第二節 構造体探訪録 キリクさんぽ
沈む。
沈む。
ゴポリと吐き出した呼気は、泡となって空に昇ることもなく、同じ速度で湖底へと沈んでいく。
閉じることのできない鼻腔へと侵入した黒い液体は、どこかで嗅ぎ慣れた、炭焼き小屋のような臭いがした。
場違いながら、焼き鳥に近い風味。
沈黙、沈降、沈殿。
なにもかもを飲み込む暗黒の天体のように、ここではすべてが、下へと引き寄せられる。
引力、重力。そういったたぐいのもの。
ろくに鍛練も積んでいない幼い身体で、それでも過去の記憶を頼りに気息を必死に整える。
全身の気を冬眠するように停滞させ、酸素の消費を極限まで押さえ込む。
油は重い。ぶ厚く
培養液の比ではないのだ。手足は鉛どころか、一切動かない。油を掻こうものなら、極小の〝手〟が幾万としがみつき、私をさらに奥深くへと引きずり落とそうとする。
どこまでも。
どこまでも、私の身体は、沈み続けて。
『油面境界まで、3、2──キリク、突破しますよ!
人格が崩壊するほどの時間が経過したと思われたとき、聞き覚えのある涼やかな声が脳裏に響いた。
次いで、ずぷりとなにかを突き抜ける感覚。
私は──沈下を終えて、落下する。
「うぉおおおおおおおお!?」
水中ならぬ油中から、突如何もない空間に放り出され混乱するが、反射的に姿勢を制御。
地面が目の前に迫る中、手足を大きく広げる。
着地するよりも一瞬早く、伸ばしていた手足を縮め、全身を丸めて衝撃を殺す。
そのまま、
……ああ、なんたる無様か。
「い、いまのは逝ったかと思ったが……」
『全身のスキャニング終了。損傷はないですよ、キリク』
どうやら、無傷で着地できたらしい。
呆然としながら見上げれば、天井一面が真っ黒だった。
ときおりその表面が揺れており、ああこれは廃油の海なのだなと理解できた。
どういう理屈かは知らないが、廃油が滴ることもなく空中に溜まっているのである。
『あまりに密度と粘度の高い廃油なので、油滴に分離しないんです。ほら、キリクの全身も、綺麗なものでしょう?』
言われてみれば、全身のどこにも脂っ気がない。
マントも軍帽も、綺麗なままだった。
「決して浮かび上がれないと、貴様は言ったな、ヴィーチェ・ル・フェイ」
『ええ。ですが、底が知れないなんて言った覚えはありませんよ?』
なるほど、詭弁である。
『さて、呼吸も問題がないはずです。転換炉が、体内で調整していましたから』
「万能だな、功子とやらは」
本当に、恐ろしい力である。
だが、これで得心がいった。
帝都で廻坐乱主が見せた数々の奇跡。あれも、功子の運用によるものだったのだろう。
心の底から恐ろしい。
気を取り直して立ち上がった私は、周囲を見渡す。
狭い通路のようで、配線や配管が入り組んではいるが、基本的に通れはする。材質こそ違うようだが、
壁は、鉛とも鋼とも言えない奇妙な色をしていた。
「この壁の素材はなんだ?」
『さあ?』
『解らないのか? 落ち度だな』
『むっ! ちがいますぅー! 複雑な合金なので、一言では言い表せないだけですぅー』
なにをすねているんだ、こいつは。
『それよりも、キリク。生体反応がありますよ。この先からです』
「なに?」
『生物──それも、ある程度の数がいると思いますが。どうしますか?』
どうもこうもない。
私たちは一直線に廻坐を目指すべきだ。
だが──
「それは、人間かも知れない、ということか?」
『否定はできません』
「……よし」
わずかに考えて、私は戯画女が示した方向へと足を向けた。
人間がいるなら、この女と話をするよりも有益な情報が得られるかも知れない。
……そういう建前で。
きっと私は、人恋しかったのだろう。
だから決断を下してしまった。
まだ見ぬ脅威と遭遇するなどとは、夢にも思わずに。
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