Ⅲ 老人の思い出 (1)

「――う…ううん……」


 腰の痛みはかなりのものらしく、ベッドに横にならせてからもしばらくの間、ウラシマウ氏は布団の上でうんうんと唸りながらおとなしくしていた。


「……ん? …ぎ、ギャアアアアアアアっ…!」


 しかし、ふと目を見開いて僕を見た瞬間、ものすごい形相で再び断末魔のような絶叫を上げる。


 突然のその叫び声に、僕の方こそびっくりして後へ仰け反ってしまう。


「ヴ…ヴァンパイアっ! …や、やはり、わしを狙って……」


 ……そう。僕の格好は、いまだドラキュラのままだったのだ。


 おまけに口からは吸った血が垂れているようなメイキングが施されている……僕の方には襲う気などさらさらないのだが、これではウラシマウ氏でなくても誤解して当然である。


「お、落ち着いてください! けして僕はあなたを襲おうとしているヴァンパイアなんかじゃありません! これはお遊びの変装であって、この血だってほら、ただの絵の具なんです!」


 僕は慌てて興奮する老人を宥め、誤解を解こうと口元の赤い絵の具を手の甲で拭った。


「それにこの顔覚えてませんか? 僕は昨日、間違えてうちに届いた小包を持って来て、あなたに追い払われた前の家の者です。あの時だって聖水やニンニクをくらっても平気だったじゃないですか? もしも、あなたが思っているようなヴァンパイアだったとしたら、今頃こんな風に無事じゃいられませんよ」


 続けて、当の本人に散々な目に遭わされた昨日のことを例に出して、懇切丁寧に僕が無害な存在であることを説明する。


 幸か不幸か……いや、限りなく不幸の方の度合いが大きいのだけれど、僕にはそうした世間一般に信じられているところの〝ヴァンパイアの弱点〟が効かなかったという絶対的な前例がある。


「ん……そ、そうか……確かにそう言われてみれば、そうじゃな……」


 その実体験が功を奏したか、予想外にもウラシマウ氏は素直におとなしくなった。


 今度はセイヨウサンザシの木でできた杭を心臓に打ち込まれでもするかと恐れていた僕は、なんだか拍子抜けしてポカンと床上のウラシマウ氏を見つめる。


 すると、なんだか一回り小さくなったようにも見える老人は、急にしおらしくなって僕に尋ねる。


「おまえさんが助けてくれたのか? ……わしはいったいどうなったんじゃ?」


「えっ? …あ、ああ、はい。ウラシマウさんの撃った銃が暴発して、その衝撃で倒れたんです。たぶん、自分で作ったっていう銀の弾が銃身内で引っかかりでもしたんじゃないですかね? あ、でも、腰以外はどこも怪我はしていないようですから大丈夫ですよ」


 こんな素直なウラシマウ氏を見るのは初めてだったので、一瞬、思わず僕は面喰ってしまう。だが、すぐに気を取り直すと、まだ状況を把握できていないらしい老人に対して、自分の推測も交えながらそう解説してやった。


「そうじゃったか……まあ、あの銃も買ったっきり一度も整備なぞしたことがなかったからのう。何かゴミでも詰まっていたのかも知れん……」


 ……そんなものに素人お手製の弾丸を込めて撃とうとした…ってか、実際に撃っちゃったっていうのか!? そりゃあ、むしろ暴発しない方がおかしい……。


 猟銃の所持に関する免許は拳銃なんかの銃火器免許よりはかなり取りやすいと聞くが、それにしても、よくもまあ、これで許可が下りたものである……いや、ダメだろう? こんな人間に銃なんか持たせちゃ……。


 平然と恐ろしいことを呟く老人に、僕はこの国の治安に関して一抹の不安を覚えたのであるが……まあ、それはともかく、どうやらウラシマウ氏は僕を〝人間〟と認識してくれたようである。


 そんな、彼の中では“人間となった”僕に、ウラシマウ氏は普段見せることのないどこか淋しげな眼差しをすると、やけに神妙な口ぶりで話しかけた。


「そうか……おまえさんは昨日もわし宛の小包を届けてくれたんじゃったのう。それなのに、あんな目に遭わせてしまってすまなかったな。それから、小包を届けてくれてありがとう」


「い、いえ、別に気にしてませんから……」


 本当は気にしていないどころか、ものすごくムカついていたのであるが、いつになくそんな素直に謝られてしまってはこちらの方が恐縮してしまい、僕は思わず気を遣った返事を返してしまう。


 そして、このなんだかむず痒いような居心地の悪さから逃れようと、特にどうでもいいようなことを尋ねて僕は話題を変えた。


「あ、そうだ! そういえば、昨日の荷物は故郷のポーランドからのものだったんですよね?」


「ああそうじゃ。何年かぶりかに、ちょっと故郷から取り寄せたいものがあっての……ん? なぜ、わしの故郷がポーランドだと知っておるんじゃ?」


 ウラシマウ氏は答える途中で不意にそんな疑問を抱いたらしく、再び疑いの目を僕に向けて逆に訊き返してくる。


「だから、さっきも言った通り、僕は前の家に住んでるエドワーズの息子なんですよ。ご近所なんでそのくらいのことは知ってますって」


「ああ、そんなこと言ってたかいのう? ……なるほどの。そう言われてみれば、何度か見かけたことのあるような顔をしとる。じゃが、さっきは郵便配達の者とかなんとか言っていたような……」


「ああああっ! そ、それはたぶん聞き間違いですよ! 聞き間違い!」


 先刻の記憶を明瞭に思い出しそうになった老人の言葉を僕は慌てて遮る。


 それを思い出されては、僕らがヴァンパイアに扮して脅かしに来たことまでわかってしまう。せっかく暴発のショックで有耶無耶になっているというのにそれはマズイ。


「そうかのう? わしは確かにそう聞いたような気がするんじゃが……まあ、いいわ。で、そのエドワードさんがなんの用かの? 今日もまた何か間違ってそちらに届いていたのかの? そういえば、届け物がどうとかともさっき言っていたような…」


「そ、それもきっと聞き違いです! 僕らはそのう……そ、そうだ! そうです。僕らはウラシマウさんからヴァンパイアについての話を聞きたくてお邪魔したんです!」


 僕は再び彼の言葉を遮ると、苦し紛れにまったく思ってもみない口から出まかせな言い訳を言ってのけた。


「ほう、わしにヴァンパイアの話をの……」


 ウラシマウ氏はなおも疑念に満ちた眼で僕の顔をじっと見つめる。


「え、ええ。最近、ちょっとヴァンパイアに興味がありまして……」


 さらに出まかせを付け加えて、僕は嘘の理由を補強する。


 現在、青春真っ只中なお年頃なので、興味の大部分は女の子やフットボールのことに費やされ、悪いがヴァンパイアのことなどに回す余裕はこれっぽっちも持ち合わせていないのであるが……。


 ウラシマウ氏の鋭い眼差しが、後ろめたさを裏に隠した僕の顔を射竦める………やっぱり、こんな嘘八百じゃさすがに騙されないか……。


「おお! そうか! そうか! そりゃあよく来てくれたのう」


 ところが、そんな僕の心配は無用だったらしく、老人は不意に顔を綻ばして弾んだ声を上げると、訊いてもいないのに雄弁に話し始めた。


「じつはな、昨日届けてもらった小包というのも、そのヴァンパイアに関してのものだったんじゃよ。ほれ、この本じゃ」


 そして、そう語るとベッドの脇に置いてある分厚い本を手に取って見せる。


 その大判の本の表紙には、アルファベッドではあるが英語ともどこか違っていて、読めるようでいて読めないような外国語の題名が金字で記されていた。


「これはな、ポーランドの学者が書いたヴァンパイアの研究書じゃよ」


 ウラシマウ氏は何か含みのある怪しげな笑みを皺だらけの顔に浮かべて、まるで自分が書いたかの如く自慢げに解説を入れる。


「研究書?」


「そうじゃ。祖国ポーランドには古くから多くのヴァンパイアが住んでおって、その研究も以前から盛んじゃからな。ここには古今東西、あらゆるヴァンパイアに関する伝承・事件・関連のある歴史上の人物などの話が網羅されておる。もちろん、ヴァンパイアの退治法やその害から身を守る防御法なんかもな。最近、ここら辺ではますますヴァンパイアの動きが活発になってきておるからな。この本を読んで、いっそう身の周りを堅固にしておかなければならん」


 僕のことはなんとか〝人間〟だと思ってくれたようであるが、近隣に自身を狙っているヴァンパイアが潜んでいるというウラシマウ氏の妄想は、まだ頑なに消えてはいないようである。


「やつらはこの界隈に確かに潜んでおる。おまえさんもそのことを薄々感じ始めて、それでわしのところへ話を聞きに来たんじゃろう? ほれ、おまえさんもこれを見て参考にするといい」


 そう言って老人は、開いた分厚い本を僕の方へと見せて寄こす。


「は、はあ……」


 やむを得ず、僕は生返事をしてそれを受け取った。


 見ると、恐らくポーランド語であろうその書かれている文章は読めなかったものの、銅版画のようなタッチで描かれたニンニクやら十字架やらの挿絵から、そのページがヴァンパイアの苦手とする物に関して記された箇所であることは容易に理解できた。


「わしは普段からずっと注意深く観察しておるんじゃがな、なかなかやつらは尻尾を現さん。いったい、近所に住む連中の内のどいつとどいつがヴァンパイアなんじゃろうな?」


 意外にも興味深く、本に視線を落としていた僕にウラシマウ氏がやけに親しげな口調で尋ねてくる。


 きっと、僕が“人間になった”ことで、僕はこの近所に住む唯一の彼の同志とでも言えるような存在へと変化したのであろう。


 今のところ、彼の中では周囲に僕しか確実な〝人間〟はいないのだ。


「さ、さあ……」


 とはいえ、そんなこと訊かれても答えようがないので、僕はもう一度、曖昧な生返事を苦笑いとともに返した。


 それにしてもウラシマウ氏はなぜ、これほどの妄想に取り憑かれてしまったのだろうか? いくらヴァンパイア伝説が色濃く残るポーランドの出身だからといって、それだけでこんな風になるものなのか?

 

 なんとなく、僕はその理由を訊いてみたくなった。


「あの……なぜ、この近所にヴァンパイアがいると思われるんですか? 何かその確証のようなものは……」


「確証? ……証拠か。ならば、そこの上にあるスクラッチブックを見るがいい」


 老人は僕の質問へ答える代わりに、窓際に置かれた机の方を骸骨のように細い指で指し示した。


 その机の上には、今、彼が言ったものと思われる一冊のファイルが載っかっている。僕は怪訝な顔で椅子から立ち上がると、そちらへ歩み寄ってそれを手にした。


 中を開いて見る……。


 すると、そこにはロンドン・タイムスの切り抜きが何枚か貼られている。


 書かれているのは、いずれもグレーター・ロンドン内…特にこの町の近辺で起こった殺人事件や変死体発見事件の記事である。中には少し前にあったバラバラ殺人の死体遺棄事件のものなんかまである。


「どうじゃ? 全部ヴァンパイアの仕業じゃよ。その証拠に皆、首から大量の血を流して死んでおる。きっとやつらに血を吸われたんじゃ。それに手だの足だのだけの死体が発見されるのは、やつらが死体を食らったその残骸だからじゃ」


「はあ……」


 ウラシマウ氏は自信満々にそう言い切っているが……普通に考えれば、どれも人間の手による殺人事件である。


 刃物による刺殺事件ならば首に傷を負うのだって珍しくないし、それで頸動脈でも切られれば、当然、大量に血を噴き出して出血多量で死ぬ。


 バラバラの死体だってよくある…とまでは言わないが、死体の処理方法としては時折見かけられるものだ。


 それをしてヴァンパイアの仕業だと決めつけるというのには、ウラシマウ氏の中に何かもっと根源的な、ヴァンパイアに対するトラウマといおうか、強い恐怖心を植え付けた直接の原因というものがあるのではないだろうか?


 そう。例えば、幼児体験のような……。


 僕はそれとなく、今度はそのことについて尋ねてみる。


「あの、やっぱりウラシマウさん自身もヴァンパイアに襲われたこととかってあるんですか?」


 その何気なく投げかけた……だが、じつは核心を突いていた質問に、老人は少し間を開けるとあまり思い出したくはないような、それでいて、なんだかその当時を懐かしむような不思議な顔をして、何やら教会で悔告でもするかのように口を開いた。


「いや。わし自身が襲われたわけではないんじゃがな……実際にこの目で見たことはある」


「えっ!? 見たんですか? ヴァンパイアを?」


 意外な答えに、僕は思わず小さく声を上げる。


 ……つまり、ヴァンパイアであることを見破ったということか?


「ああ見た。あれはまだわしが子供の時分に、故郷のポーランドにある小さな村での出来事じゃった……」


 しかし、そんな僕の反応などまるで気に留めることもなく、老人はどこか遠くを見つめるような眼差しをして昔話を始めた。

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