お嬢様の幸せを願う
可愛らしい歌声が庭の方から聴こえてくる。
メリーナは少しだけ緊張しながら、初めて着るお仕着せの裾をぎゅっと握った。
「緊張しないで。将来的には侍女として仕えて欲しいと思っているけれど、今はただあの子のお友達として側にいてくれればいいのよ」
優しい笑顔で、クルフェルト伯爵夫人であるリスティアが笑う。
さらさらの金髪が風に誘われて揺れている。
小柄で可愛らしいリスティアは、いつもと変わらず接してくれる。
両親が仕えている、クルフェルト家のお屋敷。
敷地内にある使用人用の宿舎でメリーナは生まれ育った。
クルフェルト家の屋敷はどこにいても音楽が聴こえてくる、不思議な屋敷だった。
みんなが主人の影響を受けて、楽しそうに音楽を口ずさみながら仕事をしているからだ。
メリーナも、クルフェルト家に仕える日がくることを楽しみにしていた。
そして十歳になり、今日がその初出勤の日。
クルフェルト家の人々は使用人相手にも気安く接してくれるが、メリーナは毎日顔を合わせているお嬢様であっても、仕事として来た今日はやはり緊張してしまうのだ。
しかし。
「あ! メリーナ! お母様!」
メリーナを見つけた途端、庭で発声練習をしていたシエラがぱあっと笑顔を浮かべて走り寄ってきた。
「シエラお嬢様! 練習の途中でしたよね?!」
「だって、わたしに会いにきてくれたのでしょう? あれ? その服はどうしたの?」
きょとんとした表情でシエラは気になったことを矢継ぎ早に問うてくる。
メリーナは、普段とあまりに変わらないシエラの様子に脱力し、笑みを浮かべる。
「シエラ、昨日お話したでしょう? メリーナは今日から正式にあなたの侍女として側にいてくれるのよ」
リスティアもくすくすと笑いながら、メリーナを紹介してくれた。
「シエラお嬢様、本日よりどうぞよろしくお願いいたします」
改めて、メリーナは一礼する。緊張感はすでに飛んでいた。
「これからはメリーナがシエラの側にずーっといてくれるの?」
期待に満ちた瞳で、シエラが問う。
「えぇ、これからずっと、メリーナはシエラお嬢様のお側にいます」
メリーナはにっこりと微笑んだ。
まだ六歳のシエラは、社交界デビューも、舞台デビューもしていない。
ただ、さすがクルフェルト伯爵家の令嬢といったところか。
音楽センスだけは抜群だった。
(伯爵様がシエラお嬢様の演奏会デビューについて話しているのを聞いたから、きっともうすぐ忙しくなるのでしょうね……)
八歳になる姉のベルリアは、すでにクルフェルト楽団の一員として、演奏会に出ている。
幼いながらに、そのフルートの腕前は大人顔負けだ。伯爵であるレガートが周囲にデレデレの顔で自慢していた。
シエラへの指導は、クルフェルト楽団員が行っている。伯爵自身は忙しく、コンサートや演奏会で一緒にならない限り、シエラへ直接の指導をすることは難しいのだ。
母であるリスティアも、クルフェルト伯爵家に嫁ぎ、音楽の知識を学んだところで、才能は別である。
リスティアは家族の音楽を見守ることに決めたようだった。
そしてメリーナも、クルフェルト家に仕える者として、音楽の基礎知識だけは勉強している。
とはいえ、一緒に音楽を奏でられる楽しみというのは、メリーナでは与えられない。
シエラは、本当はレガートやベルリアと合奏したいと思っている。
一人で練習することに寂しさを感じているのだろう。
「メリーナ、大好きよ!」
太陽のような明るい笑顔が、まっすぐにメリーナに向けられる。
