054 夢中・強引・これからも
「ちょ、ちょっと待ってくれないか!」
「え、えぇと……はい」
真っ赤な顔の前で両手をぶんぶんと振る汐見橙子に、遥は思わず苦笑いを浮かべた。
深緑のロングスカートと白いトップスを着た橙子は、集合時間のきっちり15分前にやって来た。
それでも先に来ていた遥に律儀に謝るあたりは、さすが橙子、という感じだった。
だが、遥が「手を繋いで欲しい」と頼むと、橙子は見事なまでに取り乱してしまった。
予想とは違うその反応に、遥は少しだけ、嗜虐心がくすぐられる思いがした。
「……ふぅ。いや、その……たしかに私は以前、大胆にも君を抱きしめたりしてしまったけれど、あれは、なんというか、勢いというか、それに飲まれていたわけで……」
学生服でもバイトの制服でもない橙子は、いつにも増して美しかった。
まさに、雪季にも引けを取らない美人だ。
そしてそんな彼女が頬を染めている姿は、遥の想像以上の威力を持っていた。
「だから、その……手を繋ぐ、というのはやっぱり……」
どうやら、橙子は恥ずかしがっているらしかった。
いつも毅然としていて、余裕のある橙子の印象とはずいぶんと、違う。
そういえば。
遥は彼女をデートに誘った時のことを思い出した。
バイト終わりの帰り道、遥が「デートしてくれませんか」と尋ねると、橙子は絵に描いたようにうろたえて、今みたいに顔を真っ赤にしながら、「ぜぜぜぜ、是非!」と言った。
その反応がなんだか可愛らしくて、遥は笑ってしまったのである。
ただ、絢音と手を繋いだ以上、橙子と繋がないというのは、遥は嫌だった。
ちゃんと、橙子とのことも真剣に考えたい。
絢音とのデートの経験から、どうやら手を繋ぐというのはなかなか重要なことらしいと、遥にはわかっていたのである。
「お願いします、橙子さん」
「だ、だがしかしそうは言っても! ……うぅ」
遥が手を差し出しても、橙子はなかなかその手を取れずにいた。
少しだけ手を伸ばしては、サッと引っ込める。
もどかしい。
ここはあくまで第一段階だ。
橙子への想いを確かめるには、この先が重要だというのに。
「ああもう。橙子さん、行きますよ、ほら」
少し強引に、橙子の手を掴む。
そのまま自分の身体の方へ引き寄せると、 橙子はピシッと背筋を伸ばして遥の隣を歩いた。
「は、は、遥……! その……」
「どうしたんですか?」
「せ、せめて汗だけ拭かせてくれないだろうか……」
「ダメです。もう、キリがないですから」
「そ、そんなぁ……」
いつもの毅然とした様子とは裏腹に、今日の橙子はしおらしかった。
そのギャップに胸のときめきを感じながら、遥は橙子の手を引いて、目的の場所へと歩く。
橙子の手は、そばで見ていた時よりも、細くて華奢に感じられた。
その手が強張ったように遥の手を握る。
そしてそれと同じくらい、橙子の表情と肩にも力が入っていた。
「橙子さんは、意外とシャイなんですね」
「そ、そんなことは……だって……」
「バイト中はあんなに、しっかりしてるのに」
「それは……君は、特別だから……。その君に気持ちを知られている状態だと、どうしても……」
橙子はちらっと遥の方を見てから、すぐに前を向きなおった。
こうして並んでみると、彼女はただの、17歳の女の子だった。
普段はやたらと大人びているから、忘れていたのかもしれない。
君は特別、と橙子は言った。
橙子だって、遥にとっては特別だ。
しかしそれは、誰よりも尊敬して、信頼しているお姉さん。
そういう意味でしかなかった。
少なくとも以前までは、そうだった。
「どこに行くんでしたっけ?」
「あ、ああ。駅の中に大きな劇場があってね。そこだよ」
「あー、あそこですか」
橙子とは、有名な劇団の演劇を見ることになっていた。
遥も名前は何度も聞いたことがある劇団だ。
「俺、演劇ってちゃんと見るの初めてなんですよね」
「君が思っているより、きっと楽しいよ。どうしてもお堅いイメージがあるだろうが、基本は映画と同じさ」
話しながら、列に並んで劇場に入った。
外の賑やかさとは違って、中は静かで、まるで真夜中のような雰囲気だった。
様々な年齢の人々が、各々の席に座っていく。
中には遥たちのような、若い男女の二人組も少なくない。
自分たちの席を見つけて、二人は並んで腰かけた。
手は肘掛の下に隠すようにして、繋いだままだった。
「開演までまだ少しあるね」
「劇場っていうだけでもなんか楽しいし、ゆっくりしてましょうよ」
「ああ、そうだね」
見ると、橙子の顔はいつもの凛々しさを取り戻していた。
劇場を背景に浮かぶ橙子の美しい顔は、まるで絵画のようだった。
「むっ、どうした」
「ああ、いえ。なにも」
「そ、そうか。……しかし、不思議だね」
橙子は短い間だけ目を閉じて、すぐに遥の方を向き直った。
「君と今、恋人のようにこうしているなんて」
「……そうですね。想像したこともありませんでした」
「……私は、何度も想像したよ」
そう言った橙子の目は、劇場の薄明るい灯りを映して揺らめいていた。
「手を繋ぐのも、抱きしめるのも、数え切れないほど想像した。その度に興奮して、ドキドキして、君を好きになった」
「橙子さん……」
「君は笑うかもしれないけれど、私はそういう女だ。いや、君が、私をそうさせた。今でもそうだ。そして、これからもきっと……」
手を握られる力が、強くなるのがわかった。
橙子は今にも泣き出しそうになっていた。
遥は思わず橙子の頭に手を載せると、ゆっくりと撫でた。
「ありがとう、橙子さん」
「こ、こら! 仮にも人前だぞ! 遥……」
「あ、すみません」
言われて手を引っ込めると、しかし橙子は名残惜しそうに遥の手を目で追った。
そういう仕草一つひとつが、遥には愛おしくてたまらない。
橙子が本当に自分のことを好きだということが、惜しみなく伝わってくる気がした。
「……女の、しかも先輩の髪を、簡単に触ってはいけないよ」
「ごめんなさい、橙子さん。でも、橙子さんなら許してくれるかなって」
「そ、それはもちろん、許すけれど……あぁ、もう」
「どうしたんですか?」
「……君は、私がどれほど君に夢中か、わかっていないだろう」
「えっ……」
「……私は、君が喜ぶのならなんだってするよ。君が望むなら、全てを捧げてもいい。……そんなこと、君は夢にも思っていないのだろうけれどね」
橙子がそう言ったところで、会場の照明が落ちた。
舞台の上がパッと明るくなり、そちらに観客の注目が集まる。
スポットライトに照らされた司会者と思しき女性が話し出すのを、橙子はじっと見ていた。
その声を遠くに聞きながら、遥はしばらくの間、橙子の横顔から目を離せずにいるのだった。
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