059 勝手・襲って・連れ戻す
「……おい、雪季」
「……ん、なに?」
「……くっつくのはいいけどさ、後にしてくれよ……」
ある日の夜、遥が風呂から上がって着替えると、見計らったかのようなタイミングで、洗面所に雪季がやってきた。
何事かと思ったのもつかの間、雪季はドライヤーを持っていた遥に後ろから抱きつき、背中に顔を埋めて黙ってしまったのである。
以前にもこんなことがあった気がするが、これではドライヤーがどうにも使いにくい。
くっつかれるのはともかくとしても、せめて髪を乾かし終わってからにして欲しかった。
「ん、やだ」
「なんでだよ」
「……寂しい」
「すぐ戻るだろ。テレビでも見て待ってな」
「……やだ」
雪季は遥の背中に顔を擦り付けるように、ふるふると首を振った。
どうやら、今日は離れるつもりはないらしい。
遥はふぅっと息を吐くと、器用にコードを手繰りながら、なんとか髪を乾かした。
いつものことだ。
が、何か今日は、普段にも増して甘えたになっている気がする。
はっきりとそうとも言い切れないのが、雪季の難しいところではなるけれど。
リビングに戻っても、雪季は離れようとはしなかった。
遥がデザートに買っておいたカップアイスを食べている間も、スマホでメッセージを返信している間も、ひと時も抱きしめた腕を解こうとしない。
「雪季、どうした? 何かあったのか?」
「……なにも」
「……そうか」
おかしいな。
遥は首を傾げてみたが、特になにも、理由は思いつきそうになかった。
まあ、雪季には珍しいことでもないのかもしれない。
あまり気にしないことにして、遥は一つあくびをした。
「寝るか、雪季」
「……ん、もうちょっと」
「もうちょっとって……何かするのか?」
「……くっつくだけ」
「えぇ……」
「……ん、お願い」
「……まあ、いいけどさ」
遥がそう言うと、雪季は背中側から回り込んで、今度は正面から抱きしめてきた。
顎の下に雪季の頭が来て、シャンプーの良い匂いがする。背中に手を回して、なんとなく撫でてみた。
雪季は安心したようにゆっくりと息をする。
ますます抱きしめる力が強くなり、遥は身動きが取れずにいた。
「雪季、どうしたんだよ」
「……」
「ん? なにかあったなら言ってみな?」
「……なにも」
頑なだなぁ。
変わらない雪季の反応に、遥は思わず肩をすくめた。
もう二ヶ月ほど、毎日雪季と一緒にいるのだ。
さすがの遥にも、今日の雪季の様子がおかしいことくらい、はっきりわかる。
だが、本人がなんでもないと言うなら仕方がない。
必要以上に問い詰めるのも、それはそれで雪季に悪いだろう。
「んー、じゃあ、しばらくこうしてるか?」
「……ん、そうする」
そう答えた雪季は、本当にしばらくの間、黙ってそのまま遥に抱きついていた。
雪季の気が済むまではこうしていよう。
遥はそう決めて、のんびり雪季の頭を撫でる。
だんだん雪季の表情が柔らかくなり、鼓動が早まるのが伝わってきた。
「……遥」
「ん? なんだよ、雪季」
「……」
「……雪季?」
「…………襲っていいよ」
「はぁ!?」
驚きのあまり、遥は飛び退くように雪季から離れた。
見ると、雪季は四つん這いの姿勢で、酔ったような瞳で遥を見つめていた。
「お、おま、な、なんてことを!」
「……襲って、遥」
「襲わねぇよ! っていうか、なんだよ襲うって!!」
「……遥」
「や、やめろって! 来るなよ! 落ち着け! な?」
「……いや?」
「い、い、いやとかいやじゃないとか、そういうことじゃないだろ……!」
「……私じゃダメ?」
「バカ! 冗談でもそんなこと、言うもんじゃないぞ!」
「……冗談じゃない」
「だったら尚更だ!」
遥は立ち上がって、ジリジリと近づいてくる雪季から距離を取った。
これではどちらが襲われているのか、分かったものではない。
「ん、逃げた」
「逃げるわ! いい加減にしないと、怒るぞ!」
「……ん、いいよ」
「よくない! 早く寝ろ!」
