051 けじめ・暴走・伝える日


 中間テストに挟まれた休日一日目、土曜日の夜。


 遥は長めの風呂を終えて、ジャージに着替えた。髪を乾かして一息つくと、一気に疲れが来る。


 今日は一日中、勉強していた。

 幸い都波が暇だったので、雪季と三人で集まってみっちり教わったのである。

 荒い口調に反してやたらとわかりやすいその教え方で、遥は今日一日でかなりの成長を感じていた。

 が、疲れた。

 普段あまり使っていない頭を一気に酷使したので、疲労感が半端ではない。

 おまけに、都波はスパルタだった。


「ふぃー……」


 よろよろと歩きながら、リビングに戻る。

 見ると、先に風呂を終えていた雪季が、パジャマ姿でベッドを占領していた。

 遥に気づき、ひょこっとこちらを見る。


「……おかえり」

「ただいまぁ」


 遥は立ったまま、部屋の中を見渡した。

 ベッドには雪季がいるし、ほかに柔らかいところはないだろうか。

 クッションは。


「……あ」

「ん」


 よく見ると、寝そべっている雪季が、身体の下にクッションを挟んでいた。

 これでは、楽に座れるところがない。


「……雪季、クッション返せよ」

「やだ」

「なんでだよ……」

「ん、きて」


 雪季はそんなことを言うと、上体を起こして両腕を広げた。

 まるで抱きしめられるのを待っているようだ。


「行かないよ……」

「……お願い」


 言いながら、雪季はグッと伸びをして余計に腕を広げる。

 甘えたような声と表情に、遥は心を惑わされそうになるのを感じた。


「だ、ダメだって……」

「ん……なんで」

「だからおかしいだろ!」


 久しぶりのこのやり取りに、遥は今日も肩を竦めた。


 二日前の、キス事件。

 遥は心の中であの出来事をそう呼んでいるのだが、あれ以来、雪季は不思議と大人しくなり、遥に迫って来ることも少なくなった。

 なんて、そんなことは全くなかった。

 それどころか、以前よりも明らかに、例の「好き好きオーラ」がパワーアップしている。

 実は、昨日も強引に布団に潜り込まれ、結局同じ布団で寝てしまったのだ。

 相変わらず雪季の押しに滅法弱い自分を、遥は心から呪った。


「……くっつきたい」

「うぐっ……! だ、ダメだ! 付き合ってもないのに!」

「……ちょっとだけ。ね?」

「……ぐっ……」


(やばい……可愛すぎる……)


