046 覚悟・まっすぐ・背伸びして
「……」
「……」
「……あ、絢音」
「えっ! な、なに!」
「あ、いや、ここがわかんなくて……」
「ああっ! ど、どこ!?」
「こ、ここ! 問4!」
「え! えぇと、それは……」
お互いにあたふたと慌てながら、絢音は遥に英語の問題を解説した。
こんなやりとりを、もう何度も繰り返している。
「あ、なるほど……ありがとう」
「う、うん……いいよ」
遥が泣き止んだ後、絢音は黙々と勉強を進めた。
明日のテストが、というのはもちろんだが、何よりも、言葉を交わすのが恥ずかしかったのである。
遥の方も、時折その気まずさを誤魔化すように勉強の質問をしてくるくらいで、およそ雑談と言えるようなものはほとんどなかった。
遥を抱きしめてしまった。
しかも自分の方から、不意を突くかたちで。
だって、仕方がない。
絢音は心の中で自分に言い聞かせる。
遥が気の毒で、愛しくて、もうどうしようもなくなって、気づいたらああなっていた。
それに遥も拒んだりせず、身を任せてくれた。
思い起こすと、きゅうっと胸が苦しくなる。
遥の息遣いも鼓動も、体温も匂いも、全てが鮮明に思い出せる。
「……ふぅ」
絢音は自分の胸に手を当てて、一つ小さく息を吐いた。
心臓が不規則に暴れる。
無理もないが、いい加減落ち着かなければならない。
「……あっ」
突然の遥の声に、絢音はピクンと身体を弾ませた。
今度はなんだ、一体。
「な、なによ!」
「やば……雪季からの連絡、見てなかった。もう帰ってくるって」
「あ、そ、そう」
「うわぁ、せっかく買い物寄るって言ってくれてたのに……」
遥はそう言うと、急いで雪季にメッセージを返信し始めた。
どうやら反応を返せなかったことを謝っているらしい。
それにしても、そうか。
もう、遥と二人の時間は終わってしまうのか。
絢音は名残惜しさを感じて溜め息をつく。
もったいない。
まだ、このままでいたかった。
「……あのさ、絢音」
「な……なに?」
「き、今日は……ありがとな。勉強と……うん、まぁ、いろいろ」
「えっ、う、うん……」
遥があんまり照れた様子で言うので、絢音もますます恥ずかしくなってしまった。
いろいろ、というのは、本当にいろいろなのだろう。
具体的に口に出すには、あの出来事はまだ新鮮すぎる。
そう思っているのは、どうやら自分だけではないらしい。
「元気、出た? 大丈夫そう?」
「……ああ。だいぶん楽になったよ」
遥は本当に清々しそうな顔をしていた。
少しでも救いになれたのなら、幸せだ。
絢音は心の底からそう思っていた。
これからも、自分が遥を救ってあげられたら。
絢音は思う。
遥にはそういう存在が必要だ。
そして、その役目は絶対に、自分が良い。
自分じゃなければ、嫌だ。
「は、遥……!」
「ん?」
覚悟を、決める。
絢音は教科書から完全に目を離して、遥をまっすぐ見つめた。
膝の上に置いた手に、汗を掻いているのがわかる。
肩に力が入って、口の中が乾く。
もともと今日、勉強がひと段落したら伝えようと思っていた。
正確には、伝えられればいいな、と。
だが、これはもう、今しかない。
あんな大胆なことができたのだから、言葉を伝えるくらい、どうってことないはずだ。
むしろ今言えなければ、この先もきっと、言えなくなってしまう。
それは、絶対に嫌だった。
「あ、あのね……」
「お、おう……」
こちらを向いてくれた遥は、複雑な表情をしていた。
不思議そうな、困ったような、驚いたような、そんな顔で絢音を見ている。
少しだけ、遥の身体がのけ反った気がした。
もしかしたら、これから自分が何を言われるのか、もう気づいているのかもしれない。
鈍い遥に対してもそう思ってしまうほど、絢音は今、自分をコントロールできていなかった。
自分がどんな顔をしているのか、どんな声を出しているのか、絢音にはわからない。
わからなくていいから、ただ、伝えたかった。
「私……」
そう口に出した時、玄関の方で小さく『ガチャリ』と音がした。
きっと、雪季が帰ってきたのだろう。
遥が「あっ」と言って立ち上がる。
嫌だったのかもしれない。
逃げる言い訳を見つけて、急いでそれに飛びつこうとしているのかもしれない。
いつもなら、きっと自分はここで怖気付くのだろう。
けれど、そんなのはもう、たくさんだった。
ドアに手を掛けようとする遥の腕を引っ張って、こちらを向かせる。
唖然とした顔。
小さく開いた口。
一滴だけ浮かぶ、額の汗。
大好きな顔。
大好きな人だ。
今目の前にある。
目の前にいる。
思えば、ちゃんとまっすぐ顔を見たのは、久しぶりかもしれない。
いつも、横顔ばかり見ていたから。
「ごめんね。私も、あんたが好き」
思っていたよりも、ずっとあっさり言葉が出た。
固まっている遥の顔を、抱きしめるように両腕で包む。
こんなに背が高かっただろうか。
背伸びをして、上を向いて、やっと唇が届く。
その微妙な距離が、かえって愛おしい。
遥は怒るだろうか。
けれどそれも悪くない。
怒ったら、ごめんね、なんて言って誤魔化そう。
雪季はもう、したのだろうか。
まさか、していないだろうな。
やった、自分が一番最初だ。
だけど、好きになったのだって自分が一番早いんだから、それくらい、いいじゃないか。
「ずっとずっと、好きよ。遥」
目を閉じて、うんと背を伸ばして、唇を重ねる。
誰かが部屋に入ってくる気配がする。
けれどそんなものは、もうどうでもよかった。
遥の匂いがする。
五感が、全て一箇所に集まる。
この上なく興奮して、この上なく幸せだった。
遥もそうだといいのに。
いや、贅沢は言えない。
けれどせめて、今だけは自分だけを感じて欲しい。
自分だけを、見て欲しい。
溺れるような息苦しさと充足感に包まれながら、絢音は思う。
ごめんね、遥。
結局、私もこうなってしまって。
それから、ごめんね、雪季。
でも、あんた。
勝負する、って言ったでしょ。
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