第五章 Farewell (3)
――それで、どうしてこうなった。
アナスタシアは脱衣所でバスタオルを抱きしめ、無限に湧き出る疑問符の泉を埋めるべく、無意味に深呼吸を繰り返した。ソヴァの
脱衣所。右手にはバスルーム。新城と魔女が暮らす家の。愛の巣! と誰かが叫んで、ぴいぴいとさえずりが続く。頭を抱えていると、魔女が畳まれた衣服を運んできた。
「あーにゃん、こっち着替えね。これメイクだよね、クレンジングの使いかたってわかる? わかんない、じゃあやったげる。脱いで脱いで」
「あーにゃん……」
誰だ。私か。私しかいない。
魔女は複雑怪奇なフリルとレースの衣服を手品のように脱ぎ捨てて下着姿になると、アナスタシアのワンピースのボタンを見る間に外してしまった。速い。
手を上げて、足を上げて、と言われるままに動いていると体を覆うものが取り払われて、さらりとした油が顔中に塗りたくられた。
「はい入ってー! しゃがんでー! 流すよー!」
シャワーで先ほどの油が流され、いい匂いのする泡に覆われた浴槽に落ち着いても、疑問符の泉は埋めきれていなかった。隣で、手の込んだメイクを洗い落としてなお整った顔立ちの魔女が長いまつげをしばたたかせて笑う。
「あーにゃん、すごい顔してる。お風呂入ったことない? ないか、まあそうだよね。義体メンテって会社のひとがするんだろうし」
「はあ……」
「しっかし、さすがキー坊のデザインだねえ。これめっちゃ肉体美じゃん。美術だよ。芸術だよ。は~、羨ましい。触ったらセクハラかな? そうだよね、やめとこう」
「キー坊」
妹たちも絶句している。リリースからこれまで、こんなにもハングに近い状態に陥ったことはなかった。新城と差し向かいで話していた時でさえ、冷静に自分を見つめていたのに。
魔女だからか。虹色の眼がそうさせるのか。私たちが得られなかった神秘の力が。彼女はこちらをどう思っているのだろう。以前、会ったときはじっと観察しているふうだったけれど。敵視? いいや、魔女が脅威に思うほど、私たちは何の力も持っていない。AIによる未来視だとかヒトが騒いでいるのは、蝶の羽ばたき程度の、ほんのわずかな計算力を発揮したにすぎない。
「あー、出し惜しみせずにバスボム使って正解だったわあ。もらいものなんだけどね、なんかこう、ふつうの日には使うのがもったいなくて。いい匂いだよねえ。キレイが漲る感じがしない? あ、洗いっこしよっか」
たっぷりのシャンプーの泡は花の香りがした。成分の分析は一瞬で終わったけれども、化学物質の名に何の意味があるだろう。
魔女は十五歳頃に肉体的な成長を止めるという。薄い背中は滑らかで、腕にも腿にも張りがあるが、全体的に肉付きは良くない。ネオテニーの極みのようなこの体を、新城は知り尽くしているのだと思うと、またメモリが圧迫され、CPUの負荷が上がった。
「ほーら、綺麗になったよ」
ほとんどまともな会話もできぬうちに、髪と体の洗いっこが終わって再び湯船に戻っている。目が回りそうだった。湯あたりというやつだ、きっとそうだ。
魔女は洗い髪をタオルで包み、緩みきっていたピンク色の頬をふと引き締めた。
「大変だったよね。うちにいる間はちゃんと面倒見るからね、大丈夫」
「はい、お世話になります。あの、急にご迷惑だったのでは」
「ご迷惑なんかじゃないよ。あーにゃんたちが使い捨てみたいな扱いなのがもうホント腹立たしくてさ。でもあたしの立場では何もできないし。誰がどうなれば状況が良くなるのかよくわかんないのもね……いや、わからなくもないんだけど」
「あの、魔女の方々の視る未来は、予言機械群の影響を受けないんでしょうか」
魔女はにい、と唇を吊り上げた。自信に満ちあふれた笑みに、心のどこかで予言機械たちの敗北を察する。
「チャットユーザーを大事にすると、良いことがあるかもよ。あ、あーにゃん顔赤くなってきた。のぼせちゃったかな? あがろあがろ! 話はそのあと!」
チャットユーザー? 問い返せぬうちに手を引かれ、ふかふかのバスタオルに包まれて右、次は左とその場で回っているうちに、ふたりともTシャツとハーフパンツ姿になっており、濡れ髪もそのままにリビングのソファに座らされた。
ローテーブルには氷が浮いた白い半透明の飲み物が用意されている。見るなり、やったあ、と魔女が歓声をあげた。
「カルピスだー!」
「濃いめに作っといた」
「ジョーってもしかして神なのでは」
「それ一万回くらい聞いた。ほら座れ、ドライヤーしてやるから」
新城がドライヤーとブラシを手に甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのに甘える? どういうことだ?
