第四章 ミラーリングミライ (6)
二ヶ月ぶりの連休だとベッドに伸びているマリの鼻先にフレンチトーストとカフェオレを突きつけてダイニングテーブルに追いやってすぐ、ジョーも有休を申請した。
「どこか行こう、気分転換にさ。おいしいもの食べて」
「爛れた一泊旅行にする~」
「はいはい。温泉?」
「タラソテラピーのあるとこ!」
たら? が何なのかよくわからなかったが、ブラウザのサジェスト機能が助けてくれた。海辺なら食事は間違いなかろう、とアシスタントAIに一泊旅行のプランをいくつか提案させ、マリにエンターキーを押してもらった二時間後には海辺の駅にいた。
残暑が過ぎた頃合いで荷物は少なく、身軽な旅だ。新幹線を降り、潮風が強い駅前でタクシーに乗り換える。ホテル名を告げると、自動運転車はスムーズに専用レーンに移行し、海沿いの道を走り始めた。
マリは浮かれっぱなしで、携帯端末と額を突き合わせながら、あれを食べる、ここを見に行くと予習に余念がない。一方のジョーは、誰かに見られているかも知れないという被害妄想めいた不安を振り払うのに必死だった。
「どしたの?」
「いや、なんでもない」
ホテルにチェックインして荷物を置き、散歩がてら灯台を見学に行く。戻って温泉とタラソテラピー、休憩して夕食、もう一度散歩に行こうと夜の海岸線に繰り出した。
海を目前にした温泉地とあって、一帯にホテルや旅館が林立している。チケット制の足湯巡りや気の利いたみやげ物屋を見て回るのも楽しく、人通りは多い。腹ごなしにはちょうどよかった。
「誘ってくれてありがと。ごめんね、ずっとジョーのこと放りっぱなしで」
「いいよ。マリこそ疲れてないか。家で寝てた方が良かった?」
「平気平気。だって、久しぶりのデートだよ」
マリの細い指が手のひらに食い込む。人工皮膚に体温はないが、繋いだ手から温もりが移るのが好きだった。
「路チューしよ、路チュー」
「落ち着けって」
積極的なのはいつもマリだ。付き合いはじめた頃は距離感が掴めず、やがて雰囲気に流されるまま手を繋ぐようになり、それからしばらくして断崖から飛び降りるつもりでキスをしたら、あれよあれよという間に服を剥がれていた。
青臭い若造にとって、彼女の服の構造は謎と神秘そのもので、どこをどうすれば脱がすことができるのかまったくわからなかったし、しばらく教えてもらえなかった。思い出すだけで身悶えしたくなる。
通りを外れて暗がりへ滑り込む。海鮮の茶漬けを出す店、遅くまでパフェとクレープを提供しているカフェ、塩ジェラートのスタンド。カラフルなLEDに縁取られた人気店も、横手へ回ると夜に沈む。
人気がなくなると海のにおいと風の音が強まったように感じられた。胸ぐらを掴まれるのに逆らわず、上体を屈めてキスを繰り返す。明かりが乏しくとも、マリの七色の眼が興奮に濡れているのがよくわかった。
人生を折り返したいいおっさんが、と自嘲めいた思いもあれど、「おじさん」である自覚は薄い。外見も肉体も老いないからだろう。航平が言った通り、体と心は密接に繋がっているのだ。
人の気配を感じて顔を上げると、複数の人影が路地の左右を塞いでいた。年齢も性別も服装もばらばらだが、一様に身なりはきちんとしているのに目はどんよりと暗く淀み、手にバットやゴルフクラブ、金槌などを持っている点が共通していた。カードや電子機器類目当ての恐喝ではなさそうだ。
マリの表情は強張って、先日の事件を思い出しているのがありありとわかった。彼女は、魔女は、凶器を手にした複数人に迫られるような事態に陥っているのか。
「魔女がいるから」
「魔女のせいよ」
「予言機械が困っている」
ジョーもマリも何も言わなかった。言えなかったのだ。予言機械が魔女のせいで困るなど、初耳だった。
素早く状況を確認する。表通りから遠い右手から二人、左手から三人。
マリを庇いつつ三人をいなして、人のいるところへまずは逃げるべきだろう。格闘技経験者であるからこそ、そう思えた。自分ひとりならまだしも、マリを庇いつつ凶器を手にした複数人を相手にはできない。
見知らぬ男女は何も言わず、憎しみにぎらつく目で獲物を手にしている。みな素人丸出しで腰が据わっておらず、凶器と数を頼みにしているとよくわかった。道幅が狭いからバットとゴルフクラブはほぼ役に立たないだろうが、当たれば痛い。スタンガンを所持している者がいないらしいのは幸運だった。生命維持装置や義肢義体の動きを統合するソフトウェア類に万一にも影響があれば、文字通りの即死案件だ。
腹を括ったジョーが一歩前に出ると、先頭でバットを構えていた壮年の男性は明らかに怯んだ。それはそうだろう、いくら長物を手にしていたとしても、体格の良い男を前にして平然とはしていられまい。一八〇センチを越える背丈と筋肉に
脳裏を過ぎった航平とエウロスのオーナーの顔に、先に殴るのはまずいんだっけか、と息をつく。へっぴり腰から放たれたバットを左腕で受け、存外大したことないなと痛みを脇へ押しやって当て身を入れた。
よろめくバット男が後続の足止めをしているうちに、逆側から迫るすりこぎを弾き飛ばす。その瞬間、緑と黄色の回転灯が路地を染め、何かを殴打する音と悲鳴が重なった。
振り返ると、通りの灯りを背負った清掃ロボットのシルエットがあった。ずんぐりした姿はコメディめいていたが、この状況では不気味なだけだ。
インジケータをぎらぎらと点灯させ、ロボットはノズルを掲げた。ロボットハンドをドリルみたく回転させ、急速前進する。三得包丁を手にした女性が悲鳴を上げて飛び退き、バット男とゴルフクラブ女に衝突し、もつれあって転んだ。
ノズルから液体が勢いよく噴射され、悲鳴と混乱が路地じゅうに満ちる中、ジョーはすりこぎ女と金槌男に一発ずつお見舞いして、マリの手を引いて逃げ出した。
道が斜めになっていて、思いのほか大回りになった。マリのコンタクトレンズでARマップを辿り、ホテルに戻った時には二十二時を過ぎていた。ふたりとも無言で、繋いだ手だけがこれは現実だと告げている。
と、エレベーターホールのモニタが点灯し、コンシェルジュAIが笑顔を浮かべた。
『ご無事で何よりです。……そんなに警戒しないで。おれだよ、ジョー。久しぶり』
柔和な女性のグラフィックが微笑みながらそう言うものだから、飛び上がるほど驚いた。マリは腰にひしとしがみついている。
「……もしかして、エムか……? そうか、さっきの清掃ロボットも」
『そう。話しておきたいことがある。マリに……魔女に危険が迫ってる。部屋でまたコンシェルジュを立ち上げて』
一方的に言葉を連ね、はいともいいえとも答えないうちにモニタの電源はスタンバイに戻ってしまった。
「いまの、誰……?」
「エム。おれのミラーの電子人格」
マリは複雑な顔をして黙ってしまった。結局、彼女に知らせぬままミラーリングし、ガイウスがBMTを実用化した際に初めて複製の存在を打ち明けたのだった。
隠すつもりはなかった。あの時はマリもいっぱいいっぱいだったはずで、更なる負担を押しつけたくなかったのだ。とはもちろん言い訳だが、あの頃のことは記憶が明瞭な部分とうろ覚えの部分がまだらで、まともな判断力が残っていたのかも怪しい。
ともかくも、と部屋に戻って端末からコンシェルジュを呼び出す。またもあの女性のグラフィックと音声なのかと思いきや、見覚えのある部屋がCGで描画されていた。
大学時代の下宿だ。ありふれた1Kで、玄関からベランダまでが一直線に並んだ間取りだった。懐かしいベッドカバーは量販店の新生活フェアで揃えたグリーンのストライプ。そこにエムが腰かけていた。
《コス》のアシスタントとは違うアバターだ。ふわふわの茶色の髪で肌は白く、二重瞼の目尻には薄い笑みが浮かぶ。愛嬌がある顔だちだ。悪いふうに言えば、チャラい。
『や』
「……さっきはありがとう。助かった。ええと、これはどういう」
『この部屋のコンシェルジュAIをハックした。心配しないで、ばれないようにするから。そっちの様子はカメラで見えてる。もう一回言うけど、無事で良かった』
隣に座ったマリが身を固くしている。かれは敵ではない、と言いかけ、そんな保証はどこにもないと気づいた。黙って彼女の手を握る。
「じゃあ、さっきの……清掃ロボットも乗っ取ったってこと?」
『そう。使える機体が近くにあってよかったよ。連中は水浴びの刑にしといた。向こうが先に手を出したのはちゃんと録画してるから、報復は絶対させない。今のとこ、解散してそれぞれの家に戻りつつあるね。あいつらが誰かっていうと、シェンユウの予言機械群に未来誘起を依頼したものの、魔女の存在ゆえにその未来は叶えられない、って拒否された人たち』
立て板に水とはこれか。エムの言葉はあらゆる疑問に対するほぼ完全な答えだった。
「予言機械のAIは三基用意するって、むかし崔たちが言ってた。揃ったのか」
『おれの違法コピーのエピメニデス、魔女のソヴァ、魔女ハーフのカルセドニー。揃ったといえば揃ったけど、未来視に必要なのはたぶん数じゃない。……いや、これはおれの持論で、確かめたわけじゃないんだけど。エピメニデスはそこそこ話せるやつだったのにさ、最近は計算にかかりきりでつきあいが悪くなって。そのくせ未来視と誘起で世の中が良くなったかっていうと、何も変わりゃしない。むしろ悪くなった。ねえマリ』
唐突な呼びかけに、マリがかすかに肩を震わせた。顔色が悪い。「爛れた旅行」のはずが台無しだ。どうしてこうなった、の問いには回答不能だし、原因を見つけることに何の意味があろう。こぼれた水は容器に戻らない。
『魔女が視る未来に、予言機械群が……
「……理屈じゃないもの。言葉では説明できない。そうだとも言えるし全然違うのかもしれない」
『魔女をミラーリングしても、未来視の力は備わってなかったのは知ってる? それがソヴァで、ソヴァのコピーが魔女AIたち。機械語はつまり人の言葉だから、魔女の脳機能をすべて記述し得なかったとか、人の言葉で記述し得る外側に未来視と未来誘起の力は存在するってことだとおれは思ってる。残念ながら、おれには新言語の創造に至るほどの
モニタの内部で微笑むエムの言い分には筋が通っているような気がした。理解できたかといえば否だが、意識、認識、概念、思考は言語が司るものだから、それが及ばぬところに魔女の神秘が存在すると言われれば、そうかもしれないと思える。
正解は知りようがない。人の言語の外側にあるのなら。頭が痛くなってきた。
「エム、義体はないのか。こういう話をサシでできたらいいのに」
『そうかもね。ほんとあんたっていい人だな。じゃあさ、さっき助けたお礼ってことで、ひとつだけ頼みがあるんだ』
「犯罪行為でなければ」
言うと、エムはけらけら笑った。夜を徹して安酒に耽ったり、ボードゲームで延々遊んでいたりと、いま思えば無邪気に過ぎた学生時代を彷彿とさせる朗らかさだった。
『違法か違法でないかっていうと、そもそもこうして喋ってるのが違法だからね、まあ犯罪行為なんだけど。ジョーが言ったとおりのこと。少しだけ体を貸して欲しい。義肢義体の動きを制御するチップに間借りする。木佐貫が無線機能をつけてくれただろ? おれ本体が行くわけじゃないけど、ちっちゃいモジュールをね』
「ずいぶん仲がいいんだな、木佐貫と。よくわからんが、おれの体で何をするんだ」
『マリと話したい。おれが義体制御に介入すると、あんたはいわゆる《閉じ込め》の状態になる。たぶんパニックになるから麻酔もできるけど……それは強制しない。おれが何を話すのか気になるだろうし』
それは、と言いかけたところでマリが袖を引いた。大丈夫、とモニタを睨みつけながら断言されては引き下がるしかない。
『ん、じゃあそっちへ行く。危ないから座ってて』
セキュリティは木佐貫がいいようにしたに違いない。あるいはエムにとっては意味のない壁なのか。怒りも憎しみもないが、ピザを送りつけてきて以来、連絡を絶っていたかれがこんなに性急に接触してくるほど事態は切迫しているのだと考えると、とっくに失った胃がどんよりと重みを増すようだった。
背もたれに体を預けて待つ。ほどなく、全身に筋肉痛めいた違和感を覚えるとともに、ジョーは意識を手放した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます