第二章 夢見る鏡像 (3)

 ほどなくして、崔とアナンドがガイウスを退職するとメンバーに打ち明けた。エムにさほどの驚きはない。次はどうされるんですか、と屈託なく尋ねた若手に苦笑しつつ、アナンドが「シェンユウに移るんだ」と応じる。


「へえ、VRプラットフォームの。手広いですねえ」


 アンドロイド販売の最大手からVRのフロンティアへ。研究室では電子人格が暮らすVRの街を構築しようとしており、まったく無関係とも言えない。

 じゃあいわゆるヘッドハントってやつですか、などと場は和やかだった。中心人物を失った革新派は気まずげにしながらも、二人の新しい門出を喜んでいる。

 気が気でないのはエムだけだ。二人がエムのコピーをシェンユウに持ち込み、研究を進めるのは間違いない。己だったものが手の届かぬところで全く別のものに変容するのは耐え難かった。よくジョーはミラーリングを受け入れたな、と思う。分かたれた自分のゆく末が気にならなかったのだろうか。肉体の死をより恐れたのか。

 告発すべきか。複製の形跡はマシンに残っている。今言わずにいつ言う? コピーが悪用されてからでは遅いのだ。自分が何にでもなりうるのは、エム自身がいちばんよく知っている。


「シェンユウへおれのコピーを持って行くつもりか」


 エムの声に、皆がぎくりと肩を強張らせた。まさか、と猜疑の視線が交わされるなか、当人たちに動揺の色はない。


「いきなりだな。俺たちが何かしたって証拠でもあるのか?」


 崔が笑い、アナンドが同調した。


「今のエム君はコピーの証拠を捏造できるもの。それは証拠にならないし、僕たちには動機がない」


 そう言われると反論できない。ニエラに干渉できるのは紛れもない事実だし、コピーのログを捏造するのも容易いからだ。物証もない。

 電子人格としてできることが増えたがゆえに彼らの嘘を暴けない、その皮肉に歯噛みする。どうすれば彼らからコピーを奪えるだろう。


「急にコピーだなんて言うから、みんな驚いてるだろ。そんな突拍子もない嘘をつかなくたって、エムが学習して成長してるのはみんな知ってる」


 崔の言葉は滑らかだ。饒舌な彼らしい。ようやく皆の緊張が解け、ぎこちない笑みが戻ってきたのを合図に、二人は私物の入ったボックスを抱えて研究室を出て行った。残された者が手を振って見送るなか、最初に脳天気な発言をした一番の若手、ヴァレリーだけがじっとエムの宿るマシンを見つめていた。

 ゆったりとした動作で、ニエラにログ参照のコマンドを送る。眠そうな二重瞼とすっとぼけた言動で皆の弟分の立場に甘んじている青年のキータッチは正確なうえ滑らかで、打鍵の音がしない。とんでもない猫かぶりの可能性が出てきた。


「僕は君を信じるよ、エム」

「……おう」

「電子生命として、望みはある?」

「自由に使えるインターネット回線」


 そうこなくちゃ、と八重歯を見せた青年のおもてはモニタの青白い光を受け、普段の剽軽さからは想像もつかない凄みを帯びていた。




 ほどなく、崔とアナンドの穴を埋めるべく小規模な異動があった。上層部は大企業らしく性急な変化を厭い、慎重を期するようにと研究室に釘が刺された。

 エムの主な仕事は、電子人格と生身の人間が共存する場所としてのVR空間の構築とそのテストだ。空き時間には機械言語に浸った。

 ミラーリングされた電子人格が住む街は《コス》と名付けられた。オンラインゲームに毛が生えた程度のものだろう、と安易に考えていたエムはオペレータに抜擢されたヴァレリーに氷点下の眼差しで睨まれた。


「難易度はエクストラハードだけどね」


 曰く、電子人格の人権。生死や財産、罪と罰など、電子人格にかかる法律。プライバシー。各種行政手続き。圧倒的な演算と参照を支えるマシンパワーと十分な通信帯域幅、電力の確保。ウイルスはじめ、内外からの不正アクセス対策。国をひとつ作るようなもの、と間延びした声で言う。長い前髪の奥の二重瞼は今にも落ちてきそうだ。


「うち主導で進められるかっていうと、きっと無理。まずはこんなこともできます、医療の分野にも対応する準備はできてますってデモンストレーションからになると思う。ミラーリングが合法になれば、一気にブレイクするんだろうけどね。お金が動くからさ」

「へえ」


 これまでの控えめで頼りないイメージとは裏腹に、彼はよく喋り、エムに的確な指示を与えてVRの街をデザインしていった。外注先や非正規社員にも当たりが良いと評判だ。革新派の騒々しさに紛れていたのか、それとも爪を隠した鷹だったのか。