この笑顔を側で見られるだけで、自分はとても幸せ者だとメリーナは思った。
これから、絶対に自分がシエラの笑顔を守り抜こうと誓った。
しかし、きれいな虹色の瞳にメリーナを映し、笑いかけてくれることがどれだけの奇跡なのかをこの時の自分はまだちゃんと分かっていなかった。
―◆―
外は豪雨と雷で、ひどい有様だった。
窓ガラスがガタガタと揺れ、木々のきしむ音がする。
「うぅ、ふぇ……」
泣きじゃくるシエラをそっと抱きしめながら、メリーナの心境も複雑だった。
あの優しかったリスティアが、他の男性と不倫していただけでなく、その相手と駆け落ちのように出ていってしまったのだ。
レガートは止めなかった。
それどころか、娘たちに母親は何も悪くない、父である自分が悪いのだと話していた。
メリーナもまだ信じられない。
しかし、不倫現場を目撃してしまったのは、他でもないシエラだ。
演奏会に参加する機会も多くなり、シエラはますます音楽の世界へとのめり込んでいた。
母と過ごす時間よりも、楽団で過ごす時間の方が多かった。
モーリッツという良きライバルとも出会い、日々楽しそうに楽団でレッスンに励んでいる。
楽団になじみ、演奏会で歌うようになったといえど、シエラはまだ八歳だ。
まだまだ母親に甘えたい年齢である。
それでも、母に喜んでもらいたい、と甘えたい気持ちを抑えて、一生懸命に練習していた。
リスティアとのすれ違いにも、その心の変化にも、気づけるはずはなかった。
屋敷で時々顔を合わせていたメリーナでさえ、まったく気づかなかったのだから。
母が隠したかったことを自分が暴いてしまったのだ、とシエラは泣いていた。
けっして、シエラのせいではないのに。
そんな日に限って、大荒れの天気だ。ますます気が滅入ってしまう。
「シエラお嬢様、大丈夫ですわ。奥様はお嬢様方を愛していらっしゃいます。落ち着いたらまた、会いに来てくださいますよ」
どうして裏切ったのか。と怒る気持ちは決して見せてはいけない。
だから、シエラの前ではまだ「奥様」と呼ぶ。
一番傷ついているのは、クルフェルト家の方々なのだ。
侍女であるメリーナの感情を表に出し、大切な人たちをさらに傷つけるようなことは許されない。
「そうだと、いいな……お母様のこと、わたし大好きだから」
「えぇ。奥様も、冷静になればきっと戻ってきてくださいますわ」
こんなかわいい天使を置いていこうなどと、思えるはずがない。
メリーナはぎゅっとシエラを抱きしめる。
雷の音も、風の音も、シエラの心を不安にさせる音を消せるように。
しかし、傷心のクルフェルト家にさらなる不幸が襲う。
嵐の数日後のことだった。
とある報せがクルフェルト伯爵家に届く。
「リスティアが、事故に……っ!?」
あの嵐の中、馬車に乗って不倫相手の地元へ向かっていたらしい。
レガートは不倫という事実を公にせず、離婚するつもりだったが、貴族社会の噂はすぐに広まるものだ。
リスティアは世間体を恐れて、もう王都にはいられないと考えたのだろう。
もしかしたら、近くに家族がいるということに耐えられなかったのかもしれない。
愛していた家族を裏切ってしまった罪悪感に押しつぶされそうで。
「何もこんな嵐の日に危険を冒す必要はなかっただろうに……っ!」
レガートは膝から崩れ落ちた。愛していたのだ。
裏切られていると知っていてもなお。
しかしそれ以上に、メリーナは聞こえてしまった事実に驚愕する。
(リスティア様が、亡くなった……?)
