断章2 Morning Glory

 雨の音で目を覚ました。夜明けが近いのだろう、カーテンの外はぼんやりと白んでおり、細く開けた窓から冷たい風が吹き込んでいる。

 隣に横たわるジョーはまだ目を閉じていた。起こさないよう顔を近づけて、すん、と息を吸う。精巧な機械仕掛けの体は人間とまったく見分けがつかない。ただし、呼吸は胸が上下するだけだし、脈も体温もない。耳を澄ませば、生命維持装置の唸りがかすかに聞こえる。

 彼の命を救った技術に感謝し、驚嘆するとともに、このまま目を覚まさないのではないかと、不安に思う気持ちはまだなくならない。きっと、彼の体温も匂いも、もうおぼろげにしか覚えていないからだと思う。

 死に瀕しても、機械仕掛けの体になっても、彼の本質は何も変わらなかった。繋いだ手に、抱きしめた胸に体温がなくなり、鼓動と呼吸が失われても、笑顔も立ち姿もどこか遠くを見る眼も、キスしながら髪を触りたがる癖も、まったく同じだった。

 通院に便利な町に越しての新生活もようやく落ち着いた。不思議なのはふとした時に、彼の手に温もりを感じることだ。血の通わないはずのはだに。

 こちらが仕事にかまけている間に、皮膚を発熱素材に変えたのだろうか。何も言わないということは変わりないのかもしれないし、マリが気づくかどうかも含めてのテストなのかもしれない。

 義肢義体フィギュアに用いられている最先端の技術や素材については、聞いても理解が及ばない話ばかりだが、体温を発生、維持する機能はないはずだった。

 熱を感じるのであれば生命維持装置の熱か、機械部品の動きを統合するマイクロチップ型コンピュータの熱か――いや、どちらでもない。それらの排熱が満遍なく皮膚を温めたり、体温だと感じられたりするだろうか。

 気のせい、と断じるのも味気なく、尋ねるのも気恥ずかしい。ベッドを抜け出して携帯端末ロギアで検索をかけた。結果、人工物に強い親しみを覚えると、体温を錯覚するケースがある、との論文がヒットした。タイムスタンプはずいぶん前、二十一世紀初頭。

 そっかあ、とマリはため息をつく。

 あたしはちゃんと、ジョーをジョーだと思っているのだ。思っているよりも深く、無意識に近いレベルで。

 ジョーがジョーでなくなったことなど一度もない。何をどのように調整したのか、それともリハビリの賜物か、手を繋ぐ時の指のかたちも、格闘技のネット中継に見入る背中の丸みも、耳をくすぐる低い声も、何もかも同じだった。

 愛した男のままだった。

 生きていれば何だっていい。闘病中のジョーを見舞う心中は、彼の両親とも何度交わしたか知れないその一言に集約される。けれど、もし、もしも、直方体のサーバー筐体を差し出されて、これが新城君ですと言われたなら。あるいは、ショッピングモールの店頭でクーポンの発行をしている案内ロボットや、お掃除ロボットを指してジョーだと言われたなら。――それでもあたしは彼を愛せただろうか。

 ひとがひとのかたちをしている意味を、その重みを、痛いほど思い知った。義肢義体の提案やメンテナンスを一手に引き受けてくれている木佐貫には感謝が尽きない。

 人間というものはとてもとても欲深く愚かで、遺伝子の乗り物として純粋な存在だから、高度なAIや対人コミュニケーションソフトウェアが一般化され、機械部品が小型化されて人間と変わりないサイズのアンドロイドが誕生したとき、まず投入されたのは医療、介護、福祉、そして性風俗の分野だった。

 日本は平和なのだろう。諸外国では軍やPMSCS民間軍事会社が真っ先に大手の顧客となったらしいから。しかしその平和が、ジョーとの平穏な夫婦生活(!)に繋がっているわけで、文句のあろうはずがなかった。

 単に性欲を発散させるだけならば、いくらでも合法的な手段が用意されているので、義肢義体のジョーには正直なところ何も期待しておらず、それなのに思いのほか懐かしい熱が蘇ったものだから、不覚にも醜態を晒し、彼を喜ばせることになってしまった。

 口さがない同僚たち、つまり魔女たちは百年、二百年生きているのもざらで、ステディな彼氏がいる者もそうでない者もそれぞれにお楽しみで、精気漲ってつやつやしている。

 長い生に倦んだら終わりだ。魔女たちは刹那的に、享楽の海を泳いで生きる。

 依頼されて七色の未来を視、招くことはあれど、魔女の眼はおのれの未来を映さない。先を知ったところで必ずしもプラスにはならないと、身をもって知っているからだ。


「で、あっちはどうなの。優良可? 松竹梅?」

「なに、その下品な言い方。そんなの訊かなくてもさ、このルンルン具合が何よりの答えでしょ。ねえ?」


 先輩魔女たちは総じてジョーを高く評価していて、入院と闘病に涙し、機械の体を得て病を克服したときには菓子折りや花をわんさと持って新居に押し寄せた。構わずにはいられない存在なのだ。


「だって義肢義体化は人類初で、全身まるっとフルオーダーなんだよ。これからレディメイドの義体も普及するかもだけど、デザイナーさんがこだわりの人でね、クラファン立ち上げてまで力になってくれたんだ。それでも、もし具合が悪いなんてなれば後がないから、みんな必死にならざるを得ないわけでさー」

「アフターサービスも万全なんだよね? この製品はいかがでしたか~って、五段階評価しちゃうの?」

「すごくよかった! に決まってんじゃん、ねえ?」


 などと少女たちは下ネタに花を咲かせ、馬鹿騒ぎで仕事の憂さを晴らす。

 魔女連盟ウィッチクラフト・オフィスに持ち込まれる依頼はどれも下ネタよりくだらない。しかし依頼に貴賤はない。必要なのは所定の手続きと入金だ。マリたちはシステマティックに、依頼人が望む未来を実現させるべく祈る。

 魔女の代わりに祈ってくれるアンドロイドができればいいのに。そんな愚痴めいた戯れ言も聞こえてくる。

 今のところ、科学の手は魔女の神秘に及ばないが、もしも科学と人間の好奇心が魔女の神秘を読み解き、つまびらかにする日が来れば、たちまち魔女は死に絶えるだろう。魔女の力を持つAIが恐れるべきは、同種の力だから。

 コンウォールの魔女連盟本部では、魔女の存在が絶えないように祈りが捧げられているという、定番のブラックジョークまであるが、真相は闇の中だ。マリはコンウォールに行ったことがない。

 ベッドに横たわるジョーを見つめる。

 壮絶な闘病生活から解放されたとはいえ、病が癒えたとは言えず、彼が有する生体部分にも限界がある。同じ時間を生きられるのはあと五十年がいいところだろう。長いのか短いのか、よくわからない。

 先のことはあまり考えたくなかった。未来を視すぎて、その重圧に耐えかねて身を滅ぼした魔女は少なくないし、長命と言っても、事故で早世しない保証はどこにもない。だから、悔いなく生きたい。思うまま、ハッピーにサイコーに生きるのだ。

 好きな服を着て、好きなものを食べて、好きな人と時間を分かち合いたい。ジョーはそれを受け入れてくれた。なんたる幸福。

 脱ぎ散らかしたまま、床に広がるシャツを踏み越えてベッドに戻る。二度寝するには目が冴えていたから、ジョーの胸が規則正しく上下するのを数えた。安堵が愛おしさに変わるまで。

 眠り姫が王子様のキスで目を覚ますように、王子様は魔女のキスで目を覚ます。

 夢のような目覚め!

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