第五節 闇黒の軌道エレベーターのなかで

 今日が明日を作るなら──彼女の未来は、永遠に喪われたのだろうか?

 私の伸ばした手は空を切り、ついぞ届くことはなかった。


 巫女を名乗る少女と、顔を合わせていた時間はそれほど長くない。

 それでも、私は確かに彼女と言葉を交わし、笑い合い、一緒に飯を食った。


 だからだろうか。痛切に、薄っぺらい胸が痛む。

 ……似ていたのだ。

 瓜二つ、だったのだ。


 あの日、あのとき、あの場所で。

 私が未来を託した、あの少女に。

 巫女殿は、とてもよく似ていたのだから──


「キリク! シャキッとしなさい! ネバー・セイ・ネバーよ!」


 決して諦めるな、と。

 颯爽とした声が、闇黒のなかで響いた。

 巫女殿に投げ入れられた閉鎖空間。ゴウン、ゴウンと、奇妙な音だけが響く暗闇のなか。

 この場所にいるのは私と、そして。


「ヴィーチェ」

「フヌケタ声を出すんじゃあないわよ。いいから、立ち上がりなさい。立ち上がらなきゃ勝利はないスタンドアップ・フォー・ザ・ビクトリー、よ!」

「……だが、私は」

「──そう」


 ヴィーチェの声音が、急速に温度を失う。

 鋭利な冷たさが、私の頬をかすめた。

 ぬるい血が、こぼれ出すのが解った。


「なら──あなたを殺すわ」

「っっ」


 一瞬で悟る、本気だと。

 この闇黒──エレベーターシャフトがどのようなものか、私は把握できていないが──そこにある唯一の殺意が、彼女のものだった。

 拡張刃衣を展開したのだろう、微妙な重力の変動に、私の身体が震える。


「殺すわ」


 繰り返される言葉。


「がぁっ!?」


 突如降りかかってきたのは、漬け物石を百も積まれたような大加重。

 重力の大投射。

 動けない身体が、矮躯が、圧壊寸前までプレスされる。

 まるで、巨大な岩山を背負っているような絶望的な重み。


 漆黒の紫電がほとばしり、周囲の様子が断片的に、バチバチと浮かび上がる。見えたのは、鬼女もかくやというヴィーチェの凶相。

 重力操作による、圧壊攻撃!

 呼吸が、出来ない……! これでは、功子の運用が……!


「どうしたのよ? なけなしの功子を振り絞りなさいよ。あたしがいない間に、随分習熟したんでしょ? レイヴンの片割れも見つけたみたいだし、他にもいろいろ、拡張躯体を集めたようだし──熟達したんでしょ、節約と制御のすべに」

「ぐ、うう」

「……反撃しないの? 問いただしもしないの? なら、諾々だくだくとそこで死になさい」

「き」

「なに」


 貴様は。


「なにをそんなに……妬んでいる?」

「────」

「──っと」


 全身を圧壊せんとかさねられていた重力の投射が、嘘のように消え失せる。

 押しつぶされていた肺腑が活動を再開し、私は大慌てで空気を貪った。

 息苦しさに喘ぎながら、もう一度だけ問いかける。


「なにに、怒っている? なにを、羨んでいる? 貴様は、なにを嫉んで──」

「う、うっさいわね!」


 ぷいっとそっぽを向いたのが、暗闇のなかですらわかった。

 そのまま、しばらくの時間が経過して。

 ぽつりと、小さな灯りがともる。


 ヴィーチェの手の中で、無機質な光が燃えていて。

 彼女の、なぜだか赤面した顔が、照らし出されて。

 陰影が、揺れる。


「……どーゆー関係よ」

「なにが」

「あの娘と」

「だから、なんの?」

「──あの小娘と何処まで関係が進んだのかって訊いているのよ!」


 理解不能だ。

 なぜ彼女は、ヒステリックにわめき立てる?

 

「あなたとあいつがいい感じなるとか、あってはならないことなのよ! 渦動因果録アカシックレコードに対する叛逆、いえ──むしろ許されない運命の分岐! 功子の性質的にはありでも、あたしはそれが我慢ならない! ──」

「浮気?」

「な、なななななななな、なーんでもないのですけれどもねー!? おほほほほ……キリクさんの聞き間違いでは? あなたの耳は、別に秀でているわけでもないし、ね? ねねね?」

「…………」


 あからさまに取り乱し、狼狽を隠そうともしないヴィーチェ。

 物理女にあるまじき、どうにも統合性のとれない言動。

 復活したてだからだろうか?

 どうにも情緒不安定な彼女に、私は目新しさを感じてしまって。


 ジッと見つめていると、ヴィーチェはやがて、泣きそうな顔で俯いてしまった。


「ヴィーチェ。私は」

「黙って」

「私は、君を」

「黙らせる!」

「──っ」


 押しつけられる、熱く柔らかな唇。

 情熱的な彼女の口づけで、私は言葉を封じられ。何を言おうとしていたかも忘れてしまう。

 吃驚を覚えている間に、熱い舌が閉じた歯をこじ開け口腔に侵入し、いつかのように唾液を送り込んできた。


 そういえば、いつぶりにまともな水分を補給するだろうか。

 喉を鳴らして嚥下するという行為が、こんなにも快楽を伴うことだということを、私は久しく忘れていた。


 功子を絞り尽くされカラカラに乾いた身体は、私の意志とは無関係に水分摂取という背徳的な行為を続ける。

 餓えていたのだろうか、乾いていたのだろうか。

 なにより、ひょっとすれば私は、凍えていたのかも知れない。


 気がつけば、大柄なヴィーチェの身体を、そっと抱きしめていた。

 お互いの熱が、交合する。

 随分久しぶりに感じる、彼女のぬくもり。


『離したくない。ずっと繋がっていたい。あなたを、抱きしめていたい』


 渇望の言葉と共に。

 彼女の頬を伝った液体が、そのまま口腔まで滴り落ちた。

 浅ましく舐め取り、顔を上げれば。


 もう、いつもの魔女が、そこにいた。


「状況を説明するわ、キリク」


 彼女は落ち着き払って、こう言った。


「この小さな箱は軌道エレベーター。虚無のなかを永劫に近い時間落下し続ける──棺桶のようなものよ」

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