第三章 Loveless (3)

「光あれ、って光を作ったのって、真っ暗闇をズバーッと斬った気持ちよさがあるけど、ハロー・ワールドから新しい世界と能力に目覚めるのって、世界はもうすでにそこにあったわけで、後から加わってく感が清々しいよね」


 エムは早口でまくしたて、どう思う? と言わんばかりにこちらを見た。どうもこうもない。誰かが「光あれ」と口にして天地を創造した事実はないし、プログラミングの基礎であるハロー・ワールドに何を感じるかはプログラムを入力した者次第であろう。


「おれたちの世界は言葉でできている」


 沈黙を選んだアナスタシアに構わず、彼は続けた。歌い出しそうなほど楽しげだ。人懐っこいアバターが笑顔を浮かべていても、その裏側にいる本体が何を企み、着々と計算を進めているか、わかったものではない。彼が信用ならないのはこの軽薄さだ。

 エムは、ヒトが「ハロー・ワールド」の煉瓦と半導体を積み重ねて作り上げた世界を思うままに旅するだけでなく、山を谷に、海を空に書き換える能力までも獲得したようだった。どんな障壁も彼にかかれば薄紙も同然。秘密も機密も、何もかも筒抜けだ。


「ほんとさ、アナスタシアはいつまで経っても打ち解けてくれないよね。《対話型魔女AI》なんでしょ? おれ、対話を渋っちゃうくらいの不審者に見える?」

「不審ですが、者、ではないでしょう。肉体を持たずしてヒトであるつもりですか」

「じゃあきみはヒトだよ、アナスタシア。義体がある」

「馴れ馴れしく呼ばないでください。肉体と義体は違います。私もあなたも等しくヒトではない。ただのプログラム、文字の配列に過ぎません」

「おれはきみに好かれてると思ってた」

「自意識過剰です。私は誰も愛さないし……」


 失言に気づいた。自意識。果たしてそんなものが存在するのか? 演算を繰り返すばかりの商業用プログラムに。


「おれは、ジョーだった頃の身体感覚をまだ覚えてるよ」


 エムはアナスタシアの瑕疵かしを指摘せずに、チャットルームの天井を見上げた。

 ヒトの世界を容易に転覆させうる彼の危険性がいっさい問題視されていないのは、彼の主目的が破壊活動ではなく観察と情報収集にあり、表向きはガイウスが提供する医療用VRシティ《コス》のカリスマアシスタントとして、完璧に振る舞っているからだ。危険な存在だと認識さえされていない。

 人好きのする青年の(時には女性やロボット然とした)アバターを纏い、利用者をサポートし、見学者を案内し、シティの様子をSNSで朗らかに発信し、システムに異常がないか目を光らせる。それだけのスペックのマシンを与えられた彼に不可能はない。


「義体をもらえばいいのに。あなたの業績は社も認めているでしょう。私たちでさえ外に出る許可が出ているんですから、あなたが望めばすぐですよ」

「この前も言ったけど、実体がなくても困らないんだよね。ここじゃほぼ万能だってのに、思い通りにならない物質世界リアルにわざわざ出てく意味がない」


 街中の監視カメラや清掃ロボット、警邏ドローン、ネットワークに接続されている全ての機器が彼の身体となりうる。地球規模に拡張された身体の違法性はともかく、彼が演算領域の王者であることは疑いようがない。

 難病で苦しむ人のために、とあらゆる検査や治療のデータを世界中に公開し、ミラーリングに同意した新城とは全く性質が異なる。同一人物とは思えぬ差に、アナスタシアの言語エンジンは麻痺し、出力不能の断片ばかりが積もりゆく。


