第2話 秋

「それで、女郎花おみなえしって結局なんなの?」


 学食のテーブルに突っ伏しながら、友人は頬を膨らませてそう問いかけた。


「……秋の七草の一つの、黄色い花だね。合弁花類オミナエシ科オミナエシ属の多年生植物」

 

 かけうどんの汁を飲み干してから答えると、友人は不服そうに唇をとがらせた。


「それは、もう調べたんだけどさー、今度の試験で聞かれるのって、そういうことじゃないでしょ?」


「それは、そうだろうねー」


 はぐらかすように答えると、友人は再び頬を膨らませて、もう、と呟いた。


「少しは、風邪で講義に出られなかった可愛い友人に力を貸してくれてもいいでしょ?」

 

「可愛いかどうかは別として、ノートは貸しただろ?」


 そう言ってはぐらかすと、友人は、うー、と唸りながら、顔を伏せた。

 黒目がちな二重の大きな目、小ぶりな鼻、丸い輪郭という幼さが残る顔立ちは、本人が自覚している通り、非常に可愛らしい。実際に、同じ講義を受けている男子生徒や、アルバイト先の同僚によく声をかけられているらしい。


「ノートだけじゃ分からないから、これから個人授業してくれると、助かるかなー?」


 しばらく顔を伏せていた友人だが、ゆっくりと身を起こすと悪戯っぽい笑みを浮かべた。そして、首を傾げて肩のあたりで切り揃えられた黒髪の毛先を揺らす。確かに、他に意中の女性がいなければ、心を動かされていたかもしれない。


「頼りにしてもらえるのは光栄だね。でも、悪いけど今日は先約があるから」


 そう答えると、友人はあからさまにムッとした表情を浮かべた。


「そんな顔をするなって。今度埋め合わせをするから。じゃあ、今日はこれで」


 友人の反応を待たずに、隣の席に置いた鞄を背負い、ドンブリの載ったトレーを手にして立ち上がった。背後から呼び止める声が聞こえた気がするが、気づかなかったことにしておこう。

 大学の建物を出ると、外は少し肌寒かった。今日は午後の講義がないから良かったが、夕方まである日はコートを着てきた方が良いかもしれない。そんなことを考えながら、校舎の裏にある喫煙所に向かった。

 喫煙所といっても、灰皿とベンチが一つ置かれただけの簡易的なものだ。以前は今よりも学生の喫煙率が高く、それなりに手入れもされていたらしい。しかし、今は喫煙者が少ないためか、真冬以外にはなにがしかの雑草がいつも生い茂っている。

 もちろん、今日も例外ではなく、ベンチの側に黄色い花をつけた背の高い草が生え、背もたれがついたようになっていた。そこに、黒いセーラー服を着た少女がうつむき加減で座っている。


「をみなえし秋の野風にうちなびき心一つを誰によすらむ」


 古今集の中から一首の歌を選び、口遊みながらベンチに座ると、彼女は長い髪を風に揺らしながら顔を上げた。


「ここに生えているのは、セイタカアワダチソウよ。この薄らバカ」


 彼女は切れ長の目に侮蔑の色を浮かべて、そう吐き捨てた。


「はははは、相変わらず君は手厳しいね」


 笑いながらポケットから紙巻を取り出し、口に咥えて火をつけた。息を吸い込むと、独特な煙の味が口いっぱいに広がる。


「でも、季節が秋で美しい女性の周りに黄色い花が咲いていれば、それは女郎花なんだよ」


 煙を吐き出してから、講義で聴いたばかりの内容を口にすると、彼女は深いため息を吐いた。


「随分適当なものね」


「まあ、和歌はナンパの手段みたいなところもあるからね。贈った相手の心に残れば、なんだって良いんだよ」


 ヘラヘラと笑いながら、再び煙を喫む。すると、隣で彼女は眉間に皺を寄せ、薄い唇を一文字に結んでうつむいた。長い髪の隙間から、白い首筋が覗く。

 痕をつけたらさぞかし映えるだろう、などと邪なことを考えながら、首にかかる髪を一房手に取った。手触りは滑らかで、ほのかに整髪料の甘い匂いがする。

 彼女は抵抗することなく、髪を触らせてくれていたが、不意に小さくため息を吐いた。


「……それ、いい加減に辞めないの?」


 彼女はゆっくりと頭を上げると、呟くように尋ねた。顔は正面を向いたままだが、視線だけはこちらの手元に向けられている。確かに、あまり体に良い物ではないか。それでも、


「まさか、君にそんなことを言われるとは思わなかったよ」


「別に。本当は辞めたがってる気がしただけだから」


 彼女はそう言うと、視線を虚空に戻した。


「そんなことないよ。だって」


 喫煙を辞めてしまったら、ここで君に会えないじゃないか。


 そう告げようとした瞬間、名前を呼ぶ声が聞こえた。

 声のする方に顔を向けると、財布を手にした友人が笑顔で手を振っていた。



「食堂に財布忘れてたよー」


 友人はそう言いながら、こちらに駆け寄ってくる。慌てて紙巻の火を灰皿の縁でもみ消す。それと同時に、彼女は立ち上がった。


「……じゃあ、私はこれで」


 彼女は小さく呟くと、ゆっくりと歩き出し、駆け寄ってくる友人とすれ違うように去って行った。一方の友人は、彼女に目を向けることもなく足を進め、目の前に財布を差し出した。


「はい。これ」


「……どうも、ありがとう」


 満面の笑みを浮かべる友人に、こちらもわざとらしい笑顔を向け財布を受け取った。すると、友人は眉を顰め、口角をあからさまに下げた。


「わざわざ持ってきてあげたのに、その態度はないんじゃない?」


 友人の恩着せがましい口ぶりに、若干の苛立ちを覚えた。財布を届けてくれたのは確かにありがたいが、彼女との時間を邪魔されたのは非常に腹立たしい。


 彼女に会えるのは、もう、ここで煙を喫むときだけだというのに。


 こちらの考えに察しがついたのか、友人は呆れた表情でため息を吐いた。


「また、あの子のこと考えてたの?」


「そりゃあね。彼女ほど魅力的な女性は、そうそういないから」


 友人の問いに答えると、再びため息が聞こえた。


「そう。お邪魔して悪かったね。じゃあ、私は帰るから」


 友人はそう言うと、踵を返して去って行った。

 そうして、喫煙所には私一人が残されてしまった。しかし、新たに煙を喫む気にもなれず、深くため息を吐いてから喫煙所を立ち去った。


 

 一夜が明け、再び食堂でかけうどんを食べていると、背後からカツカツとヒールを鳴らす音が聞こえた。


「お待たせー」


 振り返ると、友人がひらひらと手を振りながら、こちらに近づいている。


「約束した覚えはありません」


 昨日、彼女との時間を邪魔されたこともあり、大げさに不機嫌な表情をして答えた。友人は特に気にすることもなく、楽しそうに笑いながら隣の席に腰掛けた。


「つれないなー。折角、ノートを返しに来てあげたのに」


 友人はそう言いながら、テーブルに上半身を預けて、こちらの顔を覗き込んだ。襟が大きく開いている服を着ていることもあり、胸がひどく強調されている。そのためか、近くの席からチラチラと視線を感じる。


「借りた物を返すのは、人として当然だと思います」


 なるべく、胸元に視線を向けないようにしながらそう言って、かけうどんの汁を飲み干した。


「そんなに冷たくしないでよー。ところで、今日の服、どうかな?いつもと雰囲気変えてみたんだけど」


 友人は身を起こしながら、両手を腰のあたりに当てて、胸を張った。確かに、わざわざ見せびらかすだけあって、古風な黄色い小花模様のワンピースは、いつもと違った雰囲気を醸し出していた。


「うん。似合ってるし、可愛いと思うよ」


「……それだけ?」


 素直に褒めたにもかかわらず、友人はどこか恨めしそうな目を向けた。何か回答を間違えたのだろうか。


「えーと……いつもより大人っぽくていいね?」


 改めて感想を述べたが、今度は小さなため息が返ってきた。またしても友人が期待していた感想とは違っていたらしい。


「もう良いよ。それよりも、はいこれ」


 正解は何か悩んでいたが、友人の方から話題を打ち切った。そして、先日貸したノートが差し出される。


「これは、ご丁寧にどうも」


 ノートを恭しく受け取ると、不貞腐れた口調で、いいえ、という言葉が返ってきた。何を怒っているのか見当がつかないが、深く追求しないことにしよう。今日こそ、彼女とゆっくり過ごしたいから、あまりここに長居をしていたくないし。


「じゃあ、今日はこれで」


「……また、あの子に会いに行くの?」


 ドンブリを乗せたトレーを持って立ち上がると、不服そうな友人の声が聞こえた。


「まあね。昨日はあまり一緒にいられなかったから」


「あんな子の、どこが良いんだか」


 目を合わさずに答えたが、吐き捨てるような呟きに思わず顔を向けてしまった。心外な言葉に、苛立った表情が隠し切れなかった。しかし、友人は悪びれることなく、つまらなそうに頬杖をついて、毛先を指で弄っている。


「君に、彼女の良さが分かるわけないだろうね」


 友人から顔を背けて告げて、食器の返却口へ急いだ。こんな居心地の悪い場所、早く立ち去ってしまおう。


 食堂を後にして、喫煙所に向かった。そこには、昨日と同じように、黄色い花を背に彼女がベンチに座っていた。


「秋ならで逢ふことかたし女郎花天野河原におひぬものゆゑ」

 

 昨日と同じように、古今集から一首口遊みながら隣に腰掛ける。


「別に、秋以外でも会えるでしょ。この薄らバカ」


 彼女はこちらに振り向くことなく、遠くを見つめながら呟いた。


「確かにそうだけど、会える時間は限られてるでしょ?」


 ヘラヘラと笑いながら紙巻を取り出し、口に咥えた。火を点けて、深く煙を喫む。こうすれば、もうしばらく彼女と一緒にいられる。


「……そんなことしなくても、いつだって会えるじゃない」


 煙を吐き出すと、彼女はこちらを向いて眉を顰めた。

 そんなはずはない、だって彼女はもうここにしか居ないんだから。


「ねぇ、いい加減に目を覚ましたら?」


 不意に、視界の外から彼女の声が聞こえた。

 驚いて顔を向けると、そこには眉間に皺を寄せた友人が立っている。慌てて、彼女の方に振り返ると、その姿はすでに消えてしまっていた。またしても、友人によって貴重な彼女との時間が奪われてしまった。

 どうして、コイツはいつも彼女との時間を邪魔するのか。

 睨みつけると、友人は悲しそうに目を伏せた。


「……あんな子の、どこが良いのよ?」


 友人は声を震わせながら、懇願するような表情で尋ねてきた。

 ここで泣かれたりしても、面倒か。


「……華奢な体つき」


 紙巻を灰皿に投げ入れ答えると、友人は唇を震わせながら開いた。


「貧相なだけでしょ」


「綺麗な長い髪」


「美容院に行くのが怖いっていう、下らない理由で伸ばしてたのよ」


「切れ長で、涼しげな目元」


「目つきが悪いだけじゃない」


「物怖じせずに、鋭い言葉を吐くところ」


「人付き合いが怖いから、わざと人を遠ざけるような話し方をしてただけ」


 彼女の良さを答える度に、友人は否定的な言葉を挟んだ。

 彼女との時間を邪魔したくせに、実に腹立たしい。

 あまりにも悲しそうな表情をしていたから、見かねて彼女の良さを説明したというのに。


「さっきから何?どうあっても、彼女のことを悪く言いたいみたいだけど、お前に何が分かるの?」


 睨みつけながら問い詰めると、友人は涙ぐんだ目を見開いた。


「分かるに決まってるでしょ!?あなたが見てるのは、十五の頃の私なんだから!」


 ……何を言っているんだ?


「さっき、言われた特徴が、全部嫌でしょうがなかった。もっと、見た目も中身も可愛くなりたかった」


 意味が分からない。


「だから、パパとママに無理を言って、痛い思いをして見た目を変えた。学校も遠いところを受験した」


 そんなわけない。


「またあなたに会えたときに、可愛くなっていたかったからなのに」


 そんなはずない。


「なんで私を見てくれないの!?」


 これ以上、何も聞きたくない









 気がつくと、友人は仰向けで倒れていた。

 目と鼻と口から水を流し、舌がダラリと垂れ、白い首筋には点々と赤黒い痕がついている。

 何故だろう、もう友人にも彼女にも二度と会えないような気がしてくる。

 でも、きっと大丈夫。

 黄色い花を紙で巻いて火を点ければ、彼女にも友人にもきっとまた会えるはず。

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