第四章 ミラーリングミライ (5)

 叫ぶと同時に体が動いていた。十メートルほどを脇目もふらず駆け抜けるも、もう一つの影は身を翻して去っていった。体格からして男性だが、人間なのか義体なのかはわからない。《原則ストリクトネス》があるから、アンドロイドではなかろうが。

 すっかり冷えたアスファルトにへたりこんで呆然としているマリの服はレースが裂けて垂れ下がり、ひどい有様だった。ヘッドドレスはくしゃくしゃで、タイツには穴が開いている。覗く膝と頬の擦り傷からは薄く血が滲んでいた。


「ジョー……よかったぁ……」

「よかったはこっちの台詞だ。大丈夫か、怪我は? 何もされてない?」

「だいじょぶ」


 ちっとも大丈夫ではなさそうな震える声に、周囲を見回す。逃げた人影はもちろん、人の気配すら感じられなかった。


「少し遠回りして帰ろう。歩けるか?」

「うん」


 滅多にしないことだが、マリの腰に腕を回して抱き合うように歩いた。五分ほど遠回りしたが、犬の散歩中の老人や帰宅途中の学生、勤め人たちとすれ違った程度で、不審者は見つからない。

 警察はいやだとマリが言うので、そのままマンションに戻った。エントランスを通るときも、エレベーターを待っている間も、ジョーの警戒に引っかかるものはない。念のため四階で降りて、一階分は階段を使った。ドアの二重ロックがかかったのを確認して、ようやくふたりして息をつく。

 マリが力の限りにしがみついてくるのを、屈んで抱き止める。大きな怪我はなさそうだが、だからといって許せるはずがない。


「明日から迎えに行くよ。事務所なら人がいるだろ、ちょっと待たせるかもだけど、危ないよりはいい」

「……うん……でもね、危ないっていうかね、別に何をされたわけでもなくて。急にあの角から出てきて、腕掴まれて……」

「何かされてからじゃ遅いだろ!」


 つい声が大きくなって、身を竦ませるマリにごめん、と呟く。こんなに腹立たしいのは久しぶりだった。マリを害しようとした男にも、のんびり構えて危機感の足りない自分にも、どうしようもなく怒りが募る。


「知らないやつなんだよな?」

「たぶん。でも、知らない人の恨みを買うのはいつもだし……最近なかっただけで」


 そう、確かにそうだ。突き飛ばされたり石を投げられたり、そうでなくとも奇異の目で見られる。空転するばかりの道徳と正論はさておき、魔女とはそういうものだ。彼女はホームの端や階段の傍では決して立ち止まらない。それらの謂われなき悪意から彼女を守りたくて、幼いジョーはエウロスジムに通い始めたのだ。

 思えば、魔女アンドロイドのリリース、BMT規制緩和、予言機械のプロジェクトと、生身の魔女が行う未来視と誘起の祈りを霞ませる話題が続いた。人々の興味が魔女から逸れていたのが、元に戻っただけかもしれない。

 事務所や缶詰先のホテルを出る時間がわかり次第連絡を入れるように、できるだけ単独行動は避けるように、何かあったらすぐ逃げて、警察なり近所の店なりに逃げ込むように。子どもがいたらこうして口酸っぱく防犯を言い聞かせるのだろうか、と頭の片隅で考えつつ言い含める。


「あのねえ、あたしも五十のおばちゃんだよ、自分の身くらい守れるよ。今日のはちょっとびっくりしただけだもん。毎日お迎えって、ジョーが大変すぎるじゃない」

「別に疲れるわけじゃない。心配する方が嫌だ。おれの精神衛生のために電話をくれ」


 ぶう、と膨れつつも、マリは帰宅前に必ず連絡すると約束してくれた。魔女は長命だが、風邪もひけば骨折もする。血を流せば痛むし度が過ぎれば命を落とす。特別に頑健ではないし、小柄だから体力・腕力でも劣る。慎重すぎるくらいでちょうど良いのだ。

 と、一連のできごとをエウロス帰りのいつもの定食屋で話すと、航平はふうん、と憂いを浮かべた。


「災難だったな。でも、お前んとこはいつまでも若々しくって羨ましいよ。見た目のせいかも知れんが、ジョーはぜんぜんおっさんくさくないものな。老化しないから気持ちが老いないのか、外見のせいで老いがごまかされてるのか……」


 塩鯖定食、雑穀米で。航平のオーダーに改めて加齢を思い知らされた。


「揚げ物とかもう絶対無理、もたれるし太る。ご飯も大盛りにすると苦しいんだよ」

「航さんが自分の健康に自覚的だからですよ。同年代でも、何も気にせずに飲んで食べてる人だってたくさんいるでしょう」

「そりゃね。たださ、弁護士って見た目の印象も大事なわけよ。人を外見で云々とは言うけどさ、やっぱシャキッとしてたいわけ。ジョーはさ、小汚い自分とか小太りの自分とか許せる? 無理だろ、長くジム通ってるから見栄もあるし」

