061 背中・帰ろう・恋人に


 一人暮らしをつらいと思ったことは、ほとんどなかった。


 毎日一人で食事して、一人で眠って、一人で目覚める。

 気楽だ。

 自由だ。

 それなりに楽しくやれる。

 ただ少し、寂しいだけだ。


 二人暮らしを楽だと思ったことも、ほとんどない。

 短い間だったけれど、大変なことばかりだった。

 下着を洗濯する時、二人分の洗い物をしている時、バイトのシフトを考えている時。

 今まで無かった苦労が増えて、気疲れすることも多くなった。

 けれど、寂しくはなくなった。


 どちらがいいかなんて、考えるまでもなかった。


 家に帰ってただいまと言うと、おかえりと返ってくる。

 疲れてそのままベッドに倒れてしまっても、次の日目覚めると家事が終わらせてある。

 テレビに向かってツッコミを入れても、それが独り言にならない。


 当たり前だったものを失って、ずっとそれに慣れてしまっていた。

 それでも平気だと思っていたのに、取り戻してみて初めて、自分がそれを求めていたことを思い知った。

 単純なやつだな、と自分でも思う。


 誰でも良かったのだろうか。

 家事をして、返事をして、一緒にいてくれれば、誰だって良かったのか。

 それだって、考えるまでもない。


 雪季が身体を揺らして、ひしっと抱きしめてくる。

 離れろと言っても嫌がって、ずっとそうしている。


 寝転がっていると、何も言わずに隣にやってくる。

 しばらくはおとなしくしていても、またすぐに抱きついてきて、腕や背中に顔を埋める。


 歯を磨く時、絶対についてきて、鏡の前に並ぶ。

 同時に磨き初めて、同時に磨き終えて、順番にうがいをする。


 向かい合ってご飯を食べる。

 一緒にごちそうさまをして、一緒に食器を片付ける。

 食器を洗ってリビングに戻ると、おかえりと言って迎えてくれる。

 

