第一章 Stargazer (3)

 あとどのくらい生きられるのだろう。穏やかに日々を過ごしていても、恐怖からは逃れ得ない。嵐の夜、あるいは静かな雪の日。マリと笑いあう時間。何気ない瞬間に暗闇は兆し、ジョーは言葉を失う。

 カウンセラーと抗不安薬は心強い味方だが、根本的な原因を取り除いてくれるわけではなく、義肢義体メーカーとて現状に甘んじるばかりではなかった。

 すっかり馴染みになった、ガイウス・パンテック社のチェとアナンドが、雑談ついでに口を滑らしたのだ。あるいは、そのような芝居だったのかもしれない。


「アンドロイド用AIの運用がやっとこ軌道に乗ったから、次は生体脳のミラーリングと、電子人格をベースにしたAIの設計に取りかかるんだ。聞いたことあるかな」


 ガイウスはアンドロイドを含む商業・工業用AI、義体ボディやロボットなど、人工知性とその外装を扱う大手企業だ。この病院で使われている介護ケアロイドや、寝たきりの患者がリモート運用するロボット、ドローンもガイウス製であるらしかった。


「いや。現行のAIとどう違うんだ」


 問い返したものの、内容はあらかた予想できていたし、崔から返ってきた答えも思っていた通りだった。


「人の脳を電子的に複製するのがBMT生体脳ミラーリング技術。複製を電子人格って呼んでるんだけど、それをAIのベースにするんだ。現行AIは一問一答式プログラムの発展形だから、全然違う。研究自体はずっと昔からあるんだが、脳機能の解明がずいぶん進んだし、マシンパワーが脳の複雑さに追いついてきたんだ。あと小型化。それで実用化に向けて本腰入れるかって話でさ」

「AIって研究テーマとしちゃ成熟しきってると思ってた。いつだった、碁のAIが人間に勝ったっていうの。チューリング・テストだってとっくにクリアしてるんだろ?」

「アルファ碁がプロ棋士に勝ったのが二〇一五年だから、二十年以上前だね。チューリング・テストそのものも前時代的だし、もう何の指標にもなんないよ。僕らがやろうとしてるのは、もっと人間的っていうか、人間らしいAIっていうか、心を持ったAIっていうか、そういう感じの」

「デトロイト事変があったばかりなのに? 何人も亡くなったってニュースで……」

「そうだけど、人間らしいAIが求められてるのは変わらない。よく気がついて察してくれて、従順な賢いAI」


 そういったAIを、人間の奴隷として扱ってよいのか。北米はデトロイトで、自我に目覚めたAIと人権派を名乗る一派が声を上げ、FBIや軍と武力衝突、数万体に及ぶアンドロイドが回収、廃棄処分された大事件である。

 反旗を翻した某社のAIは不審の目に晒されたが、事態を終息に導いたのも同社のアンドロイドという皮肉が後味の悪さを引きずっている。

 そうまでして計算機コンピュータに人間の真似事をさせる意味があるのだろうか。現行のAIでも困ることは滅多にないのに?


「人間って、与えられた条件だけじゃなくて、感情や印象なんかが判断に加味されるだろ。いわゆる、第六感ってやつ。それを電子的に再現したいんだよ。計算だけじゃなくて、一見何の関係もなさそうな情報や条件を加えて、精確な未来予測をさせようっていうのが大きな課題なんだ。あっ、これ秘密だぞ、わかってるだろうけど」

「もちろん。未来予測って、テロとか天災とかの? 魔女の未来視みたいな」

「うん、だいたいそんな感じ」


 アナンドの言いようからするに、もっと違う何かを求めているという感触だったが、正確なところは訊けず終いだった。彼が急に顔を近づけたからだ。


「それでさ、新城君。その被験者になってくれないかな」

「その、って、脳をコピーしてAIのベースになれって言うのか」

「そうそう。肉体が滅びても、意識はネットワーク上で生き続ける。AI云々は抜きにしても、BMTは難病患者の救いになり得る。どうかな、悪くないだろ」

「意識か……。で、おれの複製がガイウスの研究に協力するってわけか」

「そう。今と何も変わらないさ。すぐに返事をくれとは言わない。脳波を取るみたいな非侵襲な施術だし、弁護士も脳科学者も呼んでレクチャーする。俺たちだって何度でも説明する。とりあえず今は、こんな話があるって程度に思っててくれ」


 崔とアナンドが去ると、入れ替わりでマリがやってきた。今日は生成り色のワンピースで、刺繍やリボンは緑色。花の妖精だ、とメルヘンチックな感想を飲み下す。


「崔とアナンド、来てたの? 車を見かけたけど」

「ついさっきまでいたよ」

「ふーん。じゃあ、また何か新しい研究の相談? それともサボり?」


 彼女は冷蔵庫から麦茶を取り出して、二つのコップに注いだ。小さな爪は丁寧に磨かれ、真珠色のマニキュアが照る。わけもなく後ろめたさを覚え、電子人格AIの件は話せなかった。拳のなかに秘密を握り込む。


「飲んだら、散歩行かないか」

「いいよ。暑いから、涼しいとこね」


 まだ生身の右腕を差し出すと、マリが子猫のようにじゃれついた。発症から五年が経とうとしている今、身体の多くが機械化されている。

 ――二次元の存在になったら、死や恐怖とは無縁になるとしても、少なくともマリとどうこうすることはできないよな。

 ――それは、生きてるって言えるのか?



 ジョーは迷った。脳や人格をネットワーク上に複製し、それをベースにしたAIに未来予測をさせる。雲を掴むような崔とアナンドの申し出を、承諾すべきか否か。

 人間と見紛うばかりのAIを題材にした小説や映画は枚挙に暇がない。そしてそれらの多くが、AIの暴走、またはそれに没頭しすぎた人間の末路を悲劇として描いている。

 人間ようの人工知性、電子生命との共存が夢物語だとは思わないが、そのベースになるのが自分自身であるとなると、どうにも現実味がなかった。

 電子人格ならば寿命の概念から解き放たれ、長命のマリとも時間を共有できる。義体を駆動させれば、物質世界にも干渉可能だ。BMTは義肢義体とは異なる拡張性を持つ、新しい選択肢のひとつとなるだろう。

 光の速さで、あまねく世界を翔ける。

 ネットワーク上で生きるとはどういうことか、正確に理解しているわけではないにせよ、世界中が結ばれ繋がっている今、それは新たな生命のありかただと思えた。

 期待が大きいだけに、倫理面や技術の安全性確立のほかにも、慎重に考えねばならない部分がある。たとえば、脳を複製したとき、「自分」の意識はどちらに生じるのか。

 電子生命となった感覚など想像もできないが、「今」が連続するのであれば、電子人格のジョーが操る義体は明らかに「自分」ではないし、人間だとも言えまい。では、新城健という人間は何をもって定義されるのか。電子人格とは何者なのか。

 生身の脳と心臓を有する今は、明らかに人間であろう。五感こそ義肢義体のセンサーに頼る部分が大きいが、ジョーは頭痛がするほどに思い悩み、迷い考えている。

 複製された自分がAIの研究素材となる一方で、生身の、オリジナルの自分は遠からず死を迎えるだろう。電子的複製は果たして「救い」と言えるのだろうか。

 その回避のために、とスポーツ用義肢義体メーカーのカーシー・ジャパンから提案されたのは、脳と脊髄を義体に移植する全身義体化だった。アンセム・ハワード症候群を克服する唯一の方法になるかもしれない、と担当者であり義肢義体デザイナーの木佐貫きさぬきレオンティーナは硬い声で語った。