『なあ、ミラーリングがもっと広まると、おれみたいなのがたくさん、ここで暮らすわけだろ』

『順調に進めばね』


 テキストチャットは打鍵音や環境音に紛れる。


『おれは電子人格から少し外れた……無生物に近いところにいると自覚してる。木佐貫やあんたのお陰で、いろいろ学んだしできるようになったけど、ここに入るはずの電子人格がみんなこうなったらまずいんじゃないのか。たとえばさ、あちこちのシステムに侵入するとか、《コス》の基幹部分を改変するとか』

『まずいね。みんなしてそんなことをしたら、たちまちプロジェクトは中止、街はお取り潰しになる。どんな形であれダメなものはダメだ。ばれなきゃいいってものじゃない。だから、基本的にはアバターでの運用に限定するとか、何らかの制限を設けるだろう。人のかたちをしていて、人間らしいコミュニケーションが保たれるなら、ヒトから逸脱しにくいと思うから』

『……おれは例外扱いでいいのか』

『いいんじゃない? もちろん、うまくやるのが絶対条件だけど。僕だって、エムがどこまで行き着くのか見てみたい気持ちはあるんだ。そういえば君の給与振込口座ってどうなってるの? ない? 馬鹿言うな、資産は必要だろ。総務と法務に殴り込め。弁護士の知り合いとかいる? できればITに詳しい人で』

『ジョーの知り合いなら。江藤法律事務所のつくださん。でもおれのことは知らないはず』


 上等、と呟いたヴァレリーは、チャットの傍らで猛然とキーボードを叩いている。めちゃくちゃ仕事のできるやつじゃないか、と彼の評価を改めた。どうしてこの研究室に来たんだ? 訊いてみたいが、あまりに不躾な気もする。

 しばらくして、フリーアドレス宛にメールが届いた。差出人は木佐貫で、新城絵夢名義(ふざけた名だ)で口座を開設したと、要項が添付されている。銀行のウェブサイトを覗いてみると、口座残高として八桁の数字が記されていた。

 ヴァレリーを敵に回したくないな、と思った。



 一年が過ぎる頃には、エムはネットワークの海を自在に泳ぎ、欲する情報へ素早くアクセスし、必要があれば自らの痕跡を消し、システムの裏口を探して侵入を試みるなど、多くがイメージするような電子生命に近づいていた。合法的なアクセスは自ら経験を積み、違法なやり方はヴァレリーや木佐貫が試験場を作ってくれた。

 インターネットは海よりも宇宙の喩えがしっくりくる。膨大なジャンクデータの合間に、輝く星のごとき情報が漂っている。無限とも思える広さを持ち、蓄えられる情報は加速度的に増えている。探索は容易でなく、時に命すら失いかねない。

 生身での冒険は、機械語での思考、演算、自分自身の分割や部分的な複製、統合、削除など、身体の拡張や圧縮を自在に行えるようにエムを急激に進化させた。

 子モジュールを大量に放ち、情報をクロールする。得た情報を俯瞰し、統合し、フィルタを通して要不要の判断を下す。情報収集は業務にはさほど役立たなかったが、ヴァレリーも木佐貫も手放しで褒めてくれたし、交換条件として無理難題や違法な取り引きを持ちかけてくるでもなかった。いいやつだなあと思う。


『いいやつかな? 僕はフィクションで描かれてたあれこれが現実的に可能かどうか知りたくて、できるなら自分の手で確かめたかったってだけ』

『はあ……そんなもんか』


 彼のデスクには派手なカラーリングを施された飛行機、戦艦、戦車などのプラモデルが収まったアクリルケースが積み上がっている。ARレイヤーに置けばいいのにと言うと、手に取って触れられることが重要なのだ、何もわかってないと叱られた。


『かつてヒトだった存在が、母語とは異なる言語空間に放り出されてどう変質するか観察したいし、人類とコミュニケーションするところも見たいし、それとAIがどう共存していくのかとか進化してゆくのかとか自分の目の前で展開されるなんて感激のあまり』

『わかったわかった、ともかくあんたはおれにぞっこんだと』

『ぞっこん? 心外だな、観察対象として興味があるだけだ』


 それをぞっこんと言うのだが、黙っておく。彼も考え方は革新派に近いらしい。崔たちに比べれば地に足が着いているし、全人類の幸福のためにミラーリングを推進するなどとは間違っても口にしないだろうから、冷静で客観的なぶん安心できた。

 安心できない二人組は、今どうしているだろうか。子モジュールをシェンユウの企業サイトに放つが、企業案内を見ても彼らがどの部署に所属しているのかは推し量れなかった。AI、もしくはVR事業、だろうか。伏せられている可能性だってある。覗き見するのは易いが、彼らのために法を犯すのもな、と気が乗らない。

