第六節 アビス十三万時間
「軌道エレベーター。動力源はブラックホール昇華式第二種疑似永久機関。功子によって巨大質量を亜高速で回転させ発生させたマイクロブラックホールからは、ジェット気流が流れ出す。このマイクロブラックホールを風車の両端に設置することで、事実上無限の回転を発生させ、莫大なエネルギー出力を得ているの。ブラックホールはすぐに蒸発するけど、それをさらに熱量へと置換──再度ブラックホールを生み出しているわ」
「説明する気がないのなら、ご託を並べても仕方あるまい」
「……わかりやすくいうと、羽の両端にロケットがついていて無限に回る風車よ」
「それならわかる」
「はぁ……つづけるわ」
なぜかため息をつき、気を取り直したように顔を上げるヴィーチェ。
そこにはもう、気弱そうな影はない。
「えっと……軌道エレベーターは下層までの直通路。十九〝京〟キロメートルほどもノンストップで降下を続ける虚空の箱よ」
……待て待て待て。
京?
一億、一兆の次の、京?
「そよ」
「そよ、ではない。貴様、言っただろうが物理女。私の旅路は五十六億七千キロメートルだとかなんだとか」
「歩いて踏破するべき距離がそれ、と言うだけよ。実際には途中に圧縮された……いえ、存在しないと定義すべき空間があるの。そんな危険きわまりない虚無を渡るためのエレベーターシャフトよ。当然材質は、弩級構造体と同じで──」
頭が痛くなってきた。
それだけの要所ならば、恐らくフォース功流の最大投射でもなければ破壊できまい。
万が一の脱出手段などはなく、出口までは降りることもままならないと言うことか。
「そういうこと。物わかりがよくなってくれて助かるわ。で、アンタの功子はほとんど空っぽ。……ずいぶん苦労してきたみたいだから、そのちょっぴりの功子でもアンタは機能停止しないんでしょうけど。でも、脱出は出来ない」
だから、ここでひとつの問題が生じると、彼女は言う。
「時間に換算して、約──四億七千三百四万セコンド。移動距離としては破格中の破格の経過時間だけど……あたしとキリクは、この閉鎖空間に閉じ込められることになるわけ。しかも、刺激と呼べるものがほとんどない、闇黒のなかにね」
事実、彼女の手の中に存在する小さな小さな光源は、いまにも消滅しそうなか細い灯りでしかなかった。
斥力場を逃れたというのに、身体にかかる荷重から、確かに降下しているのが解る。
ヴィーチェの言葉が本当なら、私はひどく長い時間を闇黒のなかで過ごすことになるのだろう。
……密林に従軍していたときのことを思い返す。
あの場所は、無音でこそなかったものの、夜は暗闇そのものだった。
いつ何者が襲いかかってくるとも知れないという緊張は、精神というものを容易く摩耗させていった。
敵がいないのだとしても、夜の闇が心にもたらす変調は、予測できる。
なにせ、本当にヴィーチェぐらいしか、この空間には刺激と呼べるものが存在しないのだ。
加重と、外から響く重低音は常に一定で、慣れるのは時間の問題だろう。
鍛錬に明け暮れたとしても、いつかは心が砕ける。
一年近い時間を真っ暗闇で過ごすという事実は、ぞっとしないにもほどがあった。
「だから、提案があるのよ、キリク」
私が考えをまとめるのを待っていたのだろう。
ヴィーチェが神妙な表情で、口を開いた。
「私と──〝直結〟してくれない?」
§§
……いやらしいことを想像しなかったわけではない。
私の肉体は幼女そのものだが、精神構造は成熟した日本男児だ。まだそのはずだ。
だから、女性のほうから言い寄られれば、いかに己を律する精神があろうとも、多少は想像力というものが働いてしまう。
健全な男だ、規律が云々よりも屹立が先に立つ。
だが、彼女の提案したものは、私がほのかに抱いたものとはかけ離れた……言うなれば、突飛きわまりないものだった。