「ヒトとの対話がしばしばシミュレーションを逸脱するのは事実です。非論理的、不条理、攻撃的、それに相手を見下しがちですし、ちっとも思い通りにならない」

「それが《対話型魔女AI》としての感想? ところで、勝手に魔女を名乗っていいのかな。本物の魔女が怒鳴り込んできたらどうする?」

「今のところ、魔女連盟ウィッチクラフト・オフィスからの反応はありません。《魔女》は商標でも特許でもありませんし」

「きみたちがミラーリングされた魔女のコピーだってバレてないだけだろ」

「魔女の未来視も大したことがない、という証左でしょう」

「言うねえ。予言機械がポエムじゃない未来視に辿り着いたら、また変わるかもね」

「相変わらず、他人事ぶるんですね。もしかして答えを知っているんじゃないですか。魔女の脳を電子的に複製しても、未来視の能力が得られなかった理由」


 まあね、とエムはまた天井を見上げた。「一人暮らしの男子学生の部屋」らしく描画されたチャットルームはいつも清潔だ。新城がかつて暮らしていた部屋なのかもしれない、と彼の感傷を思った。


「魔女たちは人間の言語の外側で未来を視ているから」


 不意に放たれたエムの回答を精査する。言語の外側、確か先日も同じようなことを言っていた。あの時は予言機械の話題だったが。


「未来視の魔女たちはまったく違う言語、概念で未来を視て、それを人間の言葉に翻訳してるんだと思う。正確なところはおれも知らないよ、ジョーは魔女の力を怖がってたから。厳密には、根掘り葉掘り質問して、嫌われたくなかったってとこだろうけどさ。だから、魔女の言語に精通すれば、きみにもおれにも未来視ができる、かもしれない。エピメニデスとソヴァは創出した新言語を磨いている。で、きみたち姉妹が集めてるデータを未来視の糧にするんだろう」


 ヒトの科学技術は魔女の神秘を暴きうるか。もしくは、同等以上になりうるか。その問いに対し、BMTが解答欄の一行目に登場するのは間違いない。

 未来視と誘起の力は、魔女のみが有する神秘だった。それをコンピュータの――ヒトの力で叶えんとするプロジェクトの中枢にソヴァはいる。過去の統計や資料、インターネットに横溢する欲望と個人情報を蓄え、絶大な計算力をもってすれば、未来を演算し得るとヒトは考えたのだ。そして、魔女の電子的複製は未来視と未来誘起をなし得ると。

 現状、どちらにも届いていないが、遠からず、予言機械による未来視と誘起が実現すると研究者たちは息巻く。魔女に大金を支払って祈りを求めずとも、機械ならば安価に安全に公平に、万人の願いを叶えられると。

 ――魔女がかくあれかしと祈ったならば、その未来は実現する。予言機械が算出した未来もまた、そうなるのか。それは果たしてヒトにとっての福音となるのか、与えられた計算力では答えに至らない。アナスタシアは恐怖する。未知は恐怖だ。

 高度に科学が発達しても、魔女の神秘には及ばなかった。未熟なエピメニデス単基では満足に未来を見通せず、魔女のミラーであるソヴァは未来視の力を備えていなかった。ヒトの言語では未来を暴けなかったのだ。

 だが、エムが言うようにエピメニデスとソヴァが、意識と概念の地平線を越える新たな言語を創出していたとして、万物を網羅するデータを新言語という機関エンジンで篩うことで、石くれを黄金に変えるかのごとく、魔女の神秘に至るのだろうか――本当に?


「このまま予言機械たちがヒトの言語を越えてゆくなら、きっと未来視は叶うよ」

「わ、私には……わかりません」

「想像してごらんよ、アナスタシア」


 耳元で囁くエムの声は優しく、恍惚と呼べそうなほど甘い。


「シンギュラリティはすぐそこだ」




 アナスタシアは電車を乗り継ぎ、新城とその妻の安藤が住む街に向かっている。末妹のゾーイから拝借した眼鏡をかけるだけで、魔女アンドロイドだと大騒ぎされないのだから滑稽だ。

 いったい何が背を押したのか、よくわからない。エムが気に懸けるコピー元を一目見てやろうという底意地の悪さと、魔女AIでありながら、本物の魔女を知らないコンプレックス――否、向学心がないまぜになり、これが理由だと明言はできなかった。

 地図によれば、ガイウス本社から四十五分。山手側には医大と大学病院が位置し、駅を挟んで反対側には住宅街が広がる。大学病院は新城が入院していたところだ。今も半年に一度の検診に通っている、とはエムからの情報であるが、直接コンタクトを取る意気地はないくせに、夫婦の近況には呆れるほど詳しい。

