039 返事・特別・今のまま


「と、橙子さん……? 今、なんて……」


 そう尋ねながらも、遥にはしっかりとその言葉が聞こえていた。

 ただ、信じられなかった。

 遥にとって橙子は、そんなことを言う人間ではなかったのだ。

 橙子は、ただ。


「君のことが好きだと、そう言ったよ」

「……あ、あの……でも」

「でも、じゃない。君は本当に、デリカシーがないね」


 橙子はそう言って、再び遥の胸に顔を埋めて抱きしめた。

 遥も反射的に、橙子の背中に腕を回してしまう。

 橙子の身体がピクッと、跳ねたような気がした。


「……分かっているよ、迷惑だってことは。だけど、言わずにはいられなかったんだ。だって、私はこんなにも君が好きなんだ。それなのに、私よりも先に君に好きだと伝えた女がいるなんて、許せないじゃないか」

「……橙子さん」

「君は鈍いから、きっと私の気持ちにも気付いてはいなかったんだろう? けれど、それはもういい。私は君が好きだ。恋人になってほしいし、いつまでも一緒にいたい。君の事情を知ってしまっても、この気持ちに嘘はつけないよ」


 橙子はただ、自分にとって一番尊敬できて、一番信頼している先輩だった。

 もちろん大好きだが、その気持ちは恋愛感情とはきっと違う。

 そして、それは橙子の方も同じだろうと、遥は思っていた。


「橙子さん……ごめんなさい、俺……全然気付かなくて……」

「いいと言っているだろう。それよりも私は今、君の返事が怖くて仕方ないんだ」


 だが、考えてみれば当たり前のことだった。

 相手が本当は何を考えているかなんて、分かるわけがない。

 わからないから、遥と遥の父親は母に騙されてしまったのだ。

 雪季がなぜ自分を好きになったのかということだって、遥にはわからない。

 言われて初めて、何かが起こってから初めて、遥はいつもそれを思い知る。

 今回だって、例外なくそうだった。


「あ、そっか……返事……」


 遥の声に、橙子はまた肩をピクッと跳ねさせた。

 声は落ち着いているが、身体が微かに震えている。

 息もわずかに荒い。

 こんな橙子を見るのは初めてだった。


「あの……橙子さん、俺」

「……うん」

「……橙子さんのことは、好きです。きっと、特別に感じてる」

「……うん」

「だけど、やっぱりこれは恋じゃなくて、親愛というか、尊敬や憧れみたいなものなんだと思います……。と言うより、俺にはやっぱり、まだ人を好きにはなれない……」

「……そうか」

「……もう、恋愛には関わらないで生きよう、そう思ってたから、こうして好きだって言われても、気持ちが追いついてこないんです。それは、相手が誰だって変わらないと思うから」


 それが、遥の素直な気持ちだった。

 雪季には話していない、正直な今の気持ち。

 それは相手が橙子だから言えることで、彼女なら理解も納得もしてくれると、遥は信じていた。


「……つまり、君の答えは?」

「……今は、その……橙子さんと恋人にはなれません」

「……うん」


 遥に抱きついたままだった橙子の脚が、力が抜けたようにふらついた。

 遥は慌てて橙子を支え、緩やかに引き寄せた。

 抱きつかれていた形が抱きしめるようなそれに変わって、遥は心臓が跳ねるのを感じた。


「……きっと君は、水尾さんに対しても同じようなことを思っているんだろうね」

「……はい」

「それで、水尾さんは言ったんだね。待つ、と」

「はい」

「そうか……」


 遥の背中に回された橙子の手が、ギュッと遥のシャツを掴むのがわかった。

 橙子は深く息を吸い、ゆっくりと吐く。


「……だったら、私は待たないよ」

「……えっ」

「……私は、今のままの君でいい。恋愛が怖くて、誰とも親密になりきれない君のままでいいから」

「……橙子さん」

「だから……だから、私をそばに置いてはくれないか」


 橙子は嗚咽していた。

 遥の胸に顔を埋めて、震える肩を必死に押さえ込みながら、縋り付くように泣いていた。

 遥はそんな橙子を抱きしめることしかできず、二人は夜空の下でずっと佇んでいた。


「……す、すまない、遥。今日はさすがの私も少し、ダメそうだ」

「いやぁ……俺が言うのは違うかもしれないんですけど、俺でよければ……しばらくこのままで」

「……ふっ。君は……残酷な男だね」

「だって……橙子さんが悲しんでるなら、助けないと」

「ふふ……そうか。じゃあ、今だけは遠慮なく、こうしていようかな」


 幸い、夜道を通りかかる人は誰もいなかった。

 遥は橙子の背中をゆっくり撫でながら、ぼんやりと考える。


 今のままで。

 恋愛が怖い今の自分のままでも、橙子は一緒にいて欲しいと言った。

 恋愛恐怖症が治るまで待つ、と言ってくれた雪季と、似ているようで違うその言葉。

 それを噛み締めてみて初めて、遥はわかったような気がした。

 今、自分の腕に中にいる女性は、いや、女の子は、本当に自分のことを愛しているんだと。


 橙子の体温と鼓動を感じながら、遥は静かに目を閉じた。

 一瞬、真っ暗な視界に雪季の顔が浮かんだ気がする。


 無表情な雪季が、やがてうっすら微笑む。

 小さく口を開けて、自分の名前を呼ぶのが聞こえる。


 遥。


 甘えるように呼ぶ。


 遥。


 すっかり聞き慣れてしまったあの声で、呼ぶ。


「……遥?」

「えっ……」


 目を開けると、制服姿の雪季が立っていた。


 夜空に溶けるような黒い髪の奥で、雪季の丸い瞳が揺れる。


「ゆ……雪季……?」


 言い終わる前に、雪季は勢いよく後ろを向いて走り去っていた。

 遠ざかる背中をとっさに呼び止めることもできず、遥はその場に固まってしまった。


 なぜ、雪季がここにいるのだろう。

 そんな疑問すら、今の遥の頭には浮かんでこなかった。

 ただ、去り際の雪季の歪んだ顔だけが、目に焼き付いて離れずにいるのだった。

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