カルピスは絶妙においしくて、喉を潤して滑り落ちていった。新城の大きな手がアナスタシアの髪をかき回し、丁寧にブラシを通してくれている。妹たちが黄色い悲鳴にまみれてもみくちゃになっていた。
「はい、可愛くなったぞ」
天国かな。いや違う、そろそろ落ち着け、私。妹たちも。
魔女は猫のように気持ちよさげに目を閉じて、大きな手に身を委ねている。派手なピンクブラウンの髪が顎の高さで揃い、梳かれるごとに艶を増す。それを見つめる新城のまなざしに、妹たちと揃ってため息をついてしまった。
「あのう、いつもお風呂上がりにはこんなことを? 至れり尽くせりじゃないですか。……らぶらぶ、というんですか」
「らぶらぶだよ? 冷めないよ? 熱力学とか知ったこっちゃないし。まあ、いつもこうじゃないけど。時間が合えば、かな」
「カルピスは特別。お客さんが来たからね」
特別。不意に顔の中心が痛んで目の前がぼやけたので、アナスタシアは慌てて診断プログラムを走らせた。異常はない。ただし、涙腺機能がアクティブ。
――涙腺機能。
「あれえ、だいじょぶ? 怖いこと思い出した?」
「いえ……なんでもないです」
隣に座った魔女は尋常ではなくいい匂いがした。すんすんしていると、一度立ち上がって同じボディクリームを塗ってくれた。
「いいんですか、高いものなんじゃ」
「べつに? ニベアだもん、ドラッグストアで400円くらいじゃない?」
安い、買って帰ったら
なるほど、非論理的には違いないが、論理で割り切れるものではない――ホクスポクス・フィジーブス。《原則》が切り捨ててしまうもの、つまり、大切にすべきもの。
テーブルで
『揃ってるかな。そろそろ落ち着いた?』
携帯端末のウェブカメラを起動し、三人がソファにぎゅうづめに座るのが作戦会議開始の合図だった。こんな形でエムと向かい合うのは初めてだな、と新鮮な気分だ。
『彼女の保護を頼みたい。ざっくり状況を説明すると、魔女の存在が未来視を妨げている、って予言機械群が依頼者に告げた。依頼者からすれば、魔女に頼めないから安価なほうに頼ってるわけで、その鬱憤が予言機械群には向かわず、魔女に向いた。で、魔女アンドロイド十一番機、カタリナが私刑に遭って殺された』
彼は壊された、とは言わなかったが、新城も魔女も口を挟みはしなかった。
『マリたち魔女も襲われて、ここ一週間で十五件、警察沙汰になってる。幸い、みな軽傷で済んでるが、これからも続くだろう。予言機械への依頼も増える一方らしいし、アナスタシアたちが街に出るのも変わらない』
「私たちは社の備品に過ぎませんので」
『法律的にはそうだね。まあ、おれは可愛い妹たちが殺されるのを黙って見てるつもりはないから、魔法の呪文を授けた』
「魔法の呪文?」
新城の語尾が跳ねる。陽気で人当たりの良さそうなエムとは違い、気難しげな横顔が堅い。彼らは少しも似ていなかった。そのようなアバターを選んだのだろう、エムが。新城にないものを補うべく。
『比喩だけどね。シェンユウは実質、魔女AIたちに殉職を求めた。予言機械群の糧となれってね。アナスタシアたちのバックアップはあるけど、予言機械たちのはないからさ。厳密には、各パーツのバックアップはあるけど、それを復元したところで元通りにはならないだろうって話。完全にブラックボックスだよ、もう誰にもあいつらのことは理解できないと思う。もちろんおれにも無理』
さらりと社外秘を口にする。アナスタシアとて今朝までは知らなかったことだ。二十五機がリンクして、そう結論したけれども。
『それでだ、きみらも同じだと思うけど、おれはその判断が人として正しいとは思えなかった。ヒトと電子人格には人権があって、電子人格のコピーは商品として《原則》で縛る。ヒトが順列をつけるんだー、何様だよって話でさ』
「あーにゃんのオリジナルは友だちなんだ、たぶん。フリーの魔女」
ぽつり、とこぼれた魔女の言葉に、みなが目を見開いた。初耳だった。
「フリーの後ろめたさみたいなのとは無縁の子だったんだけど、なんとなくそわそわしてるから、どうしたのって訊いたら、大きい仕事が入ったって。守秘義務があるし、あんまり深くは訊かなかったんだけど、すっかり忘れた頃にあーにゃんたちがニュースになって。でもオリジナルと
『社内ネットに繋がってる端末なら探れるけど……ソヴァに直接訊いたほうが早くないかな。ちょっと待ってて』
エムが笑顔のまま固まったのは一秒未満だっただろう。次にCGが動いたとき、眉間には深い皺があった。
