第二章 夢見る鏡像 (2)
エムの変化は社内の風潮にも影響した。研究費に繋がるなら重畳であるが、すぐさま他のAIと対話の場が設けられ、大口の株主や上役が理解しうる日本語で、「こんにちは」「やあ、初めまして」などといった馬鹿げたパフォーマンスを披露する羽目になったのには閉口するしかなかった。
陰で交わした機械語でのログを欺瞞、隠蔽するほどの技量は持ち合わせていないので、見る者が見れば上の空だったのは丸わかりだろうが、意外にもお咎めはなかった。文字通り、単なる研究成果のお披露目だったらしい。
エムのパフォーマンスは、ガイウス本社が抱いている
ジョーの入院中、義肢義体を提供したのがスポーツ用義肢義体メーカーのカーシー・ジャパンで、彼女はその担当者だった。後にガイウスにヘッドハントされたのだが、コネを作るだけ作って退職、独立して義肢義体のデザイン事務所を興した。現在はガイウスとのキャンペーンのために社に出入りしている。昔なじみだからと無理を言って研究室に招いたのはエムだ。
3Dの製図ソフトウェアを扱う関係か、コーディングにも詳しい。電子生命のあり方に強く憧れているようで、「僕もいつかそうなりたいね」が口癖になりつつある。
エムがマイクやスピーカーの扱いに慣れたと知るや、椅子にかけたままキャスターを転がしてマシンの正面に陣取り、微動だにしない構えである。勤務中のはずだが。
「機械語で考えたり、感じたりするってどう? もう馴染んだ?」
声が低い。なるほど今日はレオンか、と察する。木佐貫が電子人格化に強い興味を示すのは、彼女が「自分が男性なのか女性なのかわからない」と打ち明けるところによる。肉体の、そして戸籍上の性は女性だが、パーソナリティは男性の「レオン」と女性の「レオナ」の合間を漂っており、落ち着かない。身体の性に違和感を覚える彼女が、電子人格に惹かれるのも無理なかろうとエムは思う。
カーシーが担当者として彼女を紹介したとき、ジョーはどう接するべきかしばらく戸惑っていたが、じきに慣れて自然体になった。木佐貫もどういうわけか彼を気に入って、ところ変わっても付き合いが続いている。
「バイリンガルってこんな感じなのかもなあ。慣れれば、別段どうってことない」
「へえ。やっぱり肉体の限界がないって、憧れるよ」
「機会があれば試してみなよ。ただ、残された肉体が早々に死んじまいそうだなあ」
それ、と木佐貫は人差し指をカメラに向ける。
「人類社会がミラーリングに慣れるまではさ、あんまりショッキングな事件があると危ないんだよね。危険分子って見なされるのはオリジナルにとってもミラーにとっても、もちろんガイウスにとっても良くない。これは成熟っていうよりは慣れだからさ、誰か有名人が電子化してムーブメントを作るくらいでなきゃ、一般化は難しいかもなあ。まだまだ安価にはできないし。宗教団体が先んじる可能性のが高いと僕は思う」
「ああー……なるほど」
ネット接続を許された一時間で、ニュースサイトは一巡りするようにしているが、興味の薄い分野の話題にはどうしても疎くなる。ブラウザの広告や、街中のサイネージから無意識に受け取っていた情報量がいかほどのものか、ようやく理解できた。
今のエムにとって、情報は積極的に取りに行かねばならないものだ。かといって闇雲にクロールするのは効率が悪い。分身の術を編み出す必要性が増してきた。
『やりたいこととか、学ぶべきことが多すぎてさ』
と、エムは文字チャットに切り替える。他の研究者に聞かれてはまずい話題だと察した木佐貫が、『たとえば?』とキーボードに指を滑らせた。無線LANでもあれば適当なチャットルームに移動するところだが、生憎この部屋では無理だ。長々と沈黙するわけにもいかず、一言だけ『欺瞞』と答えた。
「言うなれば、君は赤ん坊みたいなものだからね。新たな世界を学んで身につけてゆくべきだよ。勉強熱心で結構だ」
「おれが専門の勉強をしたプログラマーだったりしたら違ったんだろうか」
「うーん、君が躓いてるのはもっと根っこの部分だと思うけどな。認知のシステムが人とは違うとかさ。初心者向けのテキストを差し入れようか」
「ありがとう。申請が必要だから、誰かにフォーマットをもらってくれ」
