第六章 Wholesky (2)

 空に月はない。The lights in the sky are stars、古い小説のタイトルを口ずさむ。

 ジョーは微動だにしなかった。屍のように。星明かりが無機質な黒い輪郭をわずかに浮き上がらせている。ばちん、と青白い火花が弾け飛んで身が竦んだ。

 充電中はいつもそうだ。感電するかもしれないから近づくな、見るなと強い口調で止められる。けれども、電気を求めて暗闇に葬られた廃墟を彷徨い歩くことになろうとも、血に染まりゆく背をただ見ていることしかできずとも、めっきり口数の減った彼が深淵に魅入られぬよう、傍にいたかった。

 破壊しつくされた都市において、電力が生きているのはほんのわずかな地点だけだ。ジョーはその電気を啜り、永らえている。彼は食事、摂食行為を早い段階で止めてしまった。そうすれば、きみが倍生きられるから、とマリに打ち捨てられたままの缶詰やレトルトパックを押しつける。

 鋼鉄とプラスチックとカーボンナノチューブ繊維とでできている男。彼に残されたひとの部分を生かすのは、水と電気だ。なんてクリーン!

 眼の縁にだけ冷たい優しさを乗せ、人間とそうでないものの境界で爪先立ちを続けるジョーが何を見るのか、もはやマリにはわからない。技術が進んで、それにより人体が拡張され、人間の定義が広がってからも、彼はひとのかたちにこだわり続けた。こころの容れ物は何だっていいはずなのに、存在理由をマリに託して生を選んだ。

 魔女は奇跡を行使する者。癒やしを、調和を、さいわいをもたらす者。

 けれども、その神秘がなぜ備わっていて、どう使いこなしているのか、マリ自身はまったく理解していなかった。なるようになる、のだ。癒える者は癒え、死ぬ者は死ぬ。未来を招いてその手助けはできても、運命そのものを操作できるほど大層な存在ではない。

 かつてそれを思い知った時、つまりジョーの病気が不治のものだと視えてしまった時、マリは泣いた。すべての魔女が流したであろう涙であり、魔女の奇跡が及ばなかったあらゆるものの慟哭だった。

 医療技術の進歩が光明となった。彼は闘病を乗り越え生き延びて、今も隣で機械の身体を丸めている。胎児のように。

 ジョーの命はなにゆえに失われなかったのか、考えに考えたすえに辿り着いた結論は、単なる詭弁だった。「病を癒やせずとも、命は失われない」。屁理屈だ。吹っ切ったあとは笑うしかない。

 そう、詭弁だ。立ち塞がる困難をねじ伏せ、こじ開けるための論理だ。今は月もない夜だけれど、いつかきっと光満ちるそらが戻る。魔女の力がそう告げていた。

 なるようになる、つまり、当然のことが当然であるために、ねじ曲げられないために、魔女の力はある。マリにはわかる、だから祈る。誰に? 魔女の力を与え賜うた誰か、なにかに。理屈など知らない、ただ、届けばいい。かくあれかし。

 この悪夢もいつか終わる。血と硝煙にまみれた身だけれども、きっと生き延びてみせる。魔女も、人間も、絶えていいはずがない。

 荷物の底には、アナスタシアに託されたカードサイズの記憶メディアと、電源を切ったままの携帯端末ロギアと充電器が入っている。基地局が破壊されて使い物にならなくとも、置いて出ることはできなかった。記録されたたくさんのアドレス、フォーラムやチャットのアカウントは人生そのものだからだ。

 ふと、ジョーが剣呑に眼を細めた。緑色に光る細かな文字が眼球をスクロールしてゆく。時折赤い文字が混じるのが、危険のしるしだった。

 ここにいろ、と言って彼は首の充電ケーブルを無造作に引っこ抜き(プラグを抜き差しするところは何度見ても胃がひゅっとなる。ずっと無線充電ICだったが、今となっては望むべくもない)、小石をはね飛ばして急加速した。倒壊したビルの壁を斜めに蹴り、人間にはありえない動作で垂直の壁を駆け上がってゆく。

 最上階に達する直前で体をたわめ、中空に跳んだ。右腕を一閃、前腕に仕込まれた刃が青白いスパークを生む。五階分ほどの高さを落ちる間に空中で二回転、激突と言うに相応しい勢いでひび割れたアスファルトに着地したジョーは平然と立ち上がり、掴んでいた烏めいたドローンの回転翼を易々とねじ切った。そのまま後ろを向いて、交差点の角を曲がって姿を消してしまう。