「わからないでもないですけど。おれも見た目を年相応にすれば、身体的に衰えると思います?」

「そりゃ、何とも言えないよ。でも、体と心って思った以上に密接に繋がってるだろ。今のジョーはその見た目を大きく裏切らない内面なんだと思うよ。マリちゃんだっていつまでも若くて華やかだし。歳を取っても衰えないから、脳が錯覚してるんじゃないのか。かといって、別に義肢義体も人相も変える必要はないと思うけど」


 さておき、と塩鯖の骨と皮を皿の端に押しやりながら航平は続ける。


「実害があったら警察が動く話だから、一度相談してみるといいよ。警邏ドローンが増えるだけでも防犯効果は高まるし。誰かが見てる前で悪さはしにくいらしい」

「防犯カメラもあるのに」

「本気ならカメラの死角くらいは調べてるだろ。お前とは違って、マリちゃんはいたいけな十五歳なんだから、気をつけすぎるってことはないぞ、な」

「わかってますしいたいけな十五歳じゃないです」


 マリを知る者は彼女を猫可愛がりする傾向にあって、それは航平も同じだった。外見や口調がそうさせるのだろうか、周り全員保護者、といった風情である。かといって顔見知りの他の魔女たちを若いとは感じない。見た目こそ少女だが、彼女らはそれぞれに老獪で、貫禄がある。

 藪をつつくのも危険なので、ジョーは千切りキャベツを崩しながら話題を変えた。


「アップステアする人が増えましたけど、仕事大変じゃないですか。前例がないことばっかで」

「そーね、それね、めちゃくちゃ大変。義体に入ってれば人間の法律が適用されるんだけどさ、今のとこ、電子犯罪よりそっちの方が多いかな。面倒なのが相続でさあ、特にアップステアの後に、オリジナル人間にだけ財産を残しますみたいな遺言があったときで、それに電子人格が納得しなかったとか、筋肉と六法全書で殴れないってなるともう抜け毛が……この話やめていい?」

「訊いたおれが馬鹿でした」

「ジョーくんのそゆとこ素直でいいと思うよ。や、でもいつでも相談乗るからさ。俺では力になれなくても、窓口を紹介するくらいならできるかもしれないし」


 いつもながら人が好い。変に先輩風を吹かせたり、マッチョ思考を振りかざしたりとは無縁のところが気安く思えて慕ってきた。自分自身も含め、世間が急速に形を変えゆくなか、変わらない航平が頼もしい。


「界隈でちらっと耳にしたところじゃ、金銭トラブルが増えてるらしい。シェンユウの予言機械群に金を積むとかでさ」

「え、じゃあ未来視だけじゃなくて未来誘起もするんですか、AIが?」

「もうしてるみたいだぞ。会員登録はそんなに高額じゃなかったし、金を積むってことは誘起の祈りに支払ってるんだろ。機械が祈るのかどうかは知らないけど。困ってるのはさ、誰に聞いても雲を掴むような話しかしないからなんだよ。ともかくすごい、みたいな評判ばっかりで、ちっとも具体的じゃないんだ」


 遠い日、新しい環境に慣れたばかりのエムと話し、やがて宅配ピザが送られてきたことを思い出す。木佐貫の話を聞く限り、かれはずいぶん事情通のようだが、こういった動向も把握しているのだろうか。

 そしてシェンユウ所属となった魔女アンドロイド、アナスタシアを思った。ほんのわずか、言葉を交わしただけの少女。あの時彼女はリリース直後だったはず。もう世間にも慣れただろうが、彼女が世情をどう見ているのか知りたかった。


「そういえば……アップステアした人たちって、なんて言うか、思ったより穏健ですよね。何だったっけな、だいぶ昔に見た映画なんですけど、主人公が電子的な存在になって、監視カメラや重要なシステムをハックしまくって……みたいな事件は起こってないようだし」

「それこそ現実とフィクションの差じゃないか? 原理的には不可能じゃないんだろうけどさ、もしそれが可能だとして、その証拠を残すような真似をするかな」


 しないだろう。するはずがない。あらゆるシステムに進入してデータを改竄できるなら、犯罪行為の隠蔽も容易なはず。自己を複製し、コンピュータウイルスみたくあちこちのマシンに潜ませ……。


「……俺、今ちょっと大変なこと言ったよな」

「言いましたね」


 味のなくなった定食をかきこんで、早々に別れた。二人とも口にはしなかったけれども、得体の知れぬ不安が兆すのを自覚していたのだ。

 つまり、電子人格、ひいては予言機械はこの世の中を容易に転覆させうるし、今この瞬間も街灯脇の防犯カメラから、警邏ドローンや清掃ロボットから、ICチップの利用履歴から、ブラウザの閲覧履歴から、自分たちを監視しているかもしれない、と。

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