038 本音・ちぐはぐ・その時は

「恋愛恐怖症!?」


 勉強後の帰りの夜道で、遥は橙子に自分の体質について、初めて詳しく話した。

 母親に裏切られたこと、両親が離婚したこと、それから恋愛が怖くなったこと。


 橙子は遥の話を、ずっと真剣な面持ちで聞いていた。

 時折悲痛そうに目を細めながらも、黙って、聴いてくれた。

 遥は橙子のそういうところが好きで、だからこそ話そうと思ったのだ。


「まあ、分かってるんですけどね、このままじゃいけないってことは……」

「き、君は……そんな悲しみを抱えていたのか。そうとは知らず、私は……」

「いやぁ、いいんですよ。悲しいのは、もう忘れちゃいましたから。でも、やっぱりまだ、恋愛はしたくなくて」

「……そう、か」


 橙子は不思議な表情をしていた。

 こちらに同情しているようにも、自分自身が悲しんでいるようにも見える、複雑な顔だった。


「……しかし、今の話は厳密に言えば、相談、ではないだろう。いったい、何を悩んでいるんだ、君は」

「あ、そうですね。悩んでるのは、雪季のことで……」

「……ふむ」

「……やっぱり、雪季は俺のことが、好きみたいなんです」

「お、おう……」

「俺なんかを好いてくれてるのは嬉しいんです。でも、きっと雪季は恋愛、したいんだろうし……」


 遥は遥なりに、自分と雪季の関係について考えていた。

 勉強が捗らない理由の半分は、そこにあると言ってもよかった。


 雪季は「待つ」と言ってくれた。

 そして自分は「頑張る」と。

 だが、この心の傷が本当に治るのかどうか、遥は確信を持てずにいた。

 それほどこの気持ちは、遥にとって当たり前で絶対的なものだった。


「気持ちに応えられるかどうか分からないのに、待たせてていいのかな、って。だけど、雪季との今の関係だって、俺は壊れて欲しくなくて……」


 それは、以前橙子にも話していたことだった。

 雪季との同居生活は楽しい。

 できることなら、ずっとこのままの生活が続いてくれれば良いとも思う。


 だが、雪季は変化を望んでいた。

 今の関係を続けることよりも、近づくか離れるか、そうなることを選んだのだ。

 それは凄いことだと、そして素敵なことだと、たしかに遥も思う。

 たまたま相手が自分だから、こうなってしまっているだけだ。

 本来なら、雪季のように強い女の子は、報われるべきなのだ。


 自分と雪季の、ちぐはぐな関係。

 それが遥の悩みだった。


「完全に俺が、悪いんですけどね。俺さえまともなら、こんなことにはなってないから……」


 声に自虐が混じる。

 きっと橙子も、内心では自分に呆れているだろう。遥はそう思っていた。


「遥」


 だが、小さくそう呼びかけた橙子は、意を決したような目をしていた。


「君は……その、水尾さんのことが、好き、なのか……?」

「えっ! ……う、うーん……」

「……私には、君のその恋愛恐怖症が具体的にどういうものなのか、それはわからない。けれど、恋愛が怖いことと、人を好きにならないことは、別なんじゃないかな……?」

「……はい、そうですね」

「……ならば、君はまず考えるべきだよ。自分が、相手のことを好きなのか、どうか。交際するとかしないとか、そういうことを抜きにして、ね」


 そう言うと、橙子は一歩だけ前に出て、遥に背中を見せた。

 少しだけ遅れて、遥はそれを追いかける。


「……俺は」

「……うん」

「……どうなんでしょう。正直、分かりません」

「そ……そうか」

「考えたことないってのもありますし、ずっと、そういうこととは無縁だったから……」

「うん……」


 それが、遥の本音だった。

 たしかに雪季は可愛い。

 一緒にいるとドキドキするし、触れられるとまだ緊張する。

 お互いを信頼できているとも思うし、精神的支柱になっているとも感じる。

 自分を好いてくれていることも、嬉しくないと言えばそれは大きな嘘になる。


 だが、それでも遥には、本当にわからなかった。

 これが好きということなのか、それとも違うのか。

 なぜなら、遥にとってそれは、ずっと意味のない、考える必要のないことだったのだから。


「君の相談に返す私の意見は、それだよ。君が水尾さんのことが好きで、恐怖症を治して付き合いたいなら、そういう努力をするといい。彼女が好きでも付き合いたくはないなら、それを伝えるしかない。そして、彼女を好きでもないのなら」


 遥は橙子の言葉を聞きながら、ずっと空を見上げていた。

 街の夜空には星は暗く、少ししか見つからない。

 一際輝く月の方に、自然と遥の視線は吸い寄せられていた。


 だから。


「その時は」


 橙子がこちらを振り返ったことにも、彼女が泣いていることにも、遥は気がつかなかった。


「えっ」


 遥は橙子に、抱きしめられていた。


「……その時は、私とのことも考えてはくれないだろうか」


 全身が膠着し、思考が止まる。

 風の音と、どちらのものともつかない吐息と心臓の音だけが鼓膜を揺らしていた。


 橙子のアッシュグレーの髪が、夜風に流れて遥の頬に触れる。

 腕の中にある橙子の身体は、普段想像していたよりもずっと華奢で、ずっと柔らかかった。


 小さく震える橙子の肩に気づいて、遥はハッと我に帰った。


「と、橙子……さん?」

「……ごめんね、遥」

「えっ……」

「さっきの話を聞いたのに、あんな悩みを打ち明けられたのに、この女は何を言っているんだって、きっと君はそう思うだろう。けれど、許して欲しい。君の相談に、私は自分を押し殺して答えた。それが君の望みだったから、泣きそうになるのを堪えて、ちゃんと答えたんだ」

「……あ、あの……」

「だから遥、よりによって今、こんなことを言う酷い私を許してくれ」


 抱きしめたまま顔だけを放して、橙子は遥の顔を真っ直ぐに見ていた。


 頼れる先輩、聡明な美人、大好きなお姉さん。

 そのイメージのどれもが、今の橙子とはどうしても重ならなかった。


 瞳から溢れた雫を口元に溜めながら、濡れた声で橙子は言った。


「私も、君が好きなんだ」

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