第四章 ミラーリングミライ (2)
十二歳から通っているジムは、地方都市の住宅街という立地もあってか、良くも悪くも体育会系の気質が薄かった。厳めしい漢字ではなく、『ファイトジムEUROS』と横書きされた名称も一因だろう。緊張のあまり右手と右足が同時に出ていた少年のジョーを笑顔で迎えてくれたオーナー夫妻は既に引退し、キッズ向け、ファミリー向け体操教室の補助についている。
ジムの経営は当時エースだったオーナーの息子たちが引き継いだものの、多彩なクラスがあるのは変わらず、老若男女が出入りしていた。
慣れ親しんだ顔ぶれは年相応に老いて、みな健康、体力、体型維持のために通っている。ジョーも週に一度はジムで体を動かすほか、月に二度開かれる
「ジョーが変わらないから、ちょっと微妙な気分なんだよなあ。俺だって別段、老けてる方じゃないし腹も出てないのに」
「……そういうもんですか」
「そりゃそうだよ」
弁護士バッジが光るスーツが吊しのものではないと知ったのは義肢義体化してからだが、気取るでも偉ぶるでもない。入院中もたびたび見舞ってくれた。
退院してメディア露出が多かった頃にも、心配して頻繁に連絡をくれた。情に篤く気さくな兄貴分にはずいぶん助けられている。たぶん一生、頭が上がらない。
「マリちゃんも見た目が変わんないんだもんなあ」
「ですね。外見が変わらないから、服を買い替えずに済むのは助かりますけど」
「みみっちいこと言うなよ」
おれが買わない分、マリは死ぬほど服を買いますけどね。ジョーは余計な一言を烏龍茶で飲み込んだ。
義肢義体化で汗はかかなくなったが、空気中の埃や油脂、花粉、その他諸々の要因で汚れるので、入浴の習慣は残っている。一方で、髭は剃らないし、爪や髪も伸びず、眉毛を整える必要もない(マリに毒づかれている)。
暑さ寒さは感じるが、それによって義肢義体がダメージを受けるわけではないので、服を着るのは習慣化した身だしなみや常識、外傷からの保護、そして純粋なファッションとしてである。そう考えるともう少しこだわるべきかもしれない。いや、こだわるべきところはマリがこだわるからこのままでもいいのか。
「お前さ、今マリちゃんのこと考えてただろ」
「……や、べつに」
「そういう顔をしてた。いやほんと、不思議なんだよなー。ジョーはもっとこう、ふわっとした感じの子が好みなんだと思ってたよ。高校の時に付き合ってた子とか」
四半世紀も前の話を蒸し返すのか。もう顔さえ思い出せないその人は、誠実にジョーを好いてくれたが、当時は受験とバイトとジムで忙しく、彼女が望むほどには時間も気持ちも傾けられなかった。別の大学を受験すると知った時から自然消滅の予感はあったが、やり直そうという気になれなかったのが全てだろう。
無事に受験を終えて大学に顔を出せば、体格が良いからかスポーツ系サークルから熱烈な勧誘があった。それをやんわり断って、一息ついたところでばったり出くわしたのがマリである。
子どもの頃とは体格も服装もまったく異なっており、変わらないところといえば虹色の眼くらいだったが、魔女の外見的特徴たるその眼を見ずとも、ジョーには目前の少女がマリだと一目でわかった。わかってしまった。
「おれにもわかりません。今でも不思議に思うくらいですよ。
「うち? そりゃあまあ、好みのタイプと、実際付き合って一緒に暮らせる人は違うなあ。そういうのもマリちゃんには視えるんだよな。すごいなあ、魔女って」
「あ、あれどうですか、ガイウスの魔女アンドロイド。見たことあります?」
ああ、と航平の表情は渋い。
「あれって、機能はキキと同じなんだろ? 喋るか喋んないかって、俺はあんまり興味ないな。娘は会いたいって言ってるけど、整理券にしろチケットの手配にしろ、何だかなあって感じでさ。キキは手軽だけど、見た目がまんまサービス端末だから、アイドルめかしたんだろ。手が届きそうで届かないアイドル。……まあ、音声入力より会話の方が、単純に吸える情報量は多いわけで」
最後は声を潜める。それにはジョーも異論はない。問題は、そのデータがどう使われるのか、だ。航平は鞄から
「ガイウスの個人情報保護についてのページな。ざっくり言うと、ユーザーがシステムに入力した個人情報は、弊社のサービスの改良や発展のみに使用しますと。まあ、よくあるやつだ。怪しいところはないけど、何とでも拡大解釈できる」
「弊社のサービス、の範囲が大きすぎますもんねえ」
