第二節 水分、接吻、サバイバル

「──ッ!?」


 ハッとする。

 気を失っていたのはどのくらいか?

 一分か? 二分か? それとも数年単位か?

 確実に消失しかけた意識を、なにかが呼び戻した。


 なにか、熱く柔らかなものが、私の口に触れている。

 そこから、とろとろと、とろとろと、熱が流れ込んでくる。

 熱く、そして甘い水が。

 私は、それを夢中で貪った。


 飲んで、飲んで、飲み下した。

 たりなくなれば舌を伸ばし、浅ましく求め続けた。


 甘露。

 これを甘露と呼ばないのなら、この世に価値などない。

 そう思えるほど、与えられる水分は急速に私の身体へと浸透し、やがて、意識をはっきりとさせていく。


 視覚が光を取り戻したとき、はじめに見えたのは顔だった。

 視界いっぱいに映る、目を閉じ頬を上気させたヴィーチェ・ル・フェイの顔──


「ふ、不埒ふらちな真似を!」


 反射的に、私は彼女を突き飛ばしていた。

 私は、浅ましくも彼女と舌を絡ませあい、口を吸い合っていたのだ。

 接吻していたのである。


 突き飛ばされ尻餅をついた彼女からは、なぜか非難がましい視線が飛んできた。


「なによ、あたしに落ち度でも? これは救命処置なのだけれど?」


 なにが。なにが救命処置なものか、大馬鹿者。

 慎みというものを知らないのか。大和撫子かどうかは知らないが、恥じらいはないのか貴様は。人間としての倫理は!

 ひとの寝込みを襲い、意識が昏倒していることを幸いに接吻してくるなど、言語道断で──


「──? なにを勘違いしているのか知らないけれど、あたしは水分を摂取させていただけよ?」


 ……は?


「言ったでしょ。この世界で水分は、ひどく貴重なの。でも、珪素騎士の躯体を獲得したことで、幸いにも供給する方法ができたわ」


 彼女曰く。

 大気中に微量存在する水分を、珪素の躯体は常に吸収しているらしい。

 また生物的な反応にも使用しないため、持て余すのだという。


 簡潔に言えば、彼女は水気すいきを集め、水を作ることができ、そしてそれが要らないのだ。

 だから、私の命をつなぐために提供したと。そう述べるのである。


「そんなトンデモを信じろと?」

「信じる必要はないけれど、今後どうやって水分を摂取するつもり? 人体が定期的に水分の経口摂取を必要とする、ということを失念していたのはあたしの落ち度だけど、それとこれと話が別。都合がよく飲水に適した湖なんてないわよ」

「……海豚を育てている湖があるとか、おまえは言っていなかったか」

「あるわよ、最下層近辺に」


 天を仰ぐ気持ちだった。

 どうやら私は今後、喉が渇くたびにこの女と接吻しなければいけないらしい。

 廻坐乱主を殺すためとはいえ、これはあまりに苛酷なことだ。

 天皇がいないいま、やはりこの世にまっとうな神はいないらしい。


「まあ、でも安心して頂戴。このあたし由来の〝ヴィーチェ水〟は無毒で無菌。完全にクリーンな水分なので!」


 なにも安心できない。始末にも負えない。

 私は深く、ため息をつく。


「それで……ここはどこだ?」


 思考を重ねることだけが、正気を保つすべだ。

 なんとか精神の均衡を保った私は、そこでようやく、周囲の状況に気を配る余裕を持つことができた。

 私が寝かされていたのは、奇妙な場所だった。


 周囲から隔絶されているという意味では、クローンが住んでいた穴倉に近い。

 構造体の奥まった位置にあるらしく、外では磁場嵐が吹き荒れているが、内部にまで風が吹き込んでくる様子はない。


 何かに掘削されたような、不自然な洞窟である。

 足下は酸で溶かされたように奇妙な模様ができている。

 なんといったか、マーブル模様というやつだ。

 金属となにかが混ざり合っているような、そんな材質の床。


 一方で、奥は行き止まりであった。

 そうして、その行き止まりの材質は、ほかのどれとも違うものだった。


「……この世界に来てから何度となく繰り返しているセリフを、もう一度だけ口にしてもいいか」

「なによ?」

「なんだ、これは?」


 いい加減。

 いい加減驚くのにも疲れてきたが、しかし。

 それはどうにも、不可解なものだった。


 肉の壁である。

 それも、脂肪など欠片もない赤身だけでできた肉の壁が、ドクンドクンと蠕動ぜんどうしながら、洞窟の奥を埋めていたのだった。


 おまけによくみれば、表面が波打っているのは、肉だからという理由だけではない。

 ウジ虫のような白い生き物が、肉壁の表面を這いずりまわっているのだ。


 なんだこれ? 以外に、どう疑問を呈すればいいのか、流石に解らない。


「ああ、これはね、キリク。生体充填剤よ」


 充填剤?

 機械の材料と材料の隙間を埋める、あの?


「そう、構造体が破壊されたときに自動的に精製され、自ら増殖して破損箇所を塞ぐ生体充填剤。この壊れ方はちょっとした物ね、功子によるものではないみたいだけど……あ、ちょうどいいじゃない。その功子を補給する方法があるわよ、キリク!」


 名案を思いついたという様子で、笑顔を浮かべる彼女に。

 私は先んじて否を突きつけるのだった。


「いやだ」

「この充填剤の壁を、食べればいいのよ!」

「いーやーだー!!」


 ……私の、帝国軍人としてはふさわしくない、惨めな拒絶の声は。

 磁場嵐の轟音に、あっけなくかき消されてしまうのだった。

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