第43話 惑い、迷う心


 手に自分のものではない温もりを感じて、イザベラの意識は少しずつ覚醒する。

(……お兄様?)

 うっすらと目を開くと、イザベラの手を握っていたのは兄のエドワードだと分かった。

 昔から、他人の気配には敏感な方だ。

 しかし、よほど身体が疲れていたのか、エドワードが側にいても、手を握っても、すぐに目覚めなかった。

 頭がぼうっとして、自分が今どのような状況にあるのかすぐには理解できなかった。

(そうだ、わたくしは……包帯公爵を手に入れて、ヴァンゼール王国を)

 あの森で何があったのかを思い出した瞬間、イザベラは飛び起きた。


「イザベラ! 身体はもう大丈夫かい?」


 エドワードが心配そうにこちらを見つめてくるが、イザベラの頭の中はそれどころではない。

 今すぐに包帯公爵を断罪し、ヴァンゼール王国との戦争の火種を撒くのだ。

 そのために、イザベラを可愛がってくれている兄を利用する。

 ちくり、と胸が痛んだ。


 ――今のあなたは人間であり、ロナティア王国の第一王女だ。今は、前世とは違う。あなたの大切な人や場所はここにある。


 うるさい。そんなことはない。あるはずがない。

 エドワードが本気で心配しているからなんだというのだ。

 何のために、呪いの噂を、“魔女殺しの国”の噂を広めた。

 すべては、憎いヴァンゼール王国を滅ぼすためだろう。

 イザベラはそう自問する。

 前世の自分に、弁解するように。


 ――あなたはただ、大切な親友と仲直りがしたかっただけだろう?


 胸が苦しい。

 グリエラは、初めてできた友人だった。

 たった一人の、親友。

 どうして。涙が止まらなくなる。


 ――わたしたちはお友達じゃありませんか。


 やめて。優しい笑顔を向けないで。

 親友は、グリエラただ一人。

 他には、誰もいらない。

 自分は酷い人間なのだ。いや、人間ではない。

 力はなくとも、心は魔女なのだ。

 ずっと、ずっと。

 前世の後悔が心に重く沈んでいる。


「イザベラ? どうした?」


 肩をゆすられ、イザベラはハッと現実に戻る。

 頭の中ではずっと、アルフレッドやシエラにかけられた言葉たちが繰り返されている。

 目の前には、慈愛に満ちた兄の顔。

 ここ最近、兄を避けていたから、久しぶりにちゃんと目を合わせた。

 その瞳にたしかな愛情があることで、気づいてしまった。

 見ないよう、考えないようにしていたものに。

 自分は、本当に周囲に恵まれて、大切に育てられてきたのだ。

 幼い頃から、エドワードはイザベラに甘かった。

 両親である国王と王妃も、イザベラに愛情を注いでくれていた。

 前世では失った両親も、兄も、イザベラはすべて持っている。


「……お、にいさま。わたくし、わたくしは、ベスキュレー公爵に……」


 誘拐された。危害を加えられた。許せない。罰してほしい。

 ヴァンゼール王国には嫁ぎたくない。呪われたあの国を潰してくれ。

 自分の目的のために言うべきことは分かっている。

 それなのに、声が出ない。


「あぁそうだ。ベスキュレー公爵夫妻が、イザベラのを解く方法を見つけたそうだよ。もし目が覚めたら、連れてきてほしいと言われているんだけど、体調は大丈夫かな?」


 エドワードがにっこりと笑みを浮かべて問う。

 何を言っているのだろうか。

 呪いの元凶は自分だ。その呪いをどう解こうというのか。

 しかし、彼らは実際に呪いを解いた。女神の加護もある。

 これは罠だろうか。


「どうしてそんなに怯えているの? 怖いことなんて何もないよ」


 黙り込んだイザベラに、エドワードが安心させるような笑顔を向ける。

 エドワードは何も知らないから、そんなことが言えるのだ。

 少しだけ、イザベラの心がささくれ立つ。

 前世が魔女だからヴァンゼール王国を滅ぼしたいだなんて、この兄には口が裂けても言えないけれど。


「ねぇ、イザベラ。僕に、何か言いたいことはないかい?」


 エドワードの問いに、どきりとした。


「ベスキュレー公爵夫妻から、何かお聞きになったのですか?」

「さぁ、どうだろう。でも、僕はイザベラのことを守れない駄目な兄なのかもしれない」

「そんなことは……」

「あるよ。だって今、イザベラはとても苦しそうだ。僕にはその苦しみを取り除く方法が分からない。それが呪いだとすれば、もっと難しい。僕はね、イザベラの笑顔が大好きなんだよ」

 ――最近は全然見ていないけれど。

 悲し気に、エドワードが目を伏せる。

 耳にかけていた黒髪がさらりと揺れ、きれいな兄の顔を隠してしまう。


「……わたくしは、お兄様が思うほど良い子ではありませんわ」


 むしろ、自分は悪役だ。厄介な復讐者であるのだから。


「僕も、イザベラが思うほど優しい兄ではないかもしれないよ」


 顔を上げて、エドワードがにっこりと微笑む。

 兄が、優しいだけの人ではないことは知っている。

 しかし、イザベラに対してだけは優しく、甘い人――だった。


「顔色も良くなってきたみたいだし、早速行こうか」


 まだ心の準備ができていないイザベラを、エドワードは半ば強引にとある場所へと連れ出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る