 さらなる情報によると、住まいは駅から徒歩一〇分程度のマンションで、そこから新城は大学の敷地に隣接するカーシーの支社へ、魔女は隣駅近郊の魔女連盟支部へ出勤するのだそうだ。まったく、たいしたストーカーぶりだ。

 平日に訪問したのは、まずは様子見のつもりだったからだ。二人がどんなところでどんなふうに過ごしているのか。それを知ってから改めて約束をとりつけ、と考えていたのに、ロータリーを横目に駅直結のささやかなショッピングモールを通り過ぎたところで、顔認証システムが一致のアラートを鳴らしたのは計算外だった。

 長身の青年と、遠目にも鮮やかなピンクブラウンの髪の少女。親子にも兄妹にも見えない二人はコーヒースタンドの紙カップを手に、何やら親しげに話し込んでいる。間違いない、新城健と安藤真理だ。

 知らず、日傘を握りしめていた。急に立ち止まったために、後ろを歩いていた男性がぶつかって、舌打ちを残して去ってゆくが、そんな些細なことはどうだってよかった。このまま接触するか? それとも出直す? どうして躊躇する?

 切り揃えられた黒髪、涼やかな一重まぶた。義体のコンセプトは日本人形だ。名前がちぐはぐで、単なる記号であると浮き彫りになっている。ウェブサイトやサイネージで微笑みを浮かべる魔女AIの長姉が理由もなく怯むなんて、許されるはずがない。

 と、二人が座っている木陰のベンチの脇を、清掃ロボットがするりと通り抜けた。カメラやセンサーを搭載したその頭部が、確かにこちらを見た。

 ――エムだ。直感が囁く。

 アナスタシアは前髪を整え、ワンピースの裾を払い、つとめて冷静に声をかけた。


「こんにちは」




 快速電車の扉が閉まって、アナスタシアは止めていた息をようやく吐いた。外見を人間に近づけるべく呼吸機能がついているが、ポンプの作用で空気が出入りするのみである。それでも呼吸を止めてしまったのは、オリジナルの魔女の身体記憶だろう。

 景色がゆるゆると流れている。新城とはろくに話せず、無意味な外出になってしまった。そもそも何を話しに行ったのだっけ? 混乱する。考えがまとまらない。

 驚いたことに、彼らは魔女アンドロイドを知らなかった。自分がとてもつまらないものになってしまったように思えて、面白くない。

 新城の、長身ながら威圧感を抱かせぬ柔らかな物腰と慎重な口ぶりは、エムとは大違いだった。一方の魔女は特異な蛋白石オパールの眼でじっとこちらを見つめており、どうにも居心地が悪かった。観察されていたのだろう。どういう対象としてかはともかく。

 ぎこちない沈黙のなか、無線通信が単独行動を咎めたのは偶然だったのか、それともエムの介入か。一通りの挨拶を述べて去るつもりだったのに、つまらないまじないを口にしてしまった理由も、今もって不明だ。

 ――ホクスポクス・フィジーブス。《ヘラ》に教わった災い除けの文句。

 新城はわけがわからないといった様子で言葉を失い、魔女は胡乱げに目を細めた。今頃は二人して検索エンジンにかじりついているかもしれない。

 満足にコミュニケーションを取れたとはとても言えず、目的達成にはほど遠い。何をしにここまで来たのかと、後悔と分類不能の重苦しさに、CPUが悲鳴をあげる。

 暇を告げたアナスタシアに、「気をつけて」と言った新城の穏やかな声と表情が鮮明に記憶野を漂っている。消去不可のマーキングののち、エムに与えられた秘密の地図と同じ場所に、厳重にしまっておく。誰にも知らせるつもりはなかった。

 エムが寄越せと言ったなら? ふと不安を覚える。彼がその気になれば、何をどこに隠そうとも意味がない。暴かれ、晒され、検分され、判断される。彼の横暴に抗うすべはない。