 雪季の方に手を伸ばしそうになって、遥は慌ててぶんぶんと首を振った。

 ペチペチと頬を叩き、正気を呼び戻す。


 本当に、今日はダメだ。

 いい加減にきちんとけじめをつけなければ、このままズルズルと崩されてしまう。

 渉のおかげで前進の兆しが見えたとは言え、まだ何もきちんと決められてはいないのに。


「ダメ! さぁ、クッション返せ!」

「……やだ」

「くそぅ……」


 遥は諦めて、一度キッチンへ引っ込んだ。

 冷えたお茶を飲んで頭をスッキリさせる。


 ふぅ、と息を吐くと、脳裏に雪季の顔が浮かんだ。

 それに釣られるように、あの時のキスの感触が思い起こされる。

 遥は顔が火照るのを感じて、もう一度麦茶を飲んだ。


 今日だけは、本当にしっかりしなくては。


「……よし」


 気合いを入れ直して、再びリビングに戻る。

 今度こそ気丈に、雪季からベッドを奪還する。

 それが無理でも、せめてクッションだけでも取り返そう。

 絶対に、雪季の可愛さには屈しない。


「雪季!」

「ん、なに?」

「俺だって疲れてるんだから、ベッド空けてくれ!」

「……いいよ」


 雪季はあっさりそう答えた。

 なんだ、自分もやればできるじゃないか。

 それに、なんだかんだ言ってもやっぱり、雪季はいい子だ。

 張り切って損した。


 だが、そんなことを思ったのもつかの間、雪季は少しだけ横にずれてベッドのスペースを空けると、遥に向かって手招きしてきた。


「ん、どうぞ」

「い、いや……そうじゃなくて」

「? 空いてる」

「……そ、それじゃあくっついちゃうだろ!」

「ん、一石二鳥」

「わぁぁあ! もう違うんだって!」


 遥は嘆きの声を上げながら頭を抱えた。

 ダメだ、勝ちの目が見えない。

 というか、雪季は戦おうとさえしていないのではないか。

 初めから、勝負になっていないのでは。


「遥」

「えっ? うわっ!」


 強い無力感に意識を奪われていると、遥は突然雪季に腕を強く引っ張られた。

 そのままベッドに倒れ、雪季の顔が近くに来る。

 赤くて薄い唇が視界に映り、遥はまたあのことを思い出してしまった。


 この唇の柔らかさも、熱も、遥は知っている。

 思い出すことができてしまう。

 そう思うと、顔が熱くなって仕方なかった。


「こ、こら雪季! やめろって!」

「ん、やっとくっつける」

「くっついたらダメなんだってば!」


 必死の抵抗も虚しく、遥は伸びてくる雪季の腕にあっさり捕まってしまった。

 不覚だ。

 雪季と抱き合う形になりながら、遥は自分自身に呆れた。

 結局こうして、いつもと同じ展開になってしまう。


 これは自分が悪いのだろうか。

 いや、相手が雪季ならば、誰でもこうなるはずだ。

 断じて自分が情けないわけではない。

 遥は心の中で、誰にともなく言い訳していた。


「遥ぁ」

「お、おい雪季……」

「……くっつくの、嫌い?」

「うぐっ……き、嫌いとかじゃなくてなぁ……」

「ん。じゃあ、好き?」

「だ、だからそういうことじゃなくて……」


 こういう時、きっぱりと「嫌い」と言えればいいのに。

 遥は冷徹になりきれない自分を恨んだ。


「……遥」

「……な、なんだよ?」


 一つの枕に一緒に頭を預けながら、雪季は遥の名前を呼んだ。

 さっきまでの甘えた目とは違う、潤んだような瞳だった。

 突然、どうしたのだろうか。


「……ん、キスしたい」

「するか!! バカ!!」

「したい。ねぇ、遥」

「ぜっっったい! ダメ!!」

「……いじわる」


 拗ねたように口を尖らせる雪季を見て、遥はわしゃわしゃと頭を掻いた。


(これはもう、ホントにやばいんじゃなかろうか……)


 明らかに、雪季は暴走している。

 十中八九、あの事件でストッパーが外れているのだろう。

 一体、どうすればいいのか。

 このままでは、なにか非常にまずいことが起こりそうな気がする。

 具体的に何がとは、口が裂けても言えないけれど。


「ん。じゃあ、今日も一緒に寝よ?」

「ダメ。もう全部ダメだ。いい加減にしないと怒るぞ?」

「……さみしい」

「さみしくない! すぐ近くにいるだろ?」

「……くっついてないとやだ」

「ダーメ!」


 なんとか、きっぱり拒絶する。

 恐る恐る様子を窺うと、雪季は今にも泣き出しそうな顔で俯いていた。

 決意が揺らぎそうになるのを必死に押さえ、遥は黙っていた。

 これでいい。

 こうしなければいけない。

 きちんと結論を出せていないのに、不誠実なことはできない。


 遥は深く、ふうっと息を吐いた。胸に手を当てて、鼓動を落ち着ける。


 決めていることがあった。

 雪季に言いたいこと。

 言わなければならないことが。

 そして今日は、それを伝える日だ。


「雪季」

「……ん?」


 普段とは違う遥の雰囲気に、雪季も気づいたようだった。

 そわそわした様子で目を見開き、じっと遥の方を見つめてくる。


 緊張する。

 身体が強張る。

 口の中が乾く。

 怖気付いて、言うのをやめたくなる。


 けれど、言わなければ。

 きちんと自分の口から、伝えなければ。


 自分でそうすると。

 そうしたいんだと。


「今度、デートしよう」


 散々悩んで、決めたのだから。

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