 無人の往来に転がるドローンの残骸を見つめたまま、マリは瓦礫の陰でひたすらに待った。物音が聞こえる気もするが、風かもしれず、耳をそばだてる勇気もない。握った左手に右手を被せ、そこにある指輪の存在をよすがに、大丈夫に決まってる、と唱えて心の均衡を保った。

 やがてジョーが戻ってきた。焦げ臭いし、ひどい臭いがする。何があったの、何をしたの、と尋ねたところでどうなるだろう。

 戦闘があった交差点とは逆の方向へ二分ほど歩くと川がある。彼が柵を乗り越え、堤防の梯子を伝い降りて汚れを洗い落とすまで、橋の上から見守った。


「大丈夫……?」


 彼は浅く顎を引くだけだった。ここのところ、返事さえ厭うようになってしまって、心配でならない。彼がマリを何よりも大切に思ってくれているのは確かで、それは心の底から嬉しいが、そのためになら手段を選ばず、自分自身までも利用し、あれほどまでに重んじた人間らしさを切り捨ててゆく様子なのは我慢ならなかった。

 それであたしが喜ぶとでも? 目を血走らせた暴徒たちから守られ、生かされている身ではとてもそんな傲慢は口にできない。

 こうなってしまった理由が何であれ、マリが望めば、祈れば、この世界は元通りになると彼は信じている。その一念で生きていると言ってもよいだろう。それはある意味では正しいが、魔女の力だけでは届かぬ部分もたくさんある。いや、そちらの方が多かろう。いま必要なのは魔女の祈りではなく、医療と秩序、生活基盤、心の安寧だ。

 魔女は糸玉のごとく絡まりうねる未来を視る。かくあれかしと祈り、望む未来を誘起する。それはすなわち、他の可能性を磨耗させるに等しい。へし折り、叩き潰し、削り取って、別の未来に至る可能性を摘み取る。人々はすごいすごいと魔女の神秘を賞賛するけれども、決して美しいだけの力ではない。

 魔女たちは慎重に、招く未来を選んでいた。できるだけ他の物事に、人物に影響が出ないよう、薄氷を踏むがごとく。そこへ予言機械群が乱入し、もつれた糸玉をさらに複雑怪奇にしてしまった。視えていた未来が想定外の介入によって歪み、捻れ、途切れそうになる。

 仕事が楽になるかも、などと楽観していた魔女たちは困惑し、やがて誰の目にも混乱と混沌が明らかになっても、連盟は動かなかった。動かないのか動けないのか定かではないが、「コンウォールの本部では魔女が絶えぬよう祈りが捧げられている」というブラックジョークが俄然、説得力を持ち始めたのには閉口するしかなかった。

 そうこうしているうちに、エールコメット社の人工流星が夜空を彩ると同時に、数万、数十万のドローンが、人工衛星が、炎の花を咲かせて命を喰らった。

 この七色の眼は未来を視るばかりで、因果の糸を遡って辿るようにはできていない。だから想像に過ぎないが、ヤン・オールトを名乗った少女が流星を望み、予言機械たちがそれに便乗して、燃える星を墜としたのだろう。何のために? 破滅を、自殺を望んだのか。機械が? 事態の全貌を把握している者がいるとは思えなかった。

 以来、予言機械群は沈黙している。魔女の姿はない。この先、緑の大地に戻るのか、それとも終焉へと突き進んでゆくのか、確定に至る要素は出現せず、おぼろな視界で可能性は揺らぎ続けている。マリもまだ手を出しあぐねている。一人で誘起できる規模ではない。逃亡生活ではなおさらだ。

 ジョー、と呼ぶ。唱える。桜吹雪のキャンパスで再会してから、一日も欠かさず口にした名だ。ICUの扉が面会を阻んでも、くそったれな仕事で缶詰になっても、携帯端末越しに呟いた。まじないのように唄い、共に在れと願い、欲した男だ。

 彼が無理を通して、木佐貫に義肢義体の改造を要求したのは知っている。義肢義体を忌まわしいと思ったことなど一度もないが、慣れ親しんだ皮膚を捨て去った時には目眩がした。

 病の克服のために機械の体で生きると決め、その精巧さにふたりして驚き、確かめ、「すごい」「すごすぎる」と笑いあっては幾度となく愛した身体を捨てるなんて。その覚悟の重さと、彼が再びひとの皮膚を纏う未来の儚さに、声を押し殺して泣いた。

 ケーブルを接続し、腰を下ろしたジョーににじり寄り、装甲に覆われた胸に手を伸ばす。無機の体躯に体温が移る。高い方から低い方へ、やがて同じになるまで。

 廃墟と化した街を覆う空には無数の星が輝いている。不意に、昔の記憶が蘇った。


「覚えてる? ……それはだんだんはっきりして、とうとうりんとうごかないようになり、濃い鋼青のそらの野原にたちました」

「……いま新らしく灼いたばかりの青い鋼の板のような、そらの野原に、」


 まっすぐにすきっと立ったのです。

 虚ろだった眼にジョーらしい静けさが戻ってきた。彼がこのテキストを読み上げたのはいつだったか。声変わりのさなかの不安定な掠れ声が文字を読み上げてゆくのに、どうしようもなく惹かれたのだった。


