第八章 廃糖蜜のお酒を、いつか

第一節 風変わりな珪素騎士

 どれほどの時間が経過したのか、数えるのも億劫になるほどの虚無を経て。

 私とヴィーチェは、お互いにすれ違っている部分を理解した。


 けれど、ふたりの人間が十全に、相互を理解し得るほどの時間が経過しても、虚空への落下は終わることなく。

 やがて我々は、緩やかに思考を停止させた。


 まどろみのなか、いくつもの夢を見たような気がする。

 延々と気息を巡らせ、技のキレを磨く夢。

 睦言のように甘く罵り合い、相手を深く理解する夢。

 故郷の夢。

 胡蝶の夢。

 大きな海原に、身を委ねるような、夢。

 白い竜と赤い竜が殺し合い、赤い竜が地に落ちる夢。

 赤が、闇黒に染まる夢。

 そして──黄金。


 ヴィーチェに甘えること。

 母親のはらに抱かれるような安堵は、私のすり切れかけていた精神を確実に補完してくれた。


『随分と強くなったのね……いったい、いくつの拡張躯体を?』


 見つけたものはすべて。

 細かなものが多かったが、八つぐらいか。


『なら、おおよそ全部ね。その旅の間、功子差動増幅飾帯〝フェンリル〟を、どのくらい使ったの?』


 奇妙な反響とともに妖精が語りかける言葉に、私は無自覚に返答する。

 限定装置の解除を、二度まで行ったと。

 三度解放したのは、いかに珪素騎士との戦闘でも最強者たるキャスが現れたあのときだけだと。


『……そのとき、功子が尽きたりしたことは?』


 貴様がいないときに、そんな無茶はしない。

 私の為すべきことは、廻坐乱主の討滅。

 だとすれば、志半ばに朽ちるなど、許されることではない。

 今日が明日を作るのなら、立ち止まってはいられないのだから。


『ポジティヴで結構。そうして、幸運だったわね。いい、キリク?』


 妖精が、眠りに落ちる間際、神妙な声音で言った。


『何があっても、功子がゼロの状態で暴食機関フェンリルを使わないで。


 意味はわからなかった。

 彼女の言葉の真意を理解できないのはいつものことで。

 そして、それが真摯な言葉であることも、いつも通りで。


 だから首肯を返す。

 すると彼女は、安堵したように相好を崩し。


『ありがとう。それじゃあ、そろそろ到着よ』


 次の瞬間、全身を衝撃が貫き。

 そして──私は意識を覚醒させる。


「な──なんであるかー!」


 叫びながら跳ね起きると、全身が重く、痛い。

 だが、気にする暇はなかった。

 なぜなら、それまでずっと闇黒に閉ざされていた小さなへの扉が、ゆっくりと左右に開き。

 そうして、一条の光が差し込んできたからだ。


「ようこそ、キリク」


 導きの魔女が、肉声で言った。


「励起領域と対を為す、ここが基底──ディスの領域よ」


 まぶしさに細めた両の眼。

 やがて明順応した視界が捉えたのは──


「な、なな、な──!?」


 何処までも一面に広がる、そこは機械の樹海だった。


§§


 〝渓谷〟という言葉で、どれほど適切に表現できるかはわからない。

 巨大な四角い煉瓦ブリックを、無数に並べたとする。

 当然、谷と山ができあがる。

 けれどその谷は地の底まで続くがごとく見通せず。

 山は、航空母艦の甲板を倍してもまったく足りない巨大さだ。


 そんな大渓谷が至るところに存在するテーブルの上に、私とヴィーチェはぽつりと立っていた。

 テーブルの上には、樹木が生い茂っている。

 弩級構造体の堅牢無比な外郭に、無数のコードがより合わさりながら根を張っているのだ。

 ……違う。

 構造体を形成する配管やコードの類いが依り合わさって、根を形成している、とすれば正しいだろうか?