「これまでの症例においては、脳と脊髄に発症したケースはありません。可能性は十分にあると考えています」


 全身の骨格や神経系をいちどきに人工物に置換する術式は確立されていないが、機械の体を生体の脳が司ることは可能だ、と彼女は慎重な口ぶりで言い添える。

 義体化で心臓を失っても、思考は失われまい。全身を義体化すれば、論理的には加齢によって脳機能を失うまで生きられる。それが百年なのか、それとももっと短いのか長いのかは寿命の蝋燭テロメアを見てみないことにはわからない。

 悩んだ末に線を引く。生体の感覚や思考が電気的な勾配に過ぎず、その観点からすれば生身の脳とAIに差はないとしても、電子生命が機械の身体を司るのであれば、アンドロイドと同じだ。現状では電子化された人間やAIを、生命、生物のカテゴリに含めるのは抵抗がある。

 電子化された自分は、コピーされた瞬間こそ自分そのものであるかもしれないが、次の瞬間から独立した存在となる。とすると、電子の世界で生きる道は、ジョーが望む自己保存の手段とはなりえない。希望はマリに託してある。

 ただ、研究の方向性としては面白いと思うし、BMTによって救われる命はたくさんあるだろう。ジョー、あるいはマリがその一人になる可能性も十分にある。

 心や第六感を持ったAI、その「人間らしさ」を観察すれば、人間の本質に近づけるかもしれない。電子的複製が生理学や脳科学の発展に寄与し、ひいては難病で苦しむ誰かの助けとなるのであれば、協力したいと思う。崔が言っていたように、義肢義体や代替臓器を試験している今と何も変わらないのだ。

 壊死の激痛と死の恐怖から切り離され、新しい世界で生きる自分がいると想像するのは楽しかった。こう考える自分自身の意識は朽ちゆく肉体から逃れ得ないとしても、仮定の世界を思うと気が紛れたし、夢物語を実現しようと奮闘する崔とアナンドの姿勢は精力的で好ましかった。カーシーの提案も呑める。

 ジョーが人間と機械の汀に立っていることに変わりはない。これまでも百パーセントの成功を見込んでARMを受けてきたわけではないし、実際、涙と血を流しながら拒絶反応と免疫抑制剤の副作用をねじ伏せ、失敗を無数の試行で踏み越えて、義肢義体化の人生を拓いてきたのだ。

 人はみんないつか死ぬ。限りある生をどう生きるか、その命題への答えを模索するための人生ではないのか。ジョーは携帯端末を手に取る。

 ――だとすれば、このまま人間と人間ではないいのちの境界を彷徨い、悩み続けるのがおれの役目だ。


*****


「どうも」

「初めまして。と言うのも変かな」

「そっちはどんな感じなんだ」

「感じ、というのは微妙な質問だな。まだ慣れてなくて色々やりづらい。リハビリ中ってとこかな」

「このチャットのログは非公開だし、崔たちも閲覧できないって聞いた。だから頼むんだけど」

「マリだろ。わかってる。おれはあんたなんだからさ」

「頼もしいよ」

「任せておけなんて大口を叩ける状況じゃないけど、おれにできることはする。でも、それはバトンを受け取ってからだ。長生きしろ。マリがいちばん喜ぶのはそれだ」

「ああ、わかってる。全身義体への移植手術ももうすぐらしい」

「そうか、頑張れよ。……マリ、ミラーリングしたって知ったら怒るかな」

「怒るだろ、何に対してかわかんないけど。でも既成事実だ」

「いつか許してくれるといいな」

「許してくれると思う。きっと。早くピザを注文できるようになれよ」

「そりゃそうだ。考えてみれば今のおれ、携帯端末より何もできないんだよな。電気だの演算リソースだのはめちゃくちゃ食ってるらしいんだけど」

「そういうもんだろ、最初は。……自分とこんなチャットをするとは思ってもみなかったけど、意外に悪くないな」

「恥ずかしいからやめろよ」

「あっ、時間だそうだ。……じゃあ」

「またな。元気で」

「そっちこそ」


*****

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