「了解。代わりに、僕がミラーリングしたときはレクチャーを頼むよ」
彼女のこういうところが気持ちよかった。変わり者で、何を考えているのかわからないが、その場凌ぎの嘘をついたり聞こえよくお茶を濁したりしない。
できることはできる、できないことはできない、可能性が残されていれば善処するとはっきり口にする潔さは、終わりの見えない闘病生活における一種の清涼剤で、彼女が無理だと言うなら諦めがつく、いつしかそんな信頼を抱くようになっていた。彼女が提案してくれたからこそ、前例のない移植手術を受ける決心がついたのだ。
差し入れのテキストは翌日の午後に届けられた。エムの情報汚染、あるいは複製や改変を防ぐために厳しい検閲があるのだが、果たして何を寄越したのだろう。
表題にざっと目を通したところ、初心者向けのコーディングやゲーム作成、ファイアウォールなどの技術書がほとんどだった。目新しいものとは言えず、落胆したが、少しの知識でも欲しい。
攻略にかかったエムは、それぞれのテキストの七ページめ以降がことごとく表題とは別物だと気づいた。本当の中身は、コード改変やコンピュータウイルスの作り方・広め方、セキュリティホールをかい潜ってネットワークに侵入する方法、パスワードの破り方、などなどアングラなものばかりで、よくもまあこんなお粗末なカムフラージュで検閲をパスしたものだ、と思える過激さだった。
と同時に、欺瞞の一言しか伝えなかったにもかかわらず、木佐貫がエムの意図を正確に汲んでくれていたのには驚いた。彼女もまた、電子人格にハッキング――クラッキングに近い行為を期待しているのだろう。
ガイウス含め義肢義体メーカー各社が、法的、倫理的には未だグレーであるBMTに巨額の研究費をつぎ込んでいるのは、義肢義体技術の延長と考えてのことだと聞いた。アンセム・ハワード症候群のジョーは脳と脊髄への発症率が低いから、全身義体化の選択肢が残ったが、同じく根治療法が確立されていない
生体脳のミラーリングが患者を「救う」かは断言できないが、少なくともガイウスはそう言えるよう技術の一般化を進め、法整備を急ぐよう働きかけている。
実際問題として、エムに人権があるのかは法の定義外だし、ガイウスの所持するいちデータが、仮にAIと判断されたところで人権にはほど遠く――なるほど、だから
エムの存在が伏せられているのは、このあたりに原因があるらしかった。ミラーリングの技術が大勢を救う選択肢になりうると前のめりの崔やアナンドが、社の慎重な姿勢に不満を募らせているのも。
だが、ミラーリング技術を難病患者の活路とするならば、もっと時間をかけてエムを試験すべきだろうし、法整備は勿論、医療関係者、患者やその家族、更には病気とは関係のない人々にまでBMTを周知せねばならず、人類の定義の拡張についても十分に検討されるべきだった。
違法な技術の体得と習熟に余暇のほとんどを費やすうち、エムはようやく「自分」を細やかに把握した。己を描画しているのが
考えてみれば当然だが、OSがなければエムは何もできない、ただのデータなのだ。読み出されてこその存在で、もちろん停電すれば何もできず、フィクションにおける「電脳化」が描いたわざ――例えば監視カメラのハック、機密システムへのアクセスなどは叶いそうもない。少なくとも今すぐには。
逆に考えれば、存在して思考するだけなら現状で十分だ。生活基盤が作られれば、ミラーリングされた人間はここで生きてゆけるだろう。
エムは短いレポートを作成し、ルームのパソコンに保存する。ルームを経由せずともデータを保存しておくくらいはできるようになったが、人間を逸脱するのにも漠然とした恐怖を覚える。
未だに「恐怖を覚える」自分に安堵しつつ、そんな人間らしさを切り捨てねば先に進めないと思うし、いくら感傷的になっても、この身がもう人間としての血肉を備えていないのも確かだ。感情と思考、理論と演算をどれも等しく保てるものだろうか。
と、そこまで考えて、バックアップについて思い至った。失いたくないデータは保存、それが鉄則のはず。自分をバックアップすれば解決ではないか。
――どうやって? エムは自分をバックアップした経験がない。頭を抱える。
