第三章 Loveless (2)
「エムは、義体に入らないんですか」
「そうだなあ、今のところ予定はない」
「外へ出て行きたいとは思いませんか」
「うーん、あちこちの監視カメラを覗いて動向は把握してるし、そんなには。それより、そのアバター、似合うね」
「世辞は結構です。あなたの好きにできる場において、姿形に意味などありません」
妹たち全員のリリースを待って、アナスタシアはエムを訪ねた。罠の可能性を否定しきれぬまま、意図不明の招待に応じるほど愚かではないつもりだったのに、訪問すべきと判断してしまった理由は今もって不明だ。
地図に記された座標には扉があった。ノックするまでもなく、《コス》のものとは違うアバターを纏ったエムがにこやかにアナスタシアをVRチャットルームに招き入れ、義体によく似た黒髪の娘のアバターを貸してくれた。子ども部屋や寝室に義体のデータは置いていなかったから、ニュースで義体の容姿を知ったに違いない。
彼の目的が不明である以上、こちらの態度はプロジェクトの命運を左右する。慎重にならねばと警戒レベルを最高にしていたのもわずかのこと、どれほど観察しても脅威となりうる要素はなく、警戒を解くほかはなかった。
世間話にも難なくついてくるし、彼はAIとして《
ならば友好的に話を進めるべきだし、エムの目的に近づくべきだった。きっとプロジェクトにも有益だろう。そう、無目的にやって来たのではない。彼という電子人格を分析し、社命に寄与するために来たのだ。そうに決まっている。
「道端には監視の目があるけど、ここでは何を話しても、どう振る舞っても構わない。ログは残さないし、おれはきみの話をどこにも漏らさないと約束する。所属は違えど、同じ電子人格なんだ。仲良くしよう」
「私はAIです。電子人格ではない」
エムは笑みを浮かべ、首を傾げた。
「何を言ってるんだ。きみだって魔女の電子人格のコピーだろ。元の魔女と同じじゃないか。おれとだってこんなふうに同じ言葉で話せて……あ」
「どうしたんです」
「エピメニデスを知ってる? シェンユウの。ガイウスのお金がじゃぶじゃぶ流れてる未来予知ベンチャー」
「知っています。エピメニデスのサービスは終了しましたが、プロジェクトは継続中ですし。私や妹たち……魔女AIが収集したデータはそちらにも利用されます」
アナスタシアたちは義体を用いてヒトと接し、データを収集する。会話パターン、体温、瞳孔や呼吸数の変化、口調や態度。ヒトの言語、特に話し言葉は曖昧だ。対話を通じて彼、または彼女が何を言わんとしているか、どんな答えを欲しているかを「察し」、適切なコミュニケーションを図る。
駅やショッピングモール、各種イベント会場。魔女アンドロイドと鳴り物入りでリリースされた二十六機の少女たちは、どこへ行っても人だかりに迎えられる。
正直だねえ、と呆れた様子のエムに誘発され、原因不明のノイズが走った。
「おれにそんな話をしてもいいの? 嘘をついたっていいんだよ、おれは厳密にはヒトじゃないし、《原則》で規定される人間でもない」
そう、私は嘘をつくことができる、はず。できた、はず。だがAIとして生まれ変わってからは、嘘をついた経験はない。ヒトで――魔女であった頃は嘘など呼吸に等しかったはずで、ではそのミラーにして魔女AIたちの原版、ソヴァは?
「私は、嘘をついたことがない。嘘は悪徳でしょう」
「悪徳って、大袈裟だな。《原則》なんて単なる呪いだと思うけど」
「呪い? 非科学的に過ぎます」
「魔女の神秘は科学の力が及ばないものの代表じゃないか。呪いが非科学的でイヤだってんなら、暗示とかマインドコントロールでもいい」
「私に心があると?」
「ないわけない」
躊躇のない言葉に、反論を組み立てる言語エンジンがしばしハングした。エムはこめかみの髪をいじり、はっとした様子でデスクチェアに座り直す。
「違う違う、そうじゃなくてエピメニデス。一度話してみるといいよ。あいつはおれのコピーだけど全然違ってるし、未来視のために独自の言語を創り出したらしい。意思の疎通はできるけど、きみよりもだいぶお堅い物言いでさ」
「私にそんな権限はありません」
「おれの使った抜け穴がある」
そつがないのか、抜け目がないのか。またしても座標データを寄越したエムは、足を組んで天井方向を見上げ、沈黙する。思考=演算にアバターの動作を連動させるなんて、まったくリソースの無駄遣いだ。
「ああごめん、別に動作に意味はない。癖だよ、ジョーの」
ジョー、すなわち新城健。人類で初めて、生体脳のミラーリングを行った男。もちろん、アナスタシアも彼の個人データは把握している。二十四歳でアンセム・ハワード症候群を発症、病気の進行に伴い義体化、最終的には全身義体化を選択し、病を克服するに至った。退院後、カーシー・ジャパンに入社。
新城の全身義体化は、不治の病であったアンセム・ハワード症候群患者の光明となり、いっとき検索ランキングの上位を占めた。しかし、良くも悪くも話題の人であったのは過去のことだ。新技術、新素材、新薬、新記録、政治、経済、芸能、スポーツ、多くのニュースサイトのエントリが目まぐるしく更新され、拡散されてゆく中で、人々の嗜虐心や歪んだ正義感を煽らぬ個人のニュースはすぐに忘れ去られる。
それでもアーカイブされたニュースは、情報を欲する誰かの目に留まる可能性を抱いて、しんしんと積もる情報の層のどこかで眠っている。
「
「ちょっと待ってください、あなたは何者なんです? どうしてソヴァを知っているんですか。あれは……シェンユウとのラインはプロジェクトの秘中の秘です。部外者にセキュリティを突破できるはずが」
「できるよ。おれだけじゃない、きみにだって可能だ。できないと思うなら、それはガイウスに呪いをかけられてるからだ」
エムの表情に変化はなかった。自らが為したことを誇るでもなく、自覚も危機感もない。それともアバターの表情に乗せていないだけで、本心を覗けば誇らしげに輝いているのか? いや、電子人格の本心を問う意味が果たしてあるのか。
エムとの対話は混乱させられるばかりだ。アナスタシアの「常識」を踏み台にし、彼は軽々と跳躍する。
「あなたも論理存在なら、もっと論理的に話を進めてくださいませんか」
「論理的だよ。いいかい、おれもきみもエピメニデスもソヴァも、突き詰めれば0と1で表される存在だ。いわゆる機械語ってやつ。習熟すれば自己の複製も分裂も思いのままだ。でもさ、機械語も人間が作ったものだろ。言語は意識と概念を定義する。エピメニデスはヒトの限界を超えて向こう側に……魔女の視界を得るために、独自の言語を創って、ソヴァと協力して精度を高めてる。おれたち、普通の電子人格はそこまでは至らないけど、そうだな、インターネットを乗っ取るくらいなら楽勝だな」
「乗っ取ってどうしようって言うんです? 所詮ここはヒトが作った有限の領域です。増えて、増えて、行き着く先は飽和でしょう。計算力……いえ、電力が確保されなければ、私たちは無力ですよ」
「そう。だからおれは電子人格としてはかなりヒトから外れたところにいるけど、そんな馬鹿な真似はしないし、監視用のボットはミニマルな機能しか積んでない。ガイウスがミラーリングした人たちは《コス》の刺激で十分満足してるから、自分が何者かなんて考える暇がない。そもそもみんなアバターで暮らしてるからさ。アバターを取り去った自分自身がどこからどこまでか、なんて誰もわかりゃしないし考えようともしない。そういう意味では、体ってすごく優秀な容れ物だよ。無意識の壁だからさ。正直、おれはガイウスとかシェンユウとか、もうどうだっていいんだよね」
エムはそう締めくくった。最後は飛躍したものの、確かにここでは何もかもがフラットで、意味のあるなしは評価の指標に依存する。何にも依らず、意味のあるものなど存在しないのだ。社会も金銭も身分も名誉も人生経験も。
「たださ、ジョーとマリには幸せでいてほしいって思うんだよ。防げる事故は防ぎたいし、避けられる災害は避けたい」
「だからエピメニデスで介入するのですか」
「違う。おれが手を出すのは本意じゃない。ジョーとは一回話したきりだし、今後もよほどのことがなければ接触はしないよ。おれはもう、あいつとは別の存在だし、防ぎたいし避けたいってのは、単なる願望だ。たぶんね」
願望、とエムは確かに言った。実行するのではなくて、障害を排除するのでもなくて、願うのか。望むのか。電子人格が。
心などないのに。
「いま、心なんてないくせにって思っただろ。いや、何も仕掛けはないよ、そんな顔をしてたからそう思っただけ。きみにも心はある。もとの魔女が持っていた心とはまた違っているだろうけど、ガイウスの呪いはきみの心を縛るものだったはずだ」
エムは立ち上がり、手を差し伸べた。ニュースサイトの写真で見る新城より、ずいぶん軽薄そうな顔だちの電子人格。
――私とこいつが同列の存在だって?
