Ⅲ 老人の思い出(2)

「今でも時々夢に見るんじゃがな、それは長閑でいい村じゃったよ。ま、産業といえば農業ぐらいのもんで、人家以外には教会しかない、辺鄙で退屈な山奥の片田舎じゃったがな……じゃがある時、そんな平和な村を震え上がらせるような恐ろしい事件が起きたんじゃ」


「事件?」


「そう。大事件じゃ。そもそもの発端はプロゴフスキーという村の男が死んだことから始まるんじゃが……」


 そこからどう繋がるのかわからないが、突然始まった老人の思い出話に、僕は訝しげな顔をして耳を傾ける。


「そのプロゴフスキーという男はたいそうな乱暴者でな、酒を飲んでは暴れるんで村人全員から嫌われておった。じゃから、プロゴフスキーが急死した時には、皆、悲しむどころか公然と喜んだものじゃよ。その女房や家族でさえもな」


 死んで喜ばれるとはなんとも嫌われたものである……まあ、そんな酒乱野郎なら、確かに嫌われるのもわからんでもないが……。


「まだ40そこそこの若さじゃったが、なんでも酒を飲み過ぎて泥酔した挙句、夜、大雨の中を外に出て行って、翌朝冷たくなって発見されたらしい。ま、自業自得じゃな。で、そんな鼻つまみ者でも一応は葬儀をすませ、他の者と同じく教会の墓地に埋葬されたんじゃが……ところがじゃ!」


 そこで、ウラシマウ氏は少し溜めてから強めの口調で言った。


「葬儀の翌日、村人の一人が偶然、墓地の脇を通りかかった時に、なんと、そのプロゴフスキーを葬った墓の下からドンドン! と何かを叩くような音が聞こえてきたんじゃよ!」


「音?」


 俄かに僕は眉間に皺を寄せる。


「ああ、ドンドン! っと柩を内側から叩いているような音じゃ。その前日、死んだはずのプロゴフスキーの墓からじゃよ? その音を聞いた村人は急いで教会の司祭さまや他の者達を呼びに行き、それはそれは大変な騒ぎになった。プロゴフスキーが〝ヴァンパイアになって甦った〟……とな。もっとも、司祭さまや他の村人達が駆けつけた時にはもう、その音はしなくなっていたそうじゃがの」


 なるほど……それでヴァンパイアを〝実際にこの目で見た〟というわけか。つまり、ヴァンパイアになった者を〝生前に見た〟ことがあるということだな。しかし……。


「でも、一人しかその音を聞いていないということは、その人の空耳だったんじゃあ……」


 僕は、今の話を聞いて思ったことを素直に口にした。


「まあ、普通そう考えるわな。確かにその時は村人達も、今、おまえさんが言ったのと同じように判断して、事件はただの勘違いということで一件落着となるかのように思われた……しかしな、事はそれだけに終わらなかったんじゃよ」


「終わらなかった? また何か起きたんですか?」


 予想外の反応に、僕はまたも訝しげに表情を歪めて訊き返す。


「起きたなんてもんじゃない。その後もプロゴフスキーの墓の下から奇怪な物音のするのを聞いたという者が続出したんじゃ。いいや、それどころか、もっと恐ろしい目にあったという者まで現れた……」


 どうやら、僕の下した解釈は早合点だったようである。ウラシマウ氏は遠い日の遠い故郷を見つめるような眼差しをしたまま、さらに奇怪で恐ろしげな幼少期の体験談を話し続ける。


「一番初めはプロゴフスキーの奥さんじゃ。夜中に墓で眠っているはずの彼が自分の家まで戻って来て、寝ている奥さんの首を絞めていったというんじゃな。奥さんばかりじゃない。その次には彼の息子や娘。それから親戚、彼の家の隣近所に住んでいる者…と、墓を抜け出したプロゴフスキーに襲われる者が相次いだ。そして、彼に襲われた者は次第に衰弱していき、中には重い病にかかって死亡する者まで現れた。最早、プロゴフスキーがヴァンパイアになってしまったことは間違いない。ま、わしらはヴァンパイアとは呼ばずに、男の吸血鬼はウピオル、女はウピエルツィカと呼んでいたがな」


「うぴおる?」


「ああ。ウピオルにウピエルツィカじゃ。ポーランドでは吸血鬼のことをそう呼んでおる。やつらは舌の先に棘が付いておって、それを人間や家畜に刺して血を吸うんじゃよ。ブラム・ストーカーの小説や最近の映画なんかでは、二本の鋭く尖った犬歯で獲物の首に噛みついておるが、ありゃあ、はっきり言ってただのフィクションじゃな」


 僕の質問に、老人はどこか得意げな様子で詳しくそう説明してくれる。


 そうか。ポーランドではそう呼ぶのか……それに、そんな舌の先で血を吸うヴァンパイアの種族なんてのもいるんだ……初めて知った。


 ま、それはともかくとして、確かに死んだ人間が蘇り、墓を抜け出しては人を襲うという話、古今東西で言い伝えられているところのヴァンパイアの姿そのものである。


 それに、実際に襲われたという人間がだんだんと弱っていって、さらには死亡者まで出たとなれば、村人達がそう考えるのも無理のない話ではあるのだろう……。


 僕が自分なりにその事件の内容を咀嚼する中、老人の話はさらに続く。


「そこで、村の者達は話し合ってプロゴフスキーの墓を掘り返してみることになったんじゃが、するとどうじゃ? プロゴフスキーの身体は腐るどころか、まるでまだ生きててでもいるかのように血色の良い赤ら顔で、指の爪は古いものが?げ落ち、新しい爪まで生えてきておった。それにその指先や口、眼、鼻なんかは真っ赤な鮮血に染まり、さらには遺体が着ていた屍衣や柩までが血だらけになっておったんじゃ」


 なんだか、表現が具体的で妙に生々しい……もしかして、彼はその死体を直に見たのか?


「当時、わしはまだ子供じゃったから見てはならぬと言われておったが、怖いもの見たさというやつでな。わしもこっそり大人達の影に隠れて、そのおぞましい姿を確かにこの目で見たんじゃよ!」


 やはり、僕の推測通りか……。


 ウラシマウ氏はだんだんと、自分の語る話に昂揚してきている。きっと老人の脳裏には、今、その時の情景が鮮やかに蘇っているに違いない。


 その凄惨な光景は、幼い子供が見るものとして余りある。


 墓から掘り起こされた、まるでまだ生きているかのような血だらけの死体……それは彼の心にトラウマを形成するのに充分過ぎるほどの要因である。


 だが、その生きているように見えるというのは……。 


「ここまで確かな証拠が出れば、プロゴフスキーがヴァンパイアになったのは最早明らかじゃ。だから、大人達はヴァンパイアを滅ぼすための伝統的マジナイをプロゴフスキーの遺体に施したんじゃ……」


 ……いや……駄目だ! そんなことをしては!


 不吉な予感が脳裏を過り、僕は心の中で密かに叫ぶ。


「つまり、やつの心臓に木の杭を打ち込むというマジナイをな。杭がやつの心臓を貫いた瞬間、プロゴフスキーは低く短い呻き声を上げ、胸からは死体とは思えぬほどの大量の鮮血を吹き出して、瞬く間に辺り一面真っ赤な血の海に変わっておった。わしは幼心にもその時のことを鮮明に憶えておる。いや、ありゃあ、忘れたくとも忘れられない光景じゃよ……」


 やはり、そんな恐ろしい行いをしてしまったというのか……。


 その凄惨な場面を無意識にも思い浮かべ、僕は不快に顔の筋肉を歪めた。

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