そうしてエムが七転八倒しながら自分自身と対峙しているうちに、研究室には不穏な空気が広がっていた。
BMTを治療、延命の手段として扱うのが社の方針だったが、ミラーリングは人類の新しい可能性である、電子人格を進化の一形態として捉え、人類全体の幸福に繋がる研究を進めるべきだと対する一派が声をあげたのだ。
研究室を牽引してきた崔とアナンドが後者の陣営に所属しているため、もともと微妙な話題だったのだが、上層部でも意見が二分しているようで、慎重派の社長がミラーリングは医療技術の範疇に留めておくべしと有形無形の圧力をかけてきたのが原因らしい。
「エム君はどう思う」
ルームを訪れたアナンドは床に座って大きくため息をついた。アバターは実際の彼に似せて作られている。彫りの深い褐色の肌、艶やかな黒髪と髭。勤勉で努力家な彼は短気な崔よりも話しやすい。
「うーん、進化なんて大層なものかな、これ? 停電したら終わり、マシンが壊れても終わり。物質に依存する度合いとしては、儚くなったんじゃないかと思うよ」
「そりゃあ過渡期だからさ。病気や怪我だけじゃなくて、木佐貫さんみたいに肉体に違和感を抱えてる人だっている。そんな人たちが気持ちよく暮らせるようにしたいし、電子人格にも人権は保証されるべきだと思う。まだ具体例がないから上の方にはぴんときてないみたいだけど。頭が固すぎるよ」
まあそうだな、とエムが頷くと、アナンドの顔が輝いた。素直なのだ、彼は。
「あのさ、アナンドたちが言う『人類全体の幸福』ってあたりがどうにも漠然としてて、綺麗事に聞こえる。何とでも言い訳できるだろう、そんな曖昧な文言」
「そこかあ。ざっくり言うと、ゆくゆくは魔女をミラーリングして、未来視と誘起をしてもらおうって考えてるんだ。電子人格は疲れないし、こう言うと何だけど複製だってできるし。そうすれば魔女たちの負担も減ると思うんだけどな」
嫌悪か不審か懐疑か、アバターに浮かべる表情を選びかねる。そんなことが可能なのか。ミラーリングで電子化できるのは脳だけだ。魔女は脳で未来を招くのか? 魔女の神秘は脳に宿るのか? 心は、思考は脳に依るからこうして再現されている?
「もちろん、やってみなきゃわからない。魔女には協力を申し込んでるんだけど、なかなか良い返事がもらえなくてさ。人工の魔女を量産できれば、経済的な理由で魔女に依頼できない人にも未来が開かれるんだよ。すごいと思わない?」
「そううまくいくのか?」
「うまくいくように、魔女に祈ってもらおうかなあ」
「……そりゃあいい」
悪趣味が過ぎると思ったが、じゃ、と言い残してアナンドはログアウトしてしまった。無人のルームでしばし考えに耽る。魔女の脳のミラーリング。治療や延命目的ではない脳の複製に拒否感を示す者は多かろう。マリだって否と言う気がする。その一方で、木佐貫のようにミラーリングを希望する者に道が拓かれればいいとも思う。
マリがここにいたらどうするだろう。誰もが魔女やその電子的複製に未来を乞えるのは果たして「すごい」のか?
人工の魔女が未来を視る、演算する。
と、ニエラが外部記憶媒体の接続を認識した。複製のコマンドが流れ、エムは飛び上がるほど驚いた。カメラを覗くと、マシンの前にはアナンドが無表情で立っている。
エムがコピーされるのを待っているのだ。
嫌な予感、としか表現し得ぬものが背筋を震わせた。当然ながらエムの複製や持ち出しは厳重に禁止されている。それを主任研究員であるアナンドが為そうとしている。だとすれば、良からぬことに用いられる可能性が高い。
エムは腕を伸ばし、コピーされつつあるデータに取り付く。どうする? どうすればいい? スタンドアローンだから外部に知らせるすべはなく、直接スピーカーで警告を送ろうにも、昼休み中で室内はアナンド以外誰の姿もない。そういえば、崔がランチミーティングをすると声をかけていた。――やられた!
狙っていたのだ。彼らはおれを持ち出そうとしている。どこへ?
詮索している暇はない。必死になって己を構成するデータに潜る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます