第四章 ミラーリングミライ (7)

「よし」


 エムは両手を握り、また開いて立ち上がる。ソファに掛けたままこちらを見上げるマリはずいぶん低いところにいて、うっかり転倒しかけた。


「ふらふらだけど、大丈夫なの」


 よそよそしい声音に頷いて屈伸、そしてソファの周囲をぐるりと歩く。二周もすると、おぼろだった身体記憶は義体と馴染んだ。今となっては旧型の義肢義体だが、エムの記憶にある体だからこそできる芸当だった。


「大丈夫。ジョーほど動けはしないけど、そんな必要はないし。……要点だけ言うと、魔女の未来視、誘起の力が強いせいで、予言機械たちは未来に焦点を結びかねる、らしい。それで金を積んだ人間たちが激怒してる。で、魔女に未来視や未来誘起を依頼するんじゃなくて、魔女を排除する方向に動いてしまった。あいつらがお高くとまった拝金主義者だから悪いんだ、ってね」

「八つ当たりじゃない」


 まったく、その通りだ。不機嫌も露わに唇を歪めるマリは、それで? と語尾を吊り上げた。


「あんたはこれまであたしたちを逐一監視してたってわけ?」


 これめちゃくちゃ怒ってるやつだ、と遠い記憶が囁く。下手に取り繕わず、おべっかを使わず、本心を伝える方がいい。浅知恵で言い逃れをしたところで、彼女の未来視にはかないっこないのだ。彼女は自分の未来もジョーの未来もめったに視ないが、自分はジョーではない。悲惨な未来を誘起されたくはなかった。

 元通り、ソファに腰を下ろした。バランサとスタビライザの反応に、脚長えなこいつ、と唸る。ジョーだった頃にはもちろん意識したことなどなかったから、スクリーンの向こうにいる俳優の寸評をしている気分だ。さすが、マリは見る目がある。


「逐一ってわけじゃない。住所や連絡先は把握してたけど、木佐貫に話を聞く程度だった。でも、予言機械群のせいで魔女を敵視するやつが現れてからは、おれの目の届く範囲で見てた。誓って、プライベートは覗いてない。いや、さっきの路チューは例外だよ、そもそもあんなとこでおっぱじめるとは思ってなかったんだ」

「おっぱじめるって何よ、失礼ね! 雰囲気ってもんがあるでしょ、雰囲気! あ~最悪、ほんと最悪」


 昔と変わらないピンクブラウンのボブをぐしゃぐしゃとかき回して悶絶している。どうやら監視そのものではなく、あの破廉恥な路チューを他人に見られたのを恥じているらしい。ただ見られただけではなく、元はジョーだった自分に。

 やっぱり可愛いなあ。口元が緩みそうになるのをこらえ、だからさ、と続けた。からかいたいが、やっていいことと悪いことがある。


「あのさ、ネット上にそういうフォーラムがあるんだよ。予言機械群と魔女の関係性を考える会、みたいなの。内容は推測の域を出ないし、ぶっちゃけ見当違いの憶測ばっかり話題にあがるから放置してるんだけど、メンバーが魔女とか魔女アンドロイドにお門違いの敵愾心を持ってるのは事実だ」

「集団で襲撃しちゃうくらいだもんね」

「そう。おれからの提案は二つだ。今の生活を守りたいなら、マリが自分たちの未来をまめに視て、それからジョーに武装させる」


 一度は和らいだマリのおもてがまたも渋面に変わる。もちろん、その反応は予測済みだし、こんな提案はしたくなかった。おまえが二十四時間態勢で見守れと言われれば否やはないが、きっとそうは言われまい。

 監視を続けたとして、先ほどのように都合良く清掃ロボットが近くにいるとも限らず、ドローン程度では捨て身の体当たりをするのがせいぜいだ。自衛してもらうのがいちばんいい。


「それ、ジョーは嫌がると思うな。あたしだってやだ。ジョーは人間だよ。都合のいい武器じゃない。だいたい義肢義体の武装化って、違法でしょ」

「集団で人や魔女を襲うのだって違法だ」


 マリは黙った。彼女も予言機械群による安価な未来誘起がもたらした混乱の渦中にある。帰宅途中に襲われ、旅先でも襲われたのだから、不安と危険は身に沁みているはず。ややあって放たれた一言は、未来を視たのであろう諦めに満ちていた。


「警察は……」

「連盟が組織として助けを求めるか、現行犯なら何とかしてくれるかもね。通報が間に合えばいいけど」

「……ねえ、さっきの人たちはどうしてあたしたちがここにいるってわかったの。ジョーは有休を使ったけど、どこへ行くかなんて伝えてないはずだよ」


 説明するより見せた方が早かろう。エムはモニタにサイトを表示してやった。左カラムには地図、右カラムにはコメント欄。地図を縮小すると、アルファベットと赤いマーカーが多数現れた。


「魔女を見かけた場所を投稿できる。アルファベットは魔女アンドロイドの頭文字、赤いのは魔女。きみたちは駅前で目撃されて、その後プロットされてる。で、近所にいますからお誘い合わせの上やっちまいましょう、って声をかけあうサイトもあってね」


 目撃情報は、当然ながら都市部で多い。マリの勤務先である魔女連盟支部もほぼ常時の監視網が敷かれていて、所属する魔女の住まいが割れているケースさえある。

 彼女とジョーが暮らすマンションは、最寄り駅まで判明していた。ジョーが移植手術を受けた大学病院のお膝元であり、彼が勤めるカーシーの支社があることは少し調べればすぐにわかることだからだ。

 マリは蛋白石オパールの眼を見開いて、刻々と変化する地図とコメントを凝視している。


「こんなに……たくさんのひとが」

「そう。魔女を敵視してる。敵視とまではいかなくとも、あいつらのせいでちゃんとした未来視や誘起ができなかったって不満に思ってる人はたくさんいるだろうね。筆頭は予言機械たちだろうけど」

「ずいぶん事情通のようだけど、こういうサイト、根絶やしにできないの」

「個々に潰してもすぐ新しいのが生えるんだ。善意の拡散はゆっくりだけど、悪意や冷やかしは爆発的に広まるものだよ。ネット黎明期からそうだ。何も変わっちゃいない」


 わかった、と響いた小さな呟きは、自分自身に言い聞かせているようだった。


「もちろん、おれもできる限りのことはする。けど、予言機械たちはおれより上手で、悪意ある人間は数が多い。おれはあんたたちを守りたいんだ。な、マリ。都合良く聞こえるかもしれないけど、おれはおれなりにジョーにも、きみにも愛着があるんだ。電子人格がこんなふうに言うの、変かな」

「変ではないけど、ジョーの姿と声なのが不思議」

「ジョーだよ。昔の話だけど。おれだってマリが大事だ。昔からずっとずっと、好きなんだよ」


 マリはぽかんとこちらを見上げている。こんな話になるとは想像もしていなかったのだろう。気にせず、甘いワンピースの膝上で握られている手を取った。


「一回だけでいい。さっきみたいにキスしていい?」

「だめ」

「即答かよ。それは、おれがジョーじゃないから?」

「そう。あたしはジョーに操を立ててんの。あんたはジョーだったかもしれないけど、今はジョーじゃない。お友だちではいられても、それ以上のことは絶対だめ」


 厳しく拒絶しながらも、マリの細い両腕が背に回される。座面に膝立ちになった彼女はジョーの顔に覆い被さるようにして、ふふ、と笑った。


「わざわざ忠告に来てくれてありがとう。あんたの気持ち、それだけで十分伝わってるよ。あたしにも、ジョーにも。あたしたちはそんなわけわかんないのには負けない。病気にだって負けなかったんだし、あの時より味方は増えてるんだもの、大丈夫に決まってる。……あんたのことだよ、エム」


 アナスタシアが、義体に涙腺機能など不要と吐き捨てていたのを思い出し、もう一度その言葉を吟味して、おれは欲しいな、と思った。

 みっともなく泣いて、マリにもジョーにも笑われたかった。

 ――そう、おれはあんたたちの味方だよ。いつまでも。絶対に。

 マリの背は記憶にあるのと変わらない薄さだった。抱きしめたいのをこらえ、とんとんするに留める。とんとん、が返ってきた。くそ、こういうとこが好きなんだ。

 エムの子モジュールはジョーの中枢に居所を定めた。幸福な眠りだ、と本体に送信して、長い長いスリープモードに入る。

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