リスティアの乗っていた馬車は、激しい風にあおられて崖下に落下した。
普段なら安全な山道でも、嵐の日は豹変する。
この事実をどうシエラに伝えればいいのか。
屋敷を出ていったというだけでもあれだけのショックを受けていたのに、事故に遭ったことを知ればシエラの心はどうなるのか。
想像するだけで。メリーナの胸が痛む。
何と言えばよいのか分からないまま、メリーナはシエラの私室へホットミルクを持っていく。
「シエラお嬢様、ホットミルクをお持ちしましたよ」
室内に入ると、シエラの返事がない。
落ち込んでいるから、いつものように返事ができないのだろう。
そう思っていたが、どこにもシエラの姿が見つからない。
「大変です! シエラお嬢様の姿が見えません!」
悲鳴に近い声で叫びながら、メリーナは屋敷中を走った。
―◆―
あの日のことを思うと、今でもメリーナは胸が締め付けられるように痛む。
屋敷中、街中、シエラの姿を探し回った。
どれだけ探しても、シエラは見つからない。絶望が皆の心を覆った。
しかし、シエラは戻ってきてくれた。
その瞳の光を喪って。
「……シエラ、目が、見えないのか……?」
レガートが娘の小さな体を抱きしめる。その手は、小刻みに震えていた。
「お父様、心配をかけて、ごめんなさい……」
シエラは風邪を引いて寝込んだが、リスティアの葬儀には参列した。
泣き顔は見せなかった。
姿を消していた間に何があったのか、誰が聞いてもシエラは答えなかった。
ただ、自分を救ってくれたのは優しい声の光だ、と言っていた。
それから、シエラは以前にも増してよく笑うようになった。
しかし、メリーナは心配でたまらなかった。
「シエラお嬢様、無理して笑う必要はないのですよ」
ある時、メリーナは耐えられなくなってシエラにこう言ったことがある。
「わたし、前までは何のために歌っているのか分かっていなかったの。でも、今はちゃんとそれが分かる。わたしは、大好きな人たちを幸せにしたいから歌うのよ。誰かの光になれる歌を、心から歌うために、わたしはいつも前を向いて笑っていたいの」
――そうすれば、あの方にも会える気がするから。
メリーナの心配は杞憂だったのかもしれない。
シエラはメリーナが思うよりも強い心を持っていた。
あの日のことがきっかけなのは間違いないだろう。
何がシエラを変えたのだろう。
そして、その答えは数年後に分かる。
「もう! アルフレッド様!」
「すまない、シエラが可愛すぎてつい……」
「……それも、反則ですわ!」
またあの新婚夫婦は何をいちゃついているのか。
シエラが顔を真っ赤にして、アルフレッドの胸元をぽこすかと叩いている。
まったくダメージはなさそうだ。
(でも本当に、シエラ様が幸せそうでよかった)
ずっと側にいても、シエラの心の傷に触れることがメリーナにはできなかった。
しかし、包帯公爵という異名を持つ、アルフレッドのおかげでシエラは毎日本当に幸せそうで、色々な表情を見せてくれるようになった。
恋する乙女の顔も見ていて飽きない。
「メリーナぁ…っ!」
アルフレッドの低音にノックダウンされたシエラが、メリーナに助けを求める。
メリーナは笑みを浮かべてシエラの手を取る。
「旦那様、奥様をからかうのも大概にしてくださいませ」
「あ、あぁ。すまない」
気まずそうに、アルフレッドが頭をかく。
「奥様も、いつまでも旦那様の声に腰を砕いていてはこの先持ちませんよ」
「うっ……」
メリーナの後ろに隠れたシエラが固まる。
「こうして盾になって差し上げるのもあと少しですからね」
その言葉に、シエラがぱあっと笑みを浮かべる。
きれいな虹色の瞳にメリーナを映してくれることに胸が熱くなった。
それもこれもすべてはアルフレッドのおかげだとシエラから聞いている。
二人の様子を見ていれば、それが真実なのだと分かる。
だから、メリーナは安心してアルフレッドにシエラのことを任せられるのだ。
十年前のあの日から、きっとシエラを導いてくれた光はアルフレッドなのだと、シエラの表情だけですぐに分かったから。
(それでも、大事なお嬢様をそう簡単に奪わせたくありませんからね)
ふふん、とメリーナはシエラの手を引いてその場を去った。
今まで、メリーナの主はシエラただ一人だった。
しかし、これからは違う。
シエラを笑顔にしてくれたアルフレッドも、大切なメリーナの主だ。
もうクルフェルト伯爵家の侍女ではない。
ベスキュレー公爵家に仕える者として、メリーナは心から公爵夫妻に仕えたい。
それが、今のメリーナの幸せだ。
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