「例えば魔女とチャットできますよってサービスが来れば、ユーザーの生活時間までもだいたい把握できるだろ。魔女に直接質問させてもいいし。そうすりゃガイウスは国民の……って言うと大袈裟かもしれないけど、あらゆるデータを握れるわけだ。まあ、どの部分をどう利用するかってところが問題になるわけだけど」
ジョーも航平もAIの専門家ではないが、AIに学習させるにも、目的に沿ったデータがないと意味がないことくらいは知っている。その選別を別のAIにさせる? マトリョーシカのような話に思える。
「でもさー、魔女アンドロイドって言うんだから、てっきりマリちゃんみたいなんだと思ってたよ。ついに人工の魔女が誕生したのかって。でも未来視も未来誘起もしないみたいだし。アップデート来るのかな」
やはり期待されるのはそこだろう。崔とアナンドが渇望していたのも。
「どうでしょう。でも、可能性はありますよね。徐々に、みたいなやつ」
「魔女アンドロイドが未来視と未来誘起をするようになったら、マリちゃんたちはどうなるんだろうな」
「どうもならないみたいですよ。むしろ助かるって言ってました。祈るのはめちゃくちゃ疲れるから、アンドロイドが代わりに祈ってくれるなら楽になるって」
航平にとっても意外な答えであったらしい。へえ、と言った拍子に、大根おろしがトンカツから滑り落ちた。
ジムで航平と顔を合わせれば、いっしょに食事をして帰る。身の潔白を証明するために、とツーショット写真を求められるたび、そこまでしなくてもと思うが、定食屋だったりチェーンの居酒屋だったり、気軽な店にしか立ち寄らないのは、気配りなのだろうと遠い気分で思う。佃家の夫婦仲は良好だし、家族ぐるみで付き合いがあるので誤解はなかろうが、きっと彼なりの誠意なのだ。家族を大事に思っている、と。
マリは仕事が不規則で、泊まり仕事も多い。ジョーがどこで誰と何を食べていようともとやかく言われないし、彼女に対しても何も言わない。魔女の仕事は個人情報の塊で、企業からの依頼も珍しくなく、時には民族、国家にまで影響のある話だから無関心を貫いているし、彼女がその内容を漏らすこともない。
彼女とはもうずいぶん長く一緒にいるが、べったりくっついていたのは付き合い始めの一年ほどと、義肢義体化してからの数ヶ月くらいで、後はそれぞれに講義や仕事、バイトに試験と気ままに過ごしていた。
魔女の仕事の拘束時間によっては、誕生日もクリスマスも会えずに終わる。長期の休みが取れれば温泉地へ飛び、あるいは宅配ピザをつまみながら映画を見る。それでうまくいっていたから、不満に思ったことはない。
だが、十年もの闘病生活を文句も言わず支えてくれたことには感謝しかないし、重すぎる頼み事にも嫌な顔ひとつしなかった。ジョーが痩せ衰えて指輪が抜け落ちても、義肢になって指輪をつけられなくなっても、彼女の指には常に揃いのリングがあったし、それとなく勧めた離婚の話には激怒した。
マリが生きる支えだった。そう在ってくれた。彼女が隣にいてくれたからこそ今日がある。この感謝と恩をどう返せば良いのか、未だに答えを出せずにいる。彼女が離れていかないのだからと胡座をかいてはいられない。
航平と駅で別れて家に帰った。採光窓の奥は真っ暗で、マリは今日も遅いか泊まりなのだろうとドアを開けたら、上がり
「マリ、どうした、どこか痛むのか」
ワンピースの裾やボーダーのハイソックスが汚れるのも厭わずに、彼女は屈んだジョーの首筋にしがみつく。
「つかれたー! 今日のはほんとにやばかったの、これ無理だろってみんな半泣きだったんだよ~! 何とか終わらせて、後は窓口担当の仕事って投げて帰ってきたけどさあ」
「そっか、頑張ったな」
「めちゃくちゃ頑張ったよー!」
意識していたわけではないが、ごく自然に体が動いた。いつも柔らかな唇がすっかり乾いている。口紅も落ちていて、余裕のなさを如実に表していた。
マリはみるみる頬を赤らめ、肩に顔を埋めてしまったので、大儀して編み上げのブーツを脱がせてリビングまで運んだ。口を尖らせて上目遣いで睨まれる。
「お風呂入りたい。お腹も空いた。ジョーはジムの日?」
「うん、航さんと行ってきた。先にシャワー行きなよ、パスタでも茹でとくから」
「だめ、ジョーが先!」
言い捨てて、振り返りもせずバスルームに消えた。ジョーが荷物を片付け湯を沸かし、着替えていると濡れ髪のままのマリが戻ってきて、後はすべてうやむやになった。
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