花の顔
鯨井イルカ
第1話 夏
ずっと昔、まだ私が少年だった頃、夏休みになると父の実家がある田舎町に帰省していた。
物心ついたときから都会で暮らしていた私にとって、田園や雑木林の広がる風景は冒険心を酷くくすぐるものだった。そのため、その日も麦わら帽子を被り、半袖短パンという姿で、一人探検に出ていた。
私が探検に向かった先は、祖父の家の裏にある雑木林だ。カブトムシやクワガタがよく採れるため、父と一緒に度々足を運んでいた。しかし、一人で訪れるのはそれがはじめてだった。鬱蒼とした雑木林に不安も感じたが、人が通るための道が一筋だけ作られていたため、少なくとも迷うことはないだろうと思った。道に迷うことさえなければ、怖がることなどないだろうと、楽観的な気持ちでいたことを覚えている。
地面に広がる木の根に躓かないように注意しながら一本道を進んで行くと、雑木林を抜けた先には、青々とした草原が広がっていた。
そこで、それに出会ってしまった。
雲一つ無い真っ青な空の下、それは一人で立っていた。
否、一人、と数えるのが正しいかどうかも分からない。
唯、一人、と数えるのが妥当な気がしていた。
若くは、一輪、と数えるべきだったのかもしれない。
ともかく、数え方に迷う程度に、それは奇妙なものだった。
皺の目立つ褐色の肌
眼球の見えない細められた目
ペシャリと潰れた鼻
口角の上がった半開きの口
歪ではあるが、それの頭にあたる部分には、確かにヒトの顔のようなものがついていた。
しかし、一方では到底ヒトとは思えないような特徴もあった。
顔の周りを黄色く縁取る小さな花弁の群れ
眼、鼻、口の孔から僅かに見える茶色い毛羽
緑色の太い茎
左右対称についた葉
顔のようなもの以外の部分については、それは間違いなく向日葵だった。
ジワジワと言う蝉の声が響き、強い日差しに肌を焼かれながら、私とそれは微動だにせず向かい合っていた。
どれほどの時間、それと向かい合っていたかは定かではないが、それから伸びる影の位置はいくらか移動していた気がする。
そんな折、背後からヒタヒタという足音が聞こえた。
振り返ると、半袖のシャツを着て、黒いスラックスと革靴を履いた男性の姿が目に入った。
袖から覗く、血管の浮いた張りのない腕から、男性は老人のように思えた。しかし、それも定かではなかった。
男性の顔一面には、何重にも包帯が巻かれていたからだ。
異様なものに挟まれ、声を上げることもできずにいると、老人の喉が微かに動いた。
「坊や、それが気になるかい?」
僅かに顔を動かして頷くと、老人はクツクツと喉を動かした。多分、笑っていたのだろう。
「それは良かった。良かった」
楽しげな声に、暑さとは関係なく汗が噴き出してくるのが分かった。
「少し前まではね、こんな顔でも職場に出れば皆が笑顔で挨拶してくれたし、妻だって愛想良くしてくれたし、子供達も折に触れて会いに来てくれたんだよ」
老人の言葉ぶりからすると、向日葵についているのは彼の顔なのだろう。
「でもね、定年になってから、誰も挨拶をしてくれないどころか、皆僕の顔を見てすらくれない。妻も、貴方の顔なんて見たくない、と言う。子供達も、孫の受験がどうのと言って、会いに来てくれなくなってしまったんだ」
そう言いながら、老人は一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。
「それが、とてもとてもとても淋しくてねぇ。でも、気づいたんだよ」
老人は私の横を通り過ぎる。ゆっくりと振り返りながら目で追うと、彼は向日葵についた顔に、血管が浮き立った手を添えた。
「こうしておけば、きっと誰かが僕の顔を見てくれるんじゃないかって」
逃げなければいけないと思ったが、足が震えて上手く動かなかった。
「ねぇ、坊や。良かったらこの向日葵を観察しないかい?きっと良い自由研究になるよ。そうだ!何なら、傷が治る様子の観察も」
老人がそう言いながら顔の包帯に手を掛けたところで、ようやく足が動きだした。
私は、叫び声を上げながら無我夢中で走りだした。
雑木林の地面に広がる木の根に躓き、腕や脚は擦り傷や泥にまみれた。
やっとの思いで祖父の家にたどり着くと、祖母が庭先の井戸で西瓜を冷やしていた。祖母は私の姿を見ると、目を見開いて驚き、慌てながら何があったかを尋ねた。しばらくの間は、先刻まで感じていた恐怖と、無事に家までたどり着いた安堵感から泣きじゃくっていたが、祖母に背中を撫でられて段々と落ち着きを取り戻した。
雑木林の向こうで見たものを話せるほど落ち着いた頃には、泣き声を心配した祖父、父、母も私の側にやってきていた。見たものを説明したときに、祖父は酷く苦々しい表情をしていたように覚えている。
その後、定年退職した後に、様子がおかしくなってしまった人が近所にいる、ということを祖父から告げられた。また、雑木林の向こうにはもう近づくな、ということも。
私は祖父の話に黙って頷き、それ以来、一人で探検に出かけることはしなくなった。
その後、しばらくはあの光景を思い出しては震えていた。しかし、時間が経つにつれて恐怖は段々と薄れ、夏休みが終わる頃には、何事もなかったかのように日々を過ごせるようになった。
それから長い月日が流れ、いつしか私は勤め人になっていた。
勤め先の人間関係に問題があるわけではないが、社員同士深く交流することもない。
仕事も忙しいため、友人と呼べるような人間とは、疎遠になっている。
親しくした女性達もいたが、今は妻と呼べるような女性はいない。
祖父母はおろか、父母も随分と昔に亡くなった。
少年だった頃に比べると、私は全く以て独りだ。
そんな日々に味気なさを覚え、何とか人と交流しようと、SNSを始めてみた。
しかし、私がどんなに何かを発信したとしても、それに興味を持つ人間はまだ現れていない。
今日もオフィスを出て、誰とも顔を合わさずに家までたどり着いた。スーツのポケットから取り出したスマートフォンには、誰からのメッセージも表示されていない。勿論、SNSに誰かからのコメントがついていることもない。
ため息を吐きながら目を瞑ると、誰かの声が頭の中に響いた。
こうしておけば、きっと誰かが僕の顔を見てくれるんじゃないかって
ああ、そうか彼もこんな気持ちだったのか。
私はベッドから起き上がり、キッチンに向かった。
仕事の疲れからか足下がフラついているが、気分は晴れやかだ。
これで、誰かが私のことを見てくれるかもしれない。
そう思うと、口角が自然と上がっていくのを感じた。
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