。
功子を奪う功子。
それは、恐るべき貪食の化身であった。
『身体の欠損を確認。随時補充します』
巨人が痛みに膝をつくなか、躯体はあくまで無駄のない、一見するとゆっくりとすら思える動作で移動。
ゆらりゆらりと一歩を踏み出すたびに、姿が靄でブレる。
次の瞬間には、数十歩前に移動しており、それはあたかも、動画の途中を編集で切り取ったような、擬似的なワープ移動だった。
巨人へと肉薄した躯体は、無言のまま、右腕を騎士の足首へとたたきつける。
「ギャゴオオオオオオオオオオオ!?」
再びの絶叫。
巨大な足首が宙を舞う。
珪素騎士は反射的に躯体を突き飛ばそうとするが、矮躯の動きはそれよりも速い。
否──動作の〝間〟が存在しないのだ。
躯体の右足が、大きく振り抜かれる。
人知を超越した現象。
右脚が十倍近い長さまで伸長し、巨人を蹴り飛ばしたのである。
吹き飛ばされる巨人と、逆再生のように脚を引き戻す躯体。
躯体の脚はねじ曲がっており、酷くいたたまれないが、幼女だったものは気にすることもない。
ドスンと地響きを立てて、巨人の足首だったものが、思い出したように落下する。
躯体は、ねじ曲がった脚に忖度することなく、鮮血の滴る足首へと歩み寄った。
『功子の補給を、開始します』
ガゴッ。
奇妙な音を立てて、躯体の面包が変形。
ガチリと咬み合わさっていた部分が開かれ、可憐な口元が現れた。
そうして、躯体は。
──食事を、始めた。
巨人の切り飛ばされた足首を、生々しい音を立てながら捕食し始めたのである。
がつ、がつん。
ぺちゃり。
むしゃ、もしゃ。
かつん、こつん。
がりり、がり……。
万軍の喧噪すらあまりに遠く、静まりかえったその場に。
幼女だったものの咀嚼音と巨人の苦痛の声だけが響く。
骨までかち割り、中の髄液を啜る躯体の姿に、平時の可憐さも精悍さも存在しない。
ただ餓鬼道に落ちた悪鬼が、悪竜の類いが、食欲を満たすために行動しているようにしか映らなかった。
やがて、躯体の左手が隆起を始める。
千切れた筋繊維と血管、神経……それらが垂れ下がっていた部分から、どろりと濁った闇黒が染み出し。
そのまま、元の左手を形成したのだ。
同じように、損壊した脚にも闇黒がにじみ出て、毀れた部分を埋めていく。
何度か開閉を繰り返し、左手の再生を確かめた躯体は、両手を左右に広げる。
するとマフラーが大きく広がり、足首ごと躯体を包み込んだ。
マフラーが引き裂かれる。
生まれ落ちたのは、傷ひとつない闇黒の鎧。
功子転換──悪鬼転生。
人でもなく、神でもなく。
まして護国の戦鬼ですらない〝悪鬼〟。
それが、いるだけで世界を壊す巨人へと、向き直る。
顔を上げる悪鬼の両目は、血の色を帯びて。
感情などないはずの巨人は、おびえたように後じさる。
『功子の補充を、継続します』
響き渡る電子合成音は、死刑宣告のそれ。
そして、その通りの光景が広がった。
戦闘とも呼べない捕食行動。
横たわる巨人の総身、そのあちらこちらは食い散らかされ、鳥葬のあとの死体のようで。
「グ、グルアアア」
けれども巨人には、悲劇的にまだ息があった。
くちゃり。
なにか致命的なモノを食べていた悪鬼が、青い鮮血に染まった顔を上げる。
血みどろの瞳は、ジッと巨人を見つめ。
巨人もまた、悪鬼を見続け。
悪鬼の右手の装甲が、開かれる。
功子の全投射。
通常時のそれが、作用によってすべてを分解するものなら。
叛作用による全投射は、すべてを悪鬼の餌として貪り尽くす一撃。
「────」
「────」
悪鬼は何も言わず、トリガーを引いた。
巨人は──
「──彼女を傷つけずにすんだ。ありがとうだよぉ、
なにかを呟いたが、悪鬼の耳には届きもしなかった。
負位置の功子が、最大投射される──
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