第5話 偶像の楽園(1)
飢饉。飢餓。二人は歩いていた。
「空気が空腹を満たしてくれれば、楽なんだけれど」
「夢物語ですね」
ぐうと間抜けな音を立てて二人の腹が鳴る。高低で調和し、それは案外心地の良い音色になっていた。とそんな意味の分からない事を本気で思考してしまう程、二人は空腹に苛まれていた。
こつこつと音を立てて二人は地面を踏みしめる。コンクリートと草の境界が曖昧になっており、整備されていない事が伺える。
「まあ、次の街に着くまでの我慢だね」
「それ、何回目ですか」
「六回目」
「……数えてたんですか」
「覚えてるだけだよ」
モーダルはくつくつと笑って、ペトラを見る。風に靡くその黒髪は艶やかで、まるで空腹など感じていないのではないか。と思ってしまう程だった。勿論、そんな事はない。彼女もこの空腹には耐えられないようで、時々足をついてはモーダルを止める。
普段なら小言の一つや二つ飛ばしている彼も、流石にこの時だけはその言をせき止めておいた。否。口に出せなかったと言う他無い。
彼もまた、空腹に悩まされている一人だからである。
彼らは旅人だ。こんな時の為に携帯食料を持っているのが当然なのだが、それも既に食べつくした。鞄に入っているのは様々な国の通貨、護身用のナイフ、地図、手記だけである。羊の様に紙を食せたら良かった、とペトラは思う。
「まあ、この辺に楽園があるって聞いたし。大丈夫だよ。死にはしない」
「なんでそんな事言えるんですか」
「一流の旅人だから」
そんなもう恒例になりつつあるやり取りを、空腹を紛らわすようにして交わし合い、二人は前を向いた。
しかし、眼前に広がるのは木々だけである。森、と言ったほうが正しいかもしれない。
流石のモーダルも、本当にこの辺りに楽園が存在するのか。と疑っていた。もしかすると、森に迷い込んだ人間が、自らの脳を持って作り出した偶像なのではないか。
モーダルは懐から煙草を取り出し、残り一本になってしまったそれに火を付ける。
「ずるいですよ、モーダルさん」
「なに、ペトラ。煙草なんて吸っていたっけ」
「違います。しかし、煙草には空腹を抑えるという効果が……」
「ああ、あるね。じゃあ吸う?」
そういって事もなく咥えていた煙草をすっとペトラに差し出す。そんなモーダルの行動に「吸いませんよ。唾液の交換は趣味ではありません」と返すペトラ。
モーダルは一気に肺に煙を充満させ、吐き出す。
「そんな意地張ってる場合じゃないと思うんだけれど」
しかし彼は煙草を渡す事はしない。器用に咥え煙草をしながら、彼は所持している地図をはらりと広げる。
地面に広がった世界を、二人でのぞき込む。
「やっぱり、楽園なんてないんですよ。今からでも遅くありません、引き返しましょう」
「嫌だよ。死ぬより、世界を見れないほうが怖い」
「根っからの馬鹿ですね」
「根っからの天才と呼んでくれよ」
天才と馬鹿は紙一重だな、と俯瞰でペトラは感じていた。
モーダルは現在地に小さな石を置いて、居場所を確認する。磁針も既に壊れている為、彼らはこうやって細かく位置を確認しなければならなかった。
辟易の声がペトラから漏れる。
「本当に、お腹が空きました」
「僕も」
倒れるようにして地面に座り込み、もう残り少なくなった煙草の葉を名残惜し気にひと吸いして、モーダルは空を見上げる。
緑だ。と彼は思った。
正確には、木々で上空が覆われており、空が見えない。その為彼らの目に映る空は緑だった。
気配を感じる。
殺気こそ漂わせてはいないが、まるで獲物を見つけた時の動物のような。そんな嫌な視線が自分に突き刺さっているのをモーダルは感じる。
ペトラはそんな事に気づいていない様子で、もう見る必要のない地図を眺めていた。
「ペトラ、警戒して」
「……いますね、誰か」
モーダルのその台詞で気配に感づいたのか、ペトラは鞄から護身用ナイフを取り出し、先に備える。それを見てモーダルも思い出したようにナイフを取り出すが、生憎料理以外でそれを使用したことがなく、そしてこの状況に陥ってしまっている為、上手く扱う事が出来ず地面に落下させてしまった。
「に、人間か?」
雑草からひょこんと顔を出したのは、齢三十後半程の無精ひげを蓄えた男であった。
二人はその男からの問いかけに返答することなく、警戒したまま男に近づく。モーダルは未だ涼し気な表情をしていたが、ペトラはナイフを持つ手が震える程、慄いていた。
ペトラの額に嫌な汗が滲む。
ただでさえ空腹なのだ。これ以上の厄介を躱すのは、難しくはなくとも簡単ではない。
敵意をむき出しにするペトラに、男は戦意はないとでも言いたげに頭上に手を持っていき、ひらひらと白旗を振る。
「本当に! 何もしないし何も持ってない! 俺はただこの辺りを散歩してただけだ!」
「嘘をつかないでください。こんな何もない辺境で散歩? 貴方は自殺志願者かなにかですか?」
男は一瞬思考し、「まあ、大体はそうかもな」などと小声で呟く。
そしてまるで鬼の首でも取ったかのような表情で、
「俺は、この辺りにある街、楽園の住人だ」
とどこか得意気に告げた。
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