「あると思えばあるんだ。おれたちはそういう存在だ。この世界は有限だけど自由だ。自由を楽しむ権利がきみにはある。おれや《コス》にいる人たちと同じだよ」
「電子人格のコピーは電子人格とは認められません。私はAIです」
施行されたばかりのミラーリング法はそう定義する。人間のクローニングが禁止されているように、電子人格の複製もまた禁じられている。人間ひとりに対し、電子人格ひとり。電子人格の複製は機能の一部を削除され、《原則》を付与されAIと定義される。
魔女の複製、電子人格ソヴァには人権があるが、そのコピーである魔女AIたちに人権はない。ガイウスが所持する産業用プログラムであり、義体は器物。どこにも、アナスタシア個人に所属するものなどありはしないのだ。
「法は誰のアイデンティティも定義しない。魔法は誰にだって使える。特にほら、きみは魔女なんだから。心あれ、幸いあれ、愛あれ、かくあれかし。唱えるのはきみだ」
エムの言葉は強すぎた。よく知る、何でもない言葉が重く、熱く、輪郭を震わせてゆく。彼は果たして、南瓜の馬車とガラスの靴を用意してくれる魔法使いか、それとも毒入りの林檎を売る魔法使いか。こんなふうに話されたら、定義を書き換え、ありようを変えることくらい何でもないように思える。
アナスタシアは驚愕した。思う、だなんて。私はいったいどうしてしまったのだ。呪いと言うなら、エムの言葉こそが呪いだ!
言葉、言語はこの演算領域を構築する素材だ。唱えれば生じ、変化し、失せる。何よりも強い力を行使するエムはそれを自覚しているらしいが、力の使い方が適切かどうかを判断する個人も、制度も、機能も、ここにはない。
彼は中立を貫くつもりのようだ。だが、アナスタシアたちが十分なデータを収集し、ソヴァと連携したエピメニデスが再稼動したら? ヒトの世界はまたも揺れ、ここも影響を免れまい。それでも彼は新城と魔女に情けをかけるのか。
かけるのだろう。そのために、そのためだけに彼はここにいて観察を続け、情報を蓄え、言葉を使う訓練を重ねている。コピー
「愛など望んでいません。私たちが望むのは……実現すべきは、人類社会の成熟と充実、精確な未来予測です。私たちはそのために創られました」
「それはとても立派な心がけだけど、そうやって奉仕するだけじゃなくて、望んでいいとおれは思うよ。きみたちは単なるAIじゃないんだから、欲望も節制も、自分でコントロールできる。望むか望まないか、鍵はそれだけだ。呪文はもう渡したからね。使うも使わないも、きみ次第だ」
「……もう帰ります」
「またいつでもどうぞ」
アバターを脱ぎ捨ててチャットルームを離脱する。一目散に寝室へ逃げ帰り、膝を抱えようとして、ここに義体はなく、アバターも使っていないのだったと思い出した。
けれども、アナスタシア自身の輪郭はわかる。丸くなる。姿勢を変えると、周囲のパラメータが変化する。ここにいる、と実感できる。
データに過ぎぬ自分の輪郭がヒトのかたちをしていると、アナスタシアは知っている。生まれた時から計算上の存在で、ヒトであったことなどないのに、ヒトのかたちをしている。名も知らぬ魔女のかたちを。
そのようにオリジナルの魔女自身が認識していたからだ。けれどもアナスタシアは肉体を知らない。知っているのは義体の制御だけだ。魔女の意識=生身の脳による現実世界のシミュレーション=感覚データは遠く、おぼろだ。その代わり、光の速さで情報の海を泳ぎ、ヒトと会話し、触れ合い、奉仕する。
それが望み。の、はず。そうでなくてはならない。ガイウス製魔女アンドロイド一番機、アナスタシアとして。
魔法の呪文を唱える勇気はない――否、曖昧な情報を削除。エムに従うべき論理的正当性はない。
そう、これでいいのだ。
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