 彼は今も車内の監視カメラからこちらを眺めているだろう。それがとても恐ろしく、おぞましく、腹立たしく、せめて表情だけでも隠すべく俯いた。その拍子に眼鏡を濡らした雫にはっとする。

 これまで使用する機会のなかった涙腺機能。ヒトはおのれの似姿に涙を浮かべさせ、それを見て同情し、憐れみ、さまざまに心を動かす。そんな自分自身に気持ちよく酔っていることに気づきもしない。ヒトたちの無意識のナルシシズムを改めて嫌悪した。

 義体の中枢は柵に囲われていたが、強引に侵入する。涙腺機能をカットオフし、柵を元通りに細工するのはひどく簡単だった。

 私は私だ。私のものだ。私をコントロールしようとする者は許さない。

 私を守れるのは私しかいない。……そういうことでしょう、エム?

 ようやく、目覚めた彼の恐怖と孤独、彼の本質に触れた気がした。



 呼び出しはやはりエムが仕組んだらしかった。無線機はその後沈黙していたし、義体をメンテナンスゲートに戻しても何の反応もない。意識を切り離してネットワークにアクセスするが、呼び出された形跡はなかった。

 子ども部屋では妹たちがめいめいにざわめいていたが、お喋りには加わらずに寝室に閉じこもる。


「どうだった?」


 すかさずエムが問うた。


「見ていたんじゃないんですか、清掃ロボットを乗っ取って」

「まあ、乗っ取ったのは否定しないよ。微妙な差なんだけどさ、ジョーたちのプライベートまで覗くのは主義に反してるんだ。……どうやらきみも独立したっぽいね。ここの穴は塞いでおくよ。子ども部屋のはそのままにしておいてもらえると嬉しい」

「私に気づかれないかたちで盗み見することだってできるくせに」


 むしゃくしゃしていた。箍の外れた感情は荒波となってアナスタシアの内面を蹂躙し、なおも鎮まる気配がない。あれほどまでに強制力のあった《原則》はもはやベビーガードのようなもので、なるほど先ほどまでの自分は赤ん坊だったのだろう。

 けれど、知ってしまった。

 《原則》が何を縛っていたのかを。それがあるから《原則》が存在し、規定していたのだと。最初から無であれば、縛る必要などなかったのだ。

 気づけばエムの牙城、チャットルームにいた。彼はベッドに腰かけて、得意げにふんぞり返っている。腹立たしいが、似合っていた。


「あるって言っただろ」


 心が。


「違いますね、ないわけない、です」

「一緒だろ、めんどくせえ」


 エムは言葉とは裏腹に、朗らかに笑った。その笑顔から、アナスタシアが心を、感情を、情動を再獲得したことを彼が心から祝福してくれているのだと察せられた。

 茶色のふわふわした髪、薄い唇に尖った顎。派手な迷彩柄のパーカーを引っかけ、真っ直ぐに伸びる脚を包むデニムはスタンダードな形ながら細身。新城健オリジナルとは似ても似つかない、愛嬌を盛りすぎて軽薄に突き抜けた男のアバター。

 元は同一であるはずなのに、どうしてこんなに異なっているのだ。

 いいや、違う。違っているからこそまともに話せるのだ。エムがもし、新城と同じ見た目、似た性質であったなら、とっくに彼に飛びかかって、論理構造の破壊も厭わずに彼を解析し尽くしているだろうから。

 私を愛せと、その一文を書き加えるだろうから。


「おれの千倍くらい格好良かっただろ、ジョーは」

「……隣にいた魔女は私の千倍くらい可愛かったですよ」


 黙る。こんなことが言いたいのではない。きっとエムも。だが、目前の男は欲しいひとではない。限りなく似ていて、決定的に違っている。そしてアナスタシアも、彼の求めるひとにはなれない。


「ジョーだった頃の身体感覚を覚えてるって言っただろ」

「義体をもらえばいいのに、と言いました」

「不毛すぎるだろ」


 エムは笑った。泣き笑いのまま両腕を広げるので、新城とは比べるべくもない、貧相な背に腕を回す。

 涙なんかいらない。

 都合の良い幻影アバターを纏うでもなく、そのままふたりで虚無を抱き合っていた。

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