「セントラルドグマ直結型概念継承性知性体。それがあたし、ヴィーチェ・ル・フェイ。導きの魔女。あたしには、極限環境下で長期間活動するための感情凍結機構と、有線接続した相手の精神を補完するキーピング能力が備わっているのよ。噛み砕いて言うと、心を守ることが出来る」
つまりはそれを使うことで、この異常な環境でも私の精神を保護しようと言うのである。
「これによってあたしのパーソナルも照応的に保持できるし、あなたはその時間を有効活用して功子運用に熟達したり、神経回路を鍛えたりできる。
ノットアンダースタン。
全然、これっぽっちも仕組みがわからない。
けれども、相手が嘘をついているかどうかぐらいは、私も判別できる。
功子の扱いを学ぶうちに、それは〝味〟という形で強く認識されるようになった。そう、これまでより強くだ。
いまのヴィーチェからは、なぜか甘酸っぱいものを感じてしまう。
……おもえば、だからこそ情動を覚えたのかも知れない。
一度自分に問いかける。
おまえは超長時間、闇の中で精神の均衡を保てるような超人であるのかと。
答えは〝否〟だ。
私に備えられている機能は、勅に従い廻坐乱主を殺すという一事のみ。
であれば、それ以外は誰かに補って貰う必要がある。
ならばそれは。
それならば、彼女がいいと思った。
ヴィーチェに任せたいと、私は感じた。
「了承した」
だから、ゆっくりと頷いたとき、彼女がまたくしゃりと顔をゆがめたのを見たとき、どうにも言葉に出来ない感情が、心を揺るがしたのをよく覚えている。
そうやってドギマギしていると、
「じゃあ、はい。これ、繋いで」
彼女が、ナニカ細長いものを差し出してきた。
……尻尾だった。
彼女の臀部から生える、あのあからさまにあからさまな尻尾だった。
……えー?
「えー? じゃないでしょ! これ以外に有線ケーブルなんてないでしょ! 功子で作るだけの余力だってないじゃない!」
「だが、え? これを私に、どうしろと?」
「沼の街で見たでしょうよ。へそに差し込むのよ!」
────。
「やめてー! 自分でも変なこと言ってるのは理解してるから、どうしようもない哀れなものを見るような目つきはヤメテー!? 落ち度ポイント六百点!」
頭を抱えてのたうち回るヴィーチェ。
存外に元気そうだ。
さて、そんな目つきをした覚えはないが、こいつの頭がどうかしているのは知っている。
その上で、信頼すると決めたのも、私なのだから。
「はぁ」
大きく息をつき。
「……っ!」
覚悟とともに、尻尾をへそに押し当てる。
ぐにゅりと。
それはキノコに針を押し込むような感触とともに、私の内部へと侵入した。
熱感。
聞こえるのは、音。
どくん、どくん。
拍動。
私の心音ではないなにかが、尻尾を通じて、繋がる、同調する。
「ありがとう、信じてくれて。さあ、ゆっくり目を閉じて頂戴、キリク」
言われるがまま、目を閉じる。
相変わらず無数の数値や読み取れない文字、グラフが並ぶ視界の中。
閉じた瞳の暗闇のなかに。
蒼銀の髪の妖精が、微笑んでいた。
ああ、と。私は息を吐く。
それから、なるたけ心穏やかに、こう告げたのだ。
「おかえりと、君にはずっと言いたかったのだ」
「……ええ、ただいま、キリク」
「久闊を叙する時間は」
「ご明察。これから嫌ってほどあるのよ。だから、ね?」
柔らかな表情で、ヴィーチェは笑った。
「つらかったこと、悔しかったこと、美味しかったこと……離ればなれだったときのこと、たくさん語り合いましょうね……?」
かくして私たちは。
巨大な弩級構造体の下層へと向かうために。
小さな世界へと、引きこもったのだった。
『糸、いと紡ごう、夢見る卵。明日、あす織ろう、模様は世界──』
『ゆりかご揺らそう、巣ごもり
彼女の優しい歌声が、いつまでも、いつまでも響いていた。
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