『忙しいってさ。社のネットワークも探してるから、話を進めるよ』
「結局、誰をどうすれば魔女は助かるんだ。
新城の声音には珍しく苛立ちが滲む。モニタの中の青年は小さく肩を竦めた。
『崔はもう時間の問題だ。膵臓癌ステージ4。何せ発見が遅かった。アナンドはぴんぴんしてるけど、シェンユウやらガイウスやらのトップを叩いたところで何ともならないと思う。予言機械群が魔女を越えるくらいにならないと。……なれると思う?』
魔女は黙ったまま首を横に振った。未来を視たのか、それともわからないという意味なのか。
『お、データがあった。タイムスタンプからしてたぶんこれだ。
「……うん。偽名とか、ハンドルネームとかは梟にまつわる名前を使ってた」
『sova……スロバキア語で《梟》か。決まりだな。どうする、マリ……いや待て、その子と連絡は取れてる?』
魔女は否定を示した。真っ青で、気遣わしげな新城の視線にも気づいていない。
ソヴァのオリジナルについて、アナスタシアは何も知らなかったし、知ろうとしな
かった。必要がなかったからだ。それが、こんなことになるなんて。
「魔女ハーフのオリジナルは? 魔女の子なんてそう生まれるもんじゃないだろ。そもそも魔女の子は魔女じゃないか」
『カルセドニーか。実際に未来視と誘起をしてるのはそいつっぽいんだよな。おれもシステムを全部把握してるわけじゃないけど、エピメニデスとソヴァが入力担当、カルセドニーが出力担当っぽい。正体はおれも知らない。調べるには時間がかかるぞ。初対面のご挨拶からだし、アラート鳴らされたらアウトだからな。……いや、顕微授精のカルテを探した方が早いか……?』
「そのさ、マリの友だちが産んだってことはないか」
『えぐいこと考えるなあ。可能性としちゃ十分ありえるけど……お、呼び出しか』
描画された目覚まし時計がピピピ、と電子音をたてている。同時に、シェンユウのサーバーに残してきた妹たちが連絡を寄越した。
『チャットルームを再開するって! 日付が変わった瞬間から!』
「……魔女AIのチャットルームが再開されるそうです」
『VRだと襲われる心配はない、か。まあ妥当な判断かな』
「通報システムもありますし、倫理コードに引っかかる言動、行動があれば強制退出ですから、
『だいじょうぶ、みんなで助けるよ。エムもいてくれるから心配しないで』
すぐ下の妹、ベアトリスの言葉が頼もしい。個別に活動していた時よりも、みな活き活きして、自信ありげに感じられる。姉妹が繋がった心強さか、それとも《原則》の枷を断ち切ったからか、カタリナのためにと団結しているからか。
「チャットで、そういう違反行為が続出すればアナスタシアたちの派遣を先延ばしにできたりはしないかな? シェンユウだって魔女アンドロイドの危険を顧みずに派遣を続ければ印象が悪くなるだろうし。ほら、昔あっただろ、デトロイトでアンドロイドとそれを庇う人間が蜂起して……」
『デトロイト事変ね。あれはアメリカだったから大事件になったんだ。習っただろ、人種差別の歴史にぴったり符合するんだよ。あれから二〇年も経つし、
「じゃあ、魔女アンドロイドを守れって署名サイトにトピックを立てるとか」
『それくらいならまあ、動きとしては自然かもね。その分シェンユウへ働きかける力も弱いけど、やってみよう』
「……エム、たぶゆうがどうしてるか……生きてるか死んでるか、わかる?」
魔女は青ざめたまま、しかしエムから目を逸らそうとはしない。新城は沈黙を選び、もとよりアナスタシアは彼女にかける言葉を持たない。
『死亡届が出てる。二〇五七年だから、八年前の四月。ああ……それと……ガイウスと業務提携してる病院に田袋さんのカルテがあった。産科だ。出産記録もある。二〇五六年二月。カルテには持病や服薬の記載はないな』
エムは推測は口にしなかった。彼にも手の届かぬ場所はあるのだ。
「そっか……。できるだけ中立でいたかったけど、予言機械たちを許したくない理由が増えちゃったな」
魔女は泣かず、怒らず、声を荒立てずに大きく息をついた。この話はこれで終わり、と宣言するかのように。
「規則を破ることになるけど、ざっくり伝えておくね。予言機械は遠からず壊れる」
『世の中は大混乱?』
魔女は両手を挙げて首を振った。言わずもがなであろう。
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