045 怖い・どうして・止まらない
「……な、なんだよ、突然」
「ごめん……でも、気になって」
「……怖いよ。信じて裏切られるのが、俺は怖い」
それが、今のありのままの答えだった。
人を信じれば信じるほど、裏切られた時の悲しみは大きくなる。
前に父親に言われたことがあった。
「お前の母さんを好きだった時間は、俺の人生で一番幸せだった」と。
たしかにそうなのかもしれない。
だがそれでも、最後にあんな酷い裏切りが待っているのなら、その幸せはかえって毒だ。
遥には、そう思えて仕方なかった。
「……そっか」
「うん」
「……このままでいいの?」
「……」
今度は、すぐに答えることができなかった。
遥はあの日のことを思い出す。
あの日、雪季は自分を抱きしめながら、「待つ」と言った。
そして遥は「頑張る」と。
その時に、遥は思ったのだ。
ああ、自分はやっぱり、それを克服したいんだと。
恋愛恐怖症を払拭したがっているんだ、と。
ならばなぜ、自分は今、答えに窮するのか。
その理由が、遥にはわかっていた。
「……絢音」
「……なに?」
「恋愛恐怖症を治すには、じゃあ、どうすればいいと思う?」
「そ、それは……」
「……きっと、方法は一つしかないんだよ」
「えっ……」
「恋愛恐怖症を治すには、恋をするしかない。恋をして、誰かと付き合って、人を好きになる幸せを知って、人に愛される喜びを知って。そうしていつか別れることになっても、ああ、よかったなあって、そう感じられる。そんな恋愛を、繰り返していくしかないんだ」
「……うん」
「でも、俺にはもう、その治療法自体が怖い」
そう言い切ったとき、遥には自分の身体から、ふっと力が抜けていくのがわかった。
自分の恋愛恐怖症が、もう治らないかもしれないと、改めてそう感じてしまったのだろう。
「俺はきっと、恐怖症を治したい。治ればどれほど良いだろうって思う。でも、その途中でまたあんなことがあったら、いよいよ俺はもう、立ち直れなくなる。それは絶対に嫌だ。わがままだってわかってる。でも、無理なんだ。情けない奴だって思うかもしれないけど、それほど怖いんだ。だからもう、どうすればいいのかわからないんだよ、俺には」
遥の言葉にも、絢音は何も言わなかった。
ただ下を向いて、静かに拳を握っている。
ダメだ、今さらわかりきったことで、暗くなってしまっている。
こんなことは、母親に裏切られた日から、ずっと考えてきたことだ。
なによりこんな話を聞かせては、絢音にも申し訳ない。
遥は自虐混じりに軽く首を振り、ふぅっと息を吐いた。
今は勉強に集中しよう。
考えてもキリがないなら、それはテストの後で、一人でやればいいことだ。
「ごめんな絢音。こんな話、聞いたってなにも」
「遥」
突然腕を引っ張られて、遥は前に倒れるように体勢を崩した。
部屋の中は静かだった。
時計の音も今は聞こえない。
その無音の中で、遥はただ驚いていた。
驚きすぎて、何が起きているのかすぐには分からない。
だが、深く息を吐き出す絢音のかすかな声と、後頭部に当てられた手のひらの熱が、遥に教えていた。
今、自分が絢音に抱きしめられていることを。
「あ……絢音?」
絢音は何も言わない。
ゆっくりと頭を撫でながら、ずっと遥を抱きしめていた。
どうして絢音は、自分を抱きしめるのだろう。
そう思いながらも、遥は絢音に身体を委ねていた。
雪季の甘えたハグや、橙子の縋るようなそれとも、どちらとも違う、優しい、包み込むような抱擁だった。
だらんとしていた両手を持ち上げて、絢音の背中に回してみる。
絢音の身体が小さく跳ねて、鼓動が早まるのがわかった。
絢音の胸と自分の顔がますますくっついて、遥は息が苦しくなる。
どうして、涙が出るのだろう。
わからない。
見当もつかない。
なのに遥は、その涙を止めたくなくて、絢音の胸に顔を埋めていた。
ずっと一人暮らしだった。
母親はいなくなった。
父親は自分を愛してくれてはいても、側にはいてくれなかった。
仕方ないということも、父親が自分を心配してくれていることも、遥にはわかっていた。
そこに雪季が現れた。
雪季は自分を好きだと言ってくれた。
深入りして傷つくのも、傷つけるのも嫌で、遥は雪季を受け入れられずにいる。
だから。
「よしよし」
だから、こんなふうに抱きしめられるのは久しぶりだった。
そうして欲しいと思ったことだって、ずっとなかった。
なのに、涙は止まらない。
溜め込んでいたものが流れ出ていく。
全部自分に吐き出して良い。
絢音がそう言ってくれているような、そんな気がした。
「つらかったね。今もつらいんだもんね。頑張ったよ、遥」
遥は小さく声を上げて泣いた。
細くて華奢な絢音の身体を掻き抱いて、惜しむことなく泣いた。
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