055 好きだ・一瞬・わからない


「すっかり遅くなってしまったね」


 夕食を終えて店を出ると、あたりはもう暗くなっていた。

 ちょうど、バイト先の店が閉店する頃だ。

 橙子と遥はバイト仲間たちと遭遇してしまわないように、できるだけ遠い道を選ぶことにした。


 観劇と少しの買い物をする間に、橙子は遥との距離感にも、それから手を繋いでいるのにも、かなり慣れていた。

 最初ほどは緊張せずにいられるが、強い幸福感はずっと感じていた。


「でも、意外でした。橙子さんがラーメン食べたがるなんて」

「む、いいじゃないか、別に。好物に意外も何もなかろう」

「そうなんですけど、ちょっと、おもしろくて」


 遥の言葉に、橙子はわざと不機嫌さを表してみた。

 が、申し訳なさそうに頭を掻く遥の様子に毒気を抜かれて、すぐにもとの表情に戻る。


「そろそろ帰らないと」

「……うん、そうだね」


 遥に言われて、橙子は思わず歩く速度を落としてしまった。

 覚悟はしていたけれど、やはり別れなければならない。


「橙子さん?」

「……遥」


 橙子は俯いた。

 脚が止まり、身体が動かなくなる。

 さっきまでの浮いた気持ちが嘘のようだった。


「……帰りたくないんだ、遥」


 言ってから、しまった、と思った。

 もう、遥を困らせたくなかった。

 今日くらいは、しっかりした汐見橙子でいたかった。


「えっ! ……それは、その……」

「あ、ああ! いや、そういう意味ではなくて! ただ……」


 遥は慌てたように顔を赤くしていた。

 たしかに、今の言い方ではまるで自分が色魔のようだ。

 だが、それで遥が慌ててくれたのが、橙子にはたまらなく嬉しかった。


 橙子はゆっくり深呼吸をして、高鳴る胸を鎮めた。

 一日デートできただけでも、十分すぎるほどに幸せだ。

 あとは、遥が決めること。

 遥が思うように、自分の幸福を第一に考えて、進む方向を決めてくれればそれでいい。


「……すまない。私としたことが、とんだわがままだね」

「い、いや、そんな」

「今日は、本当に楽しかったよ。夢にまで見た君とのデートだったんだ。私はこの上ない果報者だろう」

「いえ、こちらこそ、ありがとうございました。無理なお願いを聞いてもらって」

「ああ。たとえなにを選んだとしても、私は君の幸せを願っている。恐怖症が治って、君が前に進めるようになるのを、心から応援している。その相手に私を選んでくれるならそれ以上の幸福はないけれど、一番はやはり、君自身の幸せが大事だよ」


 それは、橙子の正直な気持ちだった。

 ほかの女と、遥を奪い合う。

 もしそうなっても、当然橙子には勝ちを譲る気はさらさらない。

 けれど、遥の気持ちを蔑ろにはできない。

 橙子にとってもっとも大切なのは、やはり遥の心なのだから。


「それじゃあ、残念だけれど、そろそろ」


 そう言いかけた時、遥が緊張した面持ちで、こちらを見ているのに気がついた。

 なにかを言おうとしている。

 バイト中、言いづらいことを切り出そうとする時の遥と、そっくり同じ顔だった。


「と、橙子さん!」

「な、なんだ……?」

「……最後に、キスしてもいいですか?」

「へぇっ?」


 橙子にはあるまじき、間の抜けた声だった。


「あ、いや! その……実は……」


 聞けば、どうやら遥は雪季と、それからもう一人の女とも、キスをしてしまったらしい。

 いや、正確には、キスされた、と言う。


「だから、その……ちゃんと確かめたいと言うか……いや、失礼なこと言ってるのはわかってるんですけど……」

「う、うん……」


 遥は、ものすごく気まずそうにしていた。

 良くも悪くも、真面目なやつだなと思う。


「嫌、ですよね……あはは……すみません」

「い、嫌というわけでは! ……私だって、それは、したいけれど……」

「えっ……」

「……わ、わかった……少し! 少しだけ! 一瞬! 触れるか触れないかくらいのやつにしよう! ……それで、どうだろうか……」


 橙子にはそれが、精一杯の提案だった。

 遥は驚いた顔のまま頷くと、一歩、また一歩と、橙子に近づいてくる。

 飛び出しそうになる心臓を押さえつけながら、橙子は遥を待った。


「じ、じゃあ、いきます……!」

「ひ、ひ、人が来ないだろうか!」

「わ、わかりません……」

「えぇ!」

「し、仕方ないですって! ……では、改めて……」


 橙子は両手を前に出して、ギュッと目を瞑った。

 すぐに手が何かに触れ、それが遥の身体だとわかる。

 腕を曲げると、そこに遥の背中があった。

 すでに真っ暗だった視界が、その暗さを少しだけ増す。

 かすかな熱と、吐息を感じた。


「橙子」


 聞き慣れた声が、聞き慣れない呼び名で自分を呼ぶ。

 耳が熱くなって、頭が逆上せる。

 間髪を入れずに、唇に柔らかい感触が来る。

 遥の匂いがする。

 口先が痺れる。

 息ができなくなって、意識が朧げになる。


 遥。


 身体がくっつく力が強くなる。

 それが自分のせいなのか、遥のせいなのか、橙子にはわからない。

 なぜ、一瞬のはずのキスがこんなに長いのか、それもわからない。

 本当に今、自分たちの周りに人はいないのか、わからない。


 そんなこと、わからなくてもいいから。


 唇が離れて、霞む視界に遥の顔が映る。

 酔ったように虚ろな目が、自分を見ている。

 瞳に反射した自分の顔が、涙でまみれてぐしゃぐしゃになっている。


「遥」


 もう一度、遥の顔を引き寄せてキスをする。


 わからなくてもいいから、今はただ、この熱に溺れていたかった。


 だめだろうか。

 今くらい、わがままになってはいけないだろうか。

 遥を、目の前の男を、欲しいと思ってはいけないのだろうか。


「遥、好きだ」


 視界が歪むのにも構わず、言った。


「好きなんだ、遥」

「……はい」

「君が選びたいものを選んで欲しい。自分が幸せになることを、一番に考えて欲しい。そう思っていても、でも、どうしようもなく好きなんだ! 私を選んで欲しい。私だけを、好きになって欲しい。私が絶対に、君を幸せにするから。君がつらいなら、私が支えるから。一緒に、その悲しみを背負うから。絶対に裏切ったり、傷つけたりしないから。だから……!」


 止まらない。

 気持ちが溢れて、押さえが効かない。

 こんなのは嫌なのに。

 もっとカッコいい自分で、遥のことを思いやる、いい女でいたいのに。


「私じゃ……ダメかな?」


 声が震える。

 身体に力が入らない。

 遥の胸に、縋るようにしがみついてしまう。


 遥は驚いた顔で、何も言わずに橙子の頬を手で包んだ。

 そのまま悲しそうな、そして嬉しそうな笑顔を浮かべて、遥は橙子の名前を呼んだ。


「橙子さん」


 愛しい遥の声に、橙子は目を閉じる。

 涙を拭ってくれる指。

 髪を撫でてくれる手。

 声。

 吐息。


 遥の全てが好きだ。


「橙子さん、俺……」


 遥の濡れた声が、鼓膜を揺らした。


 橙子はその日、自分がどうやって家まで帰ったのかわからないまま、静かに眠りに就いた。

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