「大昔の話じゃないか。よく覚えてたな」

「いま思い出した。テンキリン……だっけ? こんな感じなのかなって」

「銀河ステーションの描写じゃなかったっけ」


 そうだっけ? テキストを思い出そうとしても、ジョーが音読した部分以外は何もかもあやふやで、竜胆の青さを思い描いたこと、林檎の文字が知っている漢字とは違って、まったく別の果物のように思えたこと、石炭袋コールサックの闇の深さを想ったことなど、些末な記憶ばかりが蘇ってきて、肝心の物語は少しも思い出せなかった。


「なあ、おれはさ、マリのためなら何にだってなる。銃にも、剣にも、もちろん盾にも。だから生きろ。生きていてくれ。重いのは知ってる。それでも預かっててほしい」

「あたしひとりで? ジョーは? ジョーは道具じゃないでしょ、ばか言わないで。何にでもなるなら、あたしの大切なひとのままでいてよ」


 ジョーの昏い眼がマリを映している。ピンクブラウンに染めた髪、フリルとレースがふんだんにあしらわれた黒いワンピース。十五で時を止めた少女の身体。彼のうつろわざる人造のおもてもまた、在りし日の面影を残しつつも、戦いの日々を数えるものではない。


「あたしはね、ジョーのことはすぐわかるよ。たとえどんな姿になっても、どんなかたちになっても。だから約束して」

「……ああ、そうだな」


 ジョーがゆっくり瞬いて、約束する、と頷いた。ばちんと火花が爆ぜて、その眼が銀色に輝く。月のように。

 頬に手を伸ばすと、くすぐったそうに目を細めた。大型犬を撫でている気分になる。ケーブルを外したジョーの髪をかき回した。脂が出ないからべたつかない。ずるい。


「予言機械を壊して終わり、なんて話じゃないよな」

「でもドローンを飛ばしてるのはきっとあの子たちだよ。壊れてはないと思う……どうやって電力を確保してるのかはよくわからないけど」

テザー衛星ヘリオスだ。確か、直接送電されてたんじゃないか。衛星を落とすとか壊すとかより、予言機械をどうにかした方が早いし簡単だよな……行ってみるか」


 行ってみるか、との言葉はマリを誘ったのではなく、エムに意思表示しただけだと一抹の寂しさとともに理解する。それでも、先を覆っていた靄がほんの少しだけ薄らいだ気がした。


「これ、使ったら怒るからね。絶交だよ」


 胸板を指して言うと、ジョーは歯を見せて笑った。ずいぶん久しぶりだ。


「絶交って。サーバー筐体相手なら使う必要なんてない。殴れば壊れる」

「野蛮……」

「昔のテレビは故障しても叩けば直ったって言うだろ」


 それに、とジョーは声を潜める。


「まずは話してみる。予言機械はもとを正せばおれだし、エムもここにいるし。言葉が通じるかどうかはわからないけど……おれはこの言葉しか知らないから。機械語ならエムがわかる。同窓会みたいなものかな」

「大丈夫なの」

「さあ。……視なくていいから、目を閉じてて。もういいよ、って呼ぶからさ、それまでは生きることだけ考えて」

「うん」


 予言機械と殴り合うわけでもなし、危険はないはずだが、連れて行ってとは言えなかった。ジョーともう一度抱き合えるとはどうしても思えないのに。


「ねえ、あたし、ジョーのこと好きよ」

「知ってる」


 ジョーは笑って、首筋に腕を回すマリの背をとんとんと叩いた。

 鎧めいたその肩越しに、西の空についと光が走るのが見えた。

 願い事を三度。マリは目を閉じて、唱える。




 さあ、その指し示す先へ。陽の光、ヒトの願い、魔女の祈りが満ちるそらを夢想し、ジョーは瓦礫を掘り、倒壊したシェンユウビルの地下を目指す。


『そういえば、おれ、こんなふうにあいつと会うのは初めてだ。いつも演算領域からアクセスしてたからさ』


 眼球をスクロールする文字に、じゃあ第一印象が大切かもな、と返す。


『雁首揃えたらなんて挨拶するんだ? 初めまして? お噂はかねがね?』


 何だそれ、と思わず噴き出した。しばし考え、呟く。


「久しぶり、でいいんじゃないかな」

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