 二人で買い物に行くと、なぜかカゴを持ってくれようとする。

 奪い取ると不機嫌になって、けれど、ありがとうと言ってくれる。

 そして、こっそりプリンをカゴに入れている。


 突然、黙ってバイトを始めている。

 これからは一緒に頑張ろう、なんて言う。

 抱きしめて、泣いている遥の頭を撫でてくれる。


 好きだと言ってくれる。

 待つと言ってくれる。

 頑張るよ、と言うと、本当に嬉しそうに笑ってくれる。


 誰でもいいわけがなかった。

 雪季だから、遥はここまで来た。

 雪季だから泣いたし、雪季だから嬉しかった。

 雪季だから、こんなに心がざわつくくらい愛しかった。


 雪季だから。


「俺は、雪季が好きです」


 雪季だから、そう思えた。


「恋が怖くたって、この先後悔するかもしれなくたって、俺は雪季と、一緒にいたいです」


 雪季の父親は、何も言わなかった。

 眼鏡の奥で鋭い目を光らせて、ただ遥のことを見ていた。


「お願いします。雪季を連れて行かないでください。俺が、絶対に守ります。雪季が幸せでいられるように、全力で支えます。だから雪季を、恋人にさせてください」


 頭を下げて、目を閉じた。

 不思議と、恥ずかしさはなかった。


 くっくっと、何かが低く鳴るような音がした。

 ゆっくり顔を上げると、目隠しをするように眼鏡を手で触りながら、雪季の父親が静かに笑っていた。


「……ああ、すまない。けれど遥くん、告白するなら相手が違うよ。こんな中年に向かって、そんなセリフを言わないでくれ。年甲斐もなく、ニヤニヤしてしまうじゃないか」


 思わずムッとする遥をよそに、雪季の父親はまた少しだけ笑った。


「……あの」

「いやいや、もういいじゃないか、私のことは。それより、後ろを見てごらん」

「えっ……うわっ!!」


 振り返ると同時に、遥は勢いよく何かにぶつかられて、尻餅をついた。

 反射的に閉じてしまった目を開けると、目の前に、今にも泣き出しそうな雪季の顔があった。


「遥!」

「ゆ、雪季!? ど、どうしてここに……」


 尋ねても、雪季は遥の胸に抱きついてくるだけだった。

 鼻をすする音がして、肩が震えていた。


 頭に浮かんだ様々な疑問も、すぐにどこかへ消えていってしまった。

 遥は雪季を抱きしめた。

 自分の腕の中に、雪季がいる。

 その事実を噛み締めながら、今までにないくらい、強く強く抱きしめた。



   ◆ ◆ ◆



「いやぁ、まさかこんなにうまく行くなんてね」


 深夜の国道を走る車の中で、遥は雪季と手を繋ぎながら、運転する雪季の父親の話を聞いた。


「……どういうことですか、一体」

「すまない遥くん。怒らないで聞いて欲しいんだけれど、これは僕が仕組んだ、嘘なんだよ」

「嘘!?」


 思いもよらぬ言葉に、遥は自分でも驚くほど大きな声を出してしまった。


「ど、どこからどこまでが嘘なんですか!?」

「全部、というのはさすがに冗談だけれど、僕が日本に帰ってくる、というところからだね」

「……ってことは……つまり」

「ああ。雪季はまだ、君にお世話にならないといけない。僕も明日には、また向こうに戻るよ」


 開いた口が塞がらない、とはまさにこのことだった。

 では、遥の父親は。雪季は。

 一体誰が、どこまでのことを知っていたのか。

 頭が追いつかず、遥は強烈な目眩を感じていた。


「君のお父さんも、雪季も、君も、みんな僕が騙した。雪季はともかく、月島親子は騙しやすくて、助かったよ」


 またしてもくっくっと笑い、雪季の父親は一瞬だけ遥の方を振り向いた。


「月島さんに話を聞いて、いてもたってもいられなくてね。もどかしい。じれったい。悪者になってもいいから、君の背中を押したくなった。それで月島さんと雪季に嘘をついて、この展開を用意したのさ。君がここへ辿り着けるように月島さんに情報を伝えて、雪季のスマホも隠して、周到に用意した。飛行機もすぐに予約した。急な有給も許してくれるのが、僕の会社のいいところでね」


 唖然とする遥を尻目に、雪季の父親は愉快そうに笑っていた。

 たしかに言われてみれば、今日の展開はどこか出来過ぎていたように思える。

 遥の父親が雪季たちの予定にやけに詳しかったのも、遥を駅に誘導するためだとすれば合点が行く。

 が、とんでもない人だ。

 さすがは戦略家、雪季の父親。

 遥は全身から力が抜けていくのを感じた。


「恨んでくれてかまわないよ。雪季にすら嫌われる覚悟だったからね。だけどそれほど、放っておけなかった。一番苦労したのは、わんわん泣く雪季を泣き止ませることだったけれどね」

「ん……なるほど」

「なるほどって……雪季、お前は冷静だなぁ……」

「ん、パパはこういう人」

「そういうことさ。雪季が君に、離れ離れになるのを伝えてしまわないかとも思ったけれど、雪季には明後日迎えに行く、と伝えた。きっと、君に話すなら最後の日だろうと思ったからね。そして急遽、君のバイト中に雪季をさらって、スマホを隠した。計画は成功。まあ失敗しても、ちゃんと次の手があったんだけどね」


 平然と恐ろしいことを言いながら、雪季の父親はまた笑った。

 脱力感と徒労感のせいで、怒りも湧いてこない。

 それにここまで開き直られると、なにを言っても無駄なような気がする。

 雪季に負けず劣らず、この人は曲者だ。


「たしかに僕は君を騙した。けれど、君の言葉は本心だろう? 僕はそれが聞ければよかったのさ。雪季にも聞かせられたのは、僥倖だったけれどね」


 そう言われて、遥の脳裏に数十分前の出来事がありありと蘇った。

 顔が熱くなるのを感じたが、後悔はない。

 隣を見ると、深夜の車中でもわかるくらいに、雪季も頬を染めていた。


 そうか。

 遥は改めて思う。

 自分は、この娘のことを、好きなんだ。


「……あっ」

「おや、もしかして、気がついたかい?」

「……はい」


 大切なことを一つ、忘れていた。遥は胸に手を当てて、ゆっくりと深呼吸をした。


「……雪季、今までごめんな。好きだ。付き合って欲しい」


 まだ、ちゃんと本人に向かって伝えられていなかった。


 雪季は驚いたように目を丸くすると、目尻に涙を溜め、泣き笑いのような表情で、深く深く頷いた。

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