第二章 パイプズマイの串焼き
第一節 オイルダイバー ~廃油の大河を超えて~
アーヴ・ロウンは理想領域だと、ヴィーチェ・ル・フェイは繰り返し語ったが、どうにも信じがたいことだった。
功子の最大投射によって空いた大穴を通り、隔壁の外に出た私を待ち受けていたのが、見渡す限りの暗黒。
つまりは廃液の海だったからだ。
吹き付ける風に翻弄される長髪を押さえ、海を眺める。
凪いでいるわけでもないのに、波の一つも立たない、重く暗い海。
『気をつけて、キリク。これは重廃油です。比重がとても重いから、足を滑らせて転落でもしたら、一生浮かび上がってくることはできないでしょう』
極めて物騒な物言いに、眉をひそめた。
試しに、どろーんの欠片を投げ捨ててみる。
泡すらたてることはなく、欠片は漆黒の海底へと沈んでいった。空を飛ぶほど軽い素材が、である。
『アーヴはこの廃油の海に浮かぶ孤島です。それゆえに、侵入者のない理想領域なのです』
「その割には、襲撃されたわけだが」
『…………』
このポンコツ戯画女、都合が悪くなると黙ることを覚えやがった。
衣服を支給されたときにも似たようなことをやりとりをした覚えがある。
彼女から提供された──正確にはアーヴ・ロウンにあった衣服は、じつに皮肉な代物だった。
国防色の上下はまさに軍服で、至る所にボタン、ポケット、意図不明な
左腕には赤字で「誅戮」の二文字が書かれた腕章がついているし、襟を立てれば
マントは短寸で、上半身を覆うのみ。
腰にはナイフや小道具が納められた箱形の鞄が、ベルトにいくつも結わえられていた。
ブーツの靴底には、鉄とも樹脂ともつかない板が採用されていて、床をよく噛む。
外見は、かつての部下たちと同じ憲兵下級士官に似通っているのだから笑えない。
国力に余裕があった頃の軍装なので、なおのこと全く笑えない。
妙に着心地もいいので三重に笑えない。
酷かったのだ、末期の軍服は……。
『わぁ……! やっぱり似合いますね! すっごくお似合いですよ、キリク? ……くっそ腹が立つぐらい設計通りで、〝彼奴〟がベタ惚れしそうな外見で反吐が出るけど』
「なにか聞こえた気がしたが?」
『き、きききき、気のせいです! 落ち度ではありませーん!』
「……ところで、サーベルはないのか。あるいは、拳銃は?」
『けんじゅう?』
わからんか。
「ペストルだ。素手では心許ない」
『ああ、ペストル……弾体射出装置ですか。通常のものであれば、不要です。キリクには、もっと高いレベルでの戦闘が可能ですから」
しかしサーベルは、形だけなら用意できると魔女は言う。
「先回りして言っておきますが、お風呂や洗濯も不要です。老廃物は功子リアクターが全て分解し、功子の補充に回しますし、FAJの転換、衣服の再構築で基本的な破損は自己補填されます。まあ、排出が皆無ではないのですが』
一息にまくし立てられるが、ふつうに意味がわからない。
この幼女の身体に戦闘など無理なのは、先ほどの通りだ。
ならばせめて、護身用に拳銃をと思ったが……弾体射出装置?
おまけに風呂は無用とか……ここでは常識に囚われてはいけないのだろうか?
いや……ペストルだけ通じるのは、意外でしかないのだが。
「しかし」
諸々の疑問を頭から追い出し、仕切り直すように、私は言う。
「襲撃をされたということは。ここから外に出る方法もまた存在する、ということだな?」
これは当然の考えだったと思う。
なにせ、戦車たちは実際にアーヴ・ロウンへと侵入してきたわけなのだから。
『ええ、それは簡単なことです、キリク』
「やけに自慢げに言うではないか。どういうことだ?」
『彼らは〝湧いて出たのです〟』
首を傾げることになった。
この廃油の海からは浮かび上がることができない。そう言ったのは、この女ではなかったか。
それを湧いて出たなど、まるでそこらから生えてきたような──
「前言撤回か?」
『違うわよ! ……違います。何度も言いますが、アーヴ・ロウンは理想領域──弩級構造体の末端に拡張された領域です。ですから、これまでここは、神秘の場所でした。前人未踏、秘匿の地だったのです』
誰も知らない場所であり、さらには侵入も容易ではないから、これまでは見逃されていた、というわけか。
『はい。しかしキリクが目覚めたことを、廻坐乱主は察知したのでしょう。あなたを消去すべく、功子を用いて、斥候である多脚戦車を転送してきたのだと思います。ビコーズ、あたしに落ち度はありません』
「待て」
いまなんと言った?
功子を使った?
誰が? 廻坐乱主がか?
『説明していませんでしたか? 神は、功子のちからを解き明かすことでこの世界を形成したのです。功子は万物に干渉し、作用する全能のちから。ですから当然、彼奴は功子を認識し、操作し、世界を玩具のようにいじり回すことができます。あなたとは違って、熟達した手際で、です』
「…………」
図らずも、私は重苦しい沈黙を返してしまう。
多脚戦車との死に物狂いの戦闘で、私は列車砲にも勝る戦力を手に入れたと過信していた。
しかし、それが
廻坐がちからを使えるのなら、私は単なる下位互換に過ぎないことになる。
『そうですね』
「そうですねって、貴様、そんな他人事のように」
『いいえ、他人事ではありません。あたしにとっても、大事なことです。キリク、確かにいまのあなたは力不足でしょう。しかし、あくまでいまは、です』
「どういうことだ?」
『あなたはまだ、完全な状態ではありません。このアーヴを隠蔽するために切り捨て制限した、無数の機能と拡張躯体があります。それを取り戻しさえすれば──』
すなわち、神とも渡り合えると?
私の問いかけに、彼女は無表情に頷いた。
『そのためにも、あたしたちは出立しなくてはなりません。楽園を出るときが来たのです』
楽園、ねぇ。
ここでのわずかな思い出は、どれもろくなものではないのだが……。
『安心してください、キリク』
妙に。奇妙に優しい声音で。
ヴィーチェ・ル・フェイは、言った。
『悪い記憶は、すぐに上書きされるものなので』
「……待て。待て! 何をする気だヴィーチェ・ル──」
『同意を得ました。それではキリク、佳き旅を!』
「この、ポンコツ女がぁアアアアアアアアアアああああああああ!!」
私の意志を離れ。
またも勝手に動いた手足が、身体を跳躍させる。
ドプン。
……かくして私は、浮かび上がることは不可能と言われた重廃油の海へと、飛び込むことになったのだった。
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