第三節 人類の天敵種

「──というわけで、おまえさんは死んでしまったのじゃ。なに、ちょっとした手違い。殺すつもりはなかったのでな。うむうむ、すまんな! まあ許せ、うん!」


 世界を嘲弄するような、人を人とも思わないような酷薄な。

 そして傲慢な言の葉が、私の鼓膜を揺らした。


 ハッと目を見開くと、なぜだか私は円卓に着いていた。

 周囲を見渡せば、まるで雲の中のように真っ白な空間であり──実際、雲の切れ端のようなものが浮かんでいる。

 円卓の上には鳥の丸焼きや魚の煮付け、里芋の煮っ転がしに肉じゃが、辛み付き汁かけご飯カレーライスなど、豪華絢爛な食事が並んでいた。


 対面には、老人の姿があった。

 肥満体で、白い布だけを羽織り、李白のように長く髭を伸ばした老爺。

 濁った緑色の目玉が──

 縦ではなく横に細い瞳孔が印象的なおきな

 それがニコニコとニコニコと、底の知れない顔で笑っている。


 ……いかにも神。それも、西洋列強の神をもした男が、腰掛けているのだ。

 老人の背後には、どこか不似合いな造形の、巨大な〝門〟が。

 すぐ横には、最新の蓄音機が鎮座している。


「面妖な技を……貴様が廻坐乱主であるか!」


 恫喝するように叫ぶが、老人は笑みを崩さない。

 彼奴はおもむろに手を伸ばすと、皿の上から雀の丸焼きを掴まえ──頭から、囓り始めた。

 バリ、ゴリという頭蓋の砕かれる音が、あたりに響き。

 噛み砕かれた脳髄が、老人の口の端から垂れ落ちる。


「やはり雀は、脳みそが一番ジューシーじゃのう! 脳だけに! 脳汁だけに!」

「…………」

「ノーリアクションはちょっぴりショックじゃわい。場を和ませようとするわしの気遣いがわからんとはな」


 わからないも何も、英国語を使われても対応に困る。


「なぜじゃ? 敵性言語などと叫んで叩くのは愚かな大衆だけじゃろうに? そうそう、これらの食事はな、その衆愚──」


 なにかを思い返すように、緑色の眼球が裏返る。


「そうそう、わしを信ずるものたちから召し上げたものじゃ。救われたい一心で、己が子に与える飯までわしに献上しおったわ。これから世界を支配するに当たって、当面は役に立ちそうな者どもよ。さて……詫びと言ってはなんじゃがな。どうだ、食わんか、これらの料理? どれも絶品じゃぞー?」


 老人はえびす顔で、こちらに料理を勧めてくる。

 心底可笑しそうでいて、しかしなにかのズレを感じる。

 ひどく胡乱で仕方がない。


「……これから殺す相手に饗された食べ物を、口にするほど私は愚かではない。なにより私は──」


 あの握り飯を腹に入れたのだから。

 身体はともかく、少なくとも心は。


「腹が、いっぱいである」

「むぅ、それは残念じゃ。やはりおぬしが相手では、としてのわしに陰りができるのぅ」


 老人は、そばにある蓄音機をのぞき込み、操作しながら言った。

 やがて、聴いたことのない音楽が鳴り始める。精緻でありながら、おおざっぱであるような……この老人そのものであるような曲。

 ときおり雑音の混じる、奇妙な楽曲。


「知覚者?」

「ふむ、超越者と言い換えてもよいし、わかりやすく〝神様〟と呼んでもよいぞ?」


 なるほど、やはりこやつこそ逆賊か。

 現人神を僭称する大罪人。

 廻坐かいざ乱主らんすで、間違いない。


「さて、確かにわしは廻坐乱主じゃが……むむむ、おぬしの心はノイズがひどくてのう……うむ、決めた。やはり殺してしまったのはこちらの手違いじゃ。と言うわけで、生き返らせてやろう」


 なんだと?