 太い根の上にある幹は、いくつかの節が連なる形。

 ときおり脈動する節の隙間からは、配線や歯車、タービンが覗き、ふた抱えほどもある。

 枝はピストンで出来ており、ときおりガチガチと音を鳴らして伸縮する。


 葉っぱは発条ゼンマイ、あるいはソーラーパネル。

 枝の先からは、大きな袋のついた懐中時計のようなものが実っている。


「……食べられるか、これは? 害もなく?」

「そこ? まず確認するところがそこ?」


 呆れたという様子でヴィーチェが天を仰ぐ。

 そこで、私も気がついた。

 この区画は、少しばかり明るい。


 よどんだ機械油の臭いがするのは相変わらずだが、腐敗臭がない。

 生き物の臭いが全くない代わりに、陽光のようなものが降り注いでいる。

 そういえば、エレベーターの扉が開いたとき眩しく感じたが、あれは視覚が暗順応していたからだけではなく、実際に光が見えたからだったのだろう。


 見上げる天井は遙かに高いが、ピントをいじると光源が確認できた。

 無数の透明な袋のようなものが天井を覆いつくしており、それがときおり身震いし、まばらに青色の光を放っているのである。


 今更になって気がつくが、外気温が異常に低い。

 雪の一つも降りはしないが、指先がわずかに凍り付いている。

 関節が、ギシギシと悲鳴を上げる。


「キリク。奈落を下ってくるうちに、功子の運用には慣れたでしょ?」

「……キャスの真似をしろというのか」

「あららぁー? キリクったら、いまだに最強の珪素騎士には、足下にも及ばないのねぇー? これはちゃんちゃらあはは──」

「やる」


 煽られるまま、全身の経絡を活性化。

 まずレイヴンを両腰に顕在化し、功子制御を補助。

 装甲を展開するのに近い感覚で、薄く、薄く功子を身に纏う。

 功子皮膜。

 展開してみれば、それは大気を着るのに近かった。

 寒さが、一気に遠ざかる。


「よくできましたっと。さて、冗談はともかく、この区画には、あまり長居したくないものね」

「先を急ぐというなら、理解もするが?」

「先を急ぐし、拡張躯体の波動もない。空気も冷え切ってるし、無駄足は避けたい。でも、あとを考えると補給とあなたの動作チェックはしておきたいしなぁ……と?」


 ブツブツと独白するヴィーチェだったが。

 それも長くは続かなかった。

 機械の樹木に実っていた懐中時計が、一斉に鳴り響き始めたからだ。

 困惑している間に、状況が動く。


 周囲から駆動音が無数に聞こえてきたのである。

 多脚戦車、ドローン……いや、違う。

 このうるさい音は──


「DODODODODODO──発見、発見、侵入者」


 轟くような異音を発しながら姿を現したのは、十を越える影だった。

 一瞬、私はそれを〝ひと〟と呼んでいいものかどうか、悩んでしまう。


 屈折した靴べらのような脚で、跳ねるように動き。

 回転する金属のアームを持つ人型のナニカ。


 背中には発動機を背負っており、それが、けたたましいエンジン音が鳴り響かせている。

 顔があるはずの場所には四角いディスプレイが鎮座していて、蛍光色の記号が表示されているのだ。


 記号は戯画化された顔のようにもみえた。

 いまは、両目を斜めにつり上がらせ、警戒をあらわにしている。……ような気がする。


「わぁお。顔文字なんて懐かしいものを」

「知っているのかヴィーチェ」

「……いえ、知らないわ。でも、彼らが何者かは知っているつもり」

「なんだ?」

「極致に適応するため肉体を捨てざる得なかったものよ」


 短く言葉を交わす間にも、彼らの包囲網は狭まっている。

 抵抗するか? なすがままになるか。

 残り少ない功子で緊急離脱するかと考えたところで。


「ヴィーチェ!」

「──ッ!?」


 私は、反射的にヴィーチェを抱きかかえて、その場から跳躍していた。

 寸毫のあと。

 今の今まで私たちがいた場所に、巨大な質量が激突する!

 巻き上がる瓦礫。

 粉砕される機械樹の森!


「巨人!」

「いいえこれは──珪素の……!」


 樹木をいくつもなぎ倒し、一個の砲弾のように墜落してきたそれは、天を衝く威容。

 丸太のような豪腕と、小山二つ分もありそうな質量の、巨大な人型だった。


 片膝をつき、拳を地面へとたたきつけ、地割れを起こす巨人。

 否。

 これは、明確にひとではない。


 例外的な全身鎧。

 けれど、その隙間から覗く色のない肌と、なによりも伴う高密度のプレッシャー。

 人間ではあり得ない、超々高密度の筋繊維──素材からして違う豪腕と、巨躯の意味するもの。


 金髪の巨人、間違いない、こやつは!


「珪素騎士、であるか!」


 私は、即座にレイヴンを活性化させ、迎撃態勢に移ろうとした。

 した、のだが……


「──う」


 う?


「う、うう、ううう──うわぁあああああああああああああああん! 奇襲に失敗したよぉおおおおおおおおおおお! もう追い返せないよぉおおお、僕らの負けだよぉおおお! ごめんねぇえええええええ!!」


 バリバリと機械森林が粉砕されるほどの、大声量。

 つんざくように轟く大声に思わず両耳を押さえるが。

 正直なところを言えば、あんぐりと口を開けていることしかできなかった。


 なぜならその珪素騎士は、あまりにも情けない声音で。汚い高音で。

 情けないを、上げ続けていたのだから。


「たしゅけて、僕の女王おおおおおおおおおおおお」


 かくして、私は風変わりな珪素騎士と出会った。

 情けなくて、臆病で。


 ──けれど、もっとも心優しい騎士と。

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