言いながら、遥は雪季の布団を勢いよく広げて、雪季を頭から包んだ。
布団の中で、雪季がジタバタと暴れる。
「んー!」
「バカ雪季! おやすみ!」
そう言い放って、遥は部屋の灯りを消した。
自分のベッドに入り、壁の方を向いて目を閉じる。
しかしすぐさま雪季が上ってきて、遥に背中から抱きついた。
「雪季……ダメだって、自分のとこで寝な」
「……ん、今日だけ」
「今日だけって、もう何回も聞いたぞ?」
「……ホントに今日だけ」
「……やれやれ」
遥はとうとう諦めて抵抗を止めると、雪季はギュッと遥の胸を強く抱きしめた。
バカなことは言わなくなったが、やはりなんだか、しおらしい。
本当にどうしたのだろう。
気にはなったが、無口な雪季のことだ。
教えてくれそうにはないので、今日はひとまず、そっとしておくことにする。
「……遥」
「んー?」
「……」
ダメだこりゃ。
遥は小さく息を吐いて、再びゆっくり目を閉じた。
◆ ◆ ◆
翌日、遥はバイトを終え、重い足取りで帰路に着いていた。
休日ということで、午後からかなり長い時間働き、遥はくたくただった。
早く帰って休もう。
確か今日は、雪季もバイトだったはずだ。
雪季はもう夕飯は済ませただろうか。
そんなことを考えていると、ポケットの中のスマホが震えた。
見ると、父親からの電話だった。
昨日話したのに、連日なんて珍しい。何の用かと思いながら、遥は通話を取った。
「もしもし?」
『あー、もしもし……遥?』
「なに? なんか言い忘れ?」
『い、いやぁ〜……どうしてるかな、と思って……』
明らかに様子がおかしい。
雪季といい父親といい、なんなんだ一体。
遥は耳から離した受話器を訝しげに眺めた。
首を傾げてから、再び耳に当てる。
『ど、どうだ? 二人暮らしは』
「昨日も言っただろ。うまくやってるよ。大変だけど」
『そ、そう、だよな……。や、やっぱり一人の方がよかったか……?』
「……うーん、まあ、悪くないよ、意外と」
『ふ、ふーん……』
「……」
『……』
「……親父、何年の付き合いだと思ってんだよ。言いたいことがあるなら」
『すまん!!』
「……ん?」
あまりの大きな声に、遥は受話器を少し耳から遠ざけた。
しかし、何を急に謝ることがあるのだろう。
『じ、実は……昨日の電話の後、雪季ちゃんの親父さんと話したんだけどな……』
「……それで?」
『ゆ、雪季ちゃんな……』
◆ ◆ ◆
疲れも忘れて走った。
マンションの階段を駆け上がり、一気に自分の部屋にたどり着く。
ドアを開けると、玄関に雪季の靴が無かった。
『連れ戻す!? なんで!?』
『ちょうどこっちでの仕事がひと段落したらしくて……日本に帰るからって……』
荷物も全て、無くなっていた。
カバンも、服も、ついでに歯ブラシもない。
全身から力が抜けていくのがわかる。
血の気が引いて、めまいがする。
父親の話が本当だったということを、嫌でも思い知らされた。
『そんな急なことってないだろ!? 勝手過ぎる!!』
『し、仕方ないだろ……向こうの家族の問題だ。それに、できるなら雪季ちゃんだって、お父さんと一緒に暮らせた方がいいだろ?』
『それは……そうだけど……』
電話をかけても、雪季は出なかった。
電源が入っていない、というアナウンスだけが、無機質に流れる。
『他人と暮らさせるのも、それをやめさせるのも、父親が決めるのかよ! そんな権利あるのか!?』
『でも親父さん、話し合って決めた、って言ってたぞ。雪季ちゃんも納得してるらしいし』
『そ……そんな……』
雪季はどこへ行った。
遥は無意味に部屋をウロウロして考える。
どうすればいい。
どうするべきだ。
何が最善の道だ。
いや、たとえ最善でなくたって、遥のしたいことはもう、決まっている。
財布とスマホ、それだけを持って、遥は部屋を飛び出した。
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