「生き返らせると言ったのじゃ。それに、いくつか特典をつけてやろう。神様からの贈り物じゃぞ? ありがたく頂戴せい。そうじゃなあ、例えば──」


 言って、老人は手のひらをこちらへと突き出した。

 ──そうして、私は恐ろしい光景を目撃する。


 ポロリ、ポロリと、老人の指先から、なにかがあふれだす。


 米粒。

 米粒だった。


 無数の白米が、指先からこぼれ落ちるのだ。

 それだけではない。

 肉が、野菜が、魚が。

 貴重な砂糖や香辛料が、果ては葡萄酒までもが滴り落ちる。


「な──なんだ、それは!? 何をしているのだ、おまえは!」

「何をしているのかと問われれば、奇跡を起こしているに決まっているのじゃ」


 奇跡……!

 奇跡と言ったか、こやつは!?

 ああ、しかしそうだろう。これを奇跡以外の言葉で言い表すことは不可能だ。


 日ノ本の過去を読み解いても、現在を読み解いても、このような仕儀をなすものを私はほかに知らない。その呼び名を、ほかには知らない。

 おまえは、おまえは!


「廻坐乱主! おまえはいったい、なんなのだ!?」

「決まっておろうが──わしは〝神〟じゃよ、〝神〟」


 会心と言った具合に、そやつは笑う。

 嘲るように、挑発するように、わらう。


「おぬしは腹がいっぱいじゃと言ったな? しかし、それは一過性のものじゃろう。もしもわしの詫びを聞き入れてくれるのなら、未来永劫、餓えることのない食事を与えてやってもよいのじゃぞ?」

「餓えることのない、食事」

「ほかの者どもは知らん。わしが殺したわけではないし、十把一絡げの価値しかないからの。しかし、おぬしは別じゃ。特別じゃ。わしが選ぶに相応しい。だから救ってやろう。尽きることのない、飯をやろう!」


 ゴクリと、喉が鳴る。

 当然だった。

 当たり前だった。

 今日まで私が、なにを体験し、何を見てきたと思っている?


 どんな苦渋を味わってきたと思っている、廻坐乱主?


 いま、帝都ではどれだけの人間が飢餓に苦しんでいるか。

 戦に負けたこの国が、今後どれほど苦しむことになるのか。

 シベリア抑留から帰還する同胞たちが、如何なる地獄を見るのかなど。

 想像するにたやすい。

 餓える、乾く、餓えて、死ぬ。


 地獄とは、常に人間の頭の中にある。

 想像できる程度の、理解できてしまう程度の苦しみこそが、地獄だ。


 であれば、固唾を飲むのは当然だった。

 私がなにをすべきかは、当然決まっていた。

 当たり前とは、このこういうことを言うのだ。


「どうじゃ、うん? 早く生き返りたくなったじゃろう、有木ありき希戮きりく? わしのそばにあれば、望みは何でも叶えてやるぞ?」


 言いながら、神を自称する老人は、手に持っていた雀を一囓り。

 そうして、それを、適当に投げ捨てる。

 まだ肉がついている骨を、投げ捨てる。


「……廻坐乱主。一つ、問いたい。おまえが神であるならば、絶対に答えなければならない問いかけだ」

「ほう? 興が乗る物言いじゃな。言ってみよ、特に許す!」

「おまえは……」


 神として、なにを司る?


八紘一宇はっこういちう


 老人の答えは、あまりに簡潔で、明白であり。

 それ故に畏れるにはあまりあるものだった。


 ほんの数日前、それはGHQによって禁止されたものだ。

 世を神のもとにある家として、すべてを平等に扱うという思想。


「天皇が、世の全てのひとを思って唱えた思想! それを、おまえがかたるのだな、廻坐乱主!」

「うむ! わしは神であるからして、天皇よりも偉いのじゃ!」


 ああ、ならば決定的だ。もはや問答の余地はない。

 総身が理解する。

 全精神と本能が、手を取り合って絶叫する。

 背筋を這う怖気おぞけが、正しく怒りを発露させる。


 ──これは、人類の天敵種である、と。

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