 どうしようかと遠巻きに様子を窺ううち、当のシェンユウに動きがあった。新しいサービスが発表されたのだ。

 VRプラットフォームを扱う新進気鋭の企業が打ち出したニュースはたちまちのうちにSNSを席巻し、特設サイト公開日には億に届くほどのアクセスがあった。画面中央に表示された数字がXデーに向けて目まぐるしく減り続けるなか、塔かビルといったシルエットが青く発光するエフェクトを纏って佇んでいる。

 研究室の面々も興味津々で動向を見守る新サービスには、エピメニデスの名が与えられていた。ヴァレリーの指がキーボードを滑った。


「へえ、予言者の名ね。……ということは、予言するAIを作ったのかな、シェンユウは。それともVRチャットのバリエーションかな」

『そのシステムがおれをベースにしてるのか、全然別ものなのかも気になる』


 崔とアナンドが持ち去ったエムのコピーは沈黙を保っている。モジュールをあちこちに放って情報収集につとめているが、出会うのは企業のボットやマスコット、個人のアバターばかりで、己と同種の存在は引っかからない。強引な手段に出るべきか。


『うちの研究と食い合いはしないみたいだけどねえ』


 ヴァレリーの目は今日も眠たげだ。長く伸びた前髪は御簾のようで、その奥、半眼になった灰色の眼は変わりなく知性の鋭い輝きを放っていた。

 アナンドが話していた、魔女の電子人格がエピメニデスなのだろうか。無性に、ジョーと話がしたくなった。どう思う、と彼の意見を聞きたかった。

 ルームを介したチャットののち、ジョーには会っていない。かつての自分は、朽ちゆく肉体を機械で継ぎ接ぎし、その調整とリハビリ、そして病そのものに体力を奪われて痩せ細っていた。ジムで鍛えた筋肉は見る影もなく、青白くこけた頬と乾いた唇があまりに病人そのもので、言いようのないショックを受けたのを覚えている。

 洗顔のたびに見ていた顔が、まったく別人のものに思えた。「どうせあちこち壊死するなら髭から壊死してほしかった」とマリにぼやいた記憶も鮮やかなのに。右目は機能のないプラスチックの義眼で、あの時のジョーにはアバターの自分はどう見えていたのだろう。

 ジョーが自分――エムをどう思っているのかは、エムがジョーをどう思っているのかと同様にわからない。「自分自身」ではない、明確に。かといって兄弟でも友人でもなく、同僚とも思えないから、ヴァレリーや木佐貫よりも遠い存在である。

 そのくせ急に話がしたい、などと思うのだから面倒だ。ジョーやマリがエピメニデスのニュースをどう感じているのか知りたかった。押しかけるか、マンションのメンテナンスシステムにお邪魔してもいい。いやいや落ち着け、カーシーの社用アドレスにメッセージを送れば済む話ではないか。


『ヴァレリー、どうやらおれはめちゃくちゃ取り乱してるみたいだ。ジョーん家に押しかけたいって思ってる』

『へえ、エムも不安になるのか。……ずいぶんメモリ使用量が上がってる。ゴミ掃除して、深呼吸して、ヒッヒッフーだ。それから、新城氏たちにキモウザがられたくなけりゃ、メールにしときなよ。みんな浮ついてるから、そこは心配しなくてもいいと思うけど』

『いや、全然落ち着いてるように見えるけど。ヒッヒッフーて何だ』

『ものを知らないうえに節穴だな』


 何だそれ、と検索して納得する。彼はたまに古い言葉を使うから油断ならない。じゃあもっといいカメラに取り替えてくれと訴えるも、話は済んだとばかりに無視された。

 慌てふためいてメモリを無駄食いしているモジュールたちを片づけると、ずいぶんすっきりした。深呼吸し、手足を組んでどっしり構える。

 恐らく、ジョーから何の接触もないのを寂しく思っているのだ、自分は。エピメニデスの報に動揺したのが自分だけだと思いたくないのだ。

 ただ、崔たちがエムのコピーを持ち逃げしたと彼は知らないだろうし(知っていたら止めているはずだ、きっと)、それを理由に彼が不利益を被らないよう計らうのは自分の役目だ。彼には限りある生を満喫して欲しい。

 ジョーは十分すぎるほど苦しみを味わった。体力・体格に恵まれた成人男性で、実家の金回りもそこそこ良く、可愛くて最高で最高な妻もいて、闘病経験から新しい人脈と職を得て、サバイバーとして多くの人に頼られ、生きている。生身の肉体をほとんど失ったことを差し引いても運が良かったとしか言いようがないが、それでも病に伏した十年もの時間は戻らない。

 新しい体で、新しい住まいで、マリと支え合って生きていてほしい。ジョーはエムの希望だ。決して叶わぬ願い、届かぬところで輝く星だ。その星が落ちるなど、あってはならない。決して。

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