037 対峙・相談・じれったい

「……水尾雪季、さんだね」

「……ん。橙子さん」


 橙子が放った眼光を、雪季は猫のような丸い瞳で真っ向から受け止めた。

 怯む様子も、引き下がるつもりもなさそうだ。


(なるほど、私と張り合おうとは、なかなか度胸があるらしい……)


 さすがはあの夜、自分の一大決心を邪魔してくれただけのことはある。

 橙子は小さく息を吐いてから、視線を雪季から外した。

 せっかく今は遥がいるのだ。

 追い払ったりはできない以上、雪季のことは捨て置くしかない。


「遥、君はあまり勉強が得意ではなかったろう。今回のテストは大丈夫なのか?」

「う、うーん……あんまり大丈夫じゃないかも、です」

「……ふむ」

「だから、学校のスキマ時間にも勉強しようと思って。とりあえず暗記科目だけでも」

「なるほど。まあ、即席で点数を上げるなら、その方が賢明だろうね。ただ、主要三科目はそうはいかない。早めに克服しておいた方が良いと思うけれどね」

「そ、それはそうなんですけど……」


 遥の話によれば、どうやら英数国はもう、ずいぶん前から置いてけぼりを食らっているらしかった。

 しかもバイトで勉強時間も取れず、友人と生活サイクルも違うので教わるのも一苦労だ、と。


「なるほど。それは、たしかに困ったね」

「はい……。まあ、なんとか赤点だけは取らないようにします……」


 遥はそう言って、ガックリと肩を落とした。

 橙子の喉元まで、言葉が出かかる。

 「私が教えてやろう」と。

 しかしどういうわけか、橙子はそのセリフを言うことができなかった。

 遥の後ろにいる少女、水尾雪季。

 彼女から感じるプレッシャーと、自分よりも遥と親密かもしれない雪季の存在自体が、橙子の心を弱らせていた。


「……遥、図書室は」


 そう言いながら、雪季はぴとっと遥の腕にくっついた。

 あまりに自然なその動きに、橙子はますます焦りと嫉妬心を感じ、半歩後ずさってしまった。

 やはり、同居というのは恐ろしいアドバンテージだ。

 あの夜、雪季は遥に抱きついてもいた。

 その時も今も、遥は雪季を受け入れ、怒ろうともしなかった。

 きっともう、それが染みついているのだろう。

 あるいは、すでにこの二人は……。


「せっかく橙子さんに会えたんだし、もう少し話していくよ。雪季はどうする?」

「……ん、待ってる」

「は、遥……」


 穏やかな笑顔でこちらを見る遥。

 その顔と言葉が愛しくてたまらない。


 そうだ、何を今さら怖気付いている。

 遥と自分は、一年で培われた強い信頼で結ばれている。

 それは突然現れた女に敗れるような、やわなものではないはずだ。


「遥」

「あ、はい」

「私が勉強を教えよう。君と私なら似たような時間に身体が空くだろうし、何より、勉強は私の得意分野だ」

「えっ! ホントですか! お願いします! 橙子さんがいれば心強過ぎます!」


 興奮したような様子で喜ぶ遥。

 案の定、隣の雪季はムッとしていたが、自分には関係ない。

 早速遥と予定を擦り合わせ、会う時間を決めていく。


(見ていろ、私が遥のものであるように、遥は私のものだ。誰にも渡してたまるものか)


 橙子は決意を胸に、未だ不機嫌そうに口元を歪めている雪季を睨んだ。



   ◆ ◆ ◆



 第一回『橙子さん塾』はその日のバイトの後に開催された。

 社員たちが閉店作業をしている21時から22時までの1時間、休憩室を借りることにしたのである。

 ちなみに、『橙子さん塾』というのは遥の命名だ。


「よろしくお願いします」

「厳しくいくからね。頑張って」


 テーブルに二人並んで座った。

 遥が教科書とノート、ペンケースを広げる。


「ところで、橙子さんはテストの勉強、大丈夫なんですか?」

「定期考査など、普段から勉強していればただの復習だよ。問題ない。それに、そもそも点数や順位も重視していないしね」

「はえ~、さすが橙子さん」

「さ、あまり時間がない。始めようか」

「はーい」


 今日は特にマズいらしい数学を重点的に教えることになっている。

 遥は教科書のテスト範囲を開き、練習問題を解き始めた。


「待て、遥」

「は、はい」

「いきなり問題にいくべきではないよ。まずは章の冒頭の文章を読むんだ」

「え、どうしてですか?」

「教科書を甘く見てはいけない。軽視されがちだが、教科書の各章の解説はかなりわかりやすく書いてある。まずは自分が学ぶものの概要を知り、学習する基盤を作るんだ」

「お、おぉ……なんか凄そうですね」

「まあ、やることは教科書を読むだけだけれどね」


 遥はノートを閉じ、熟読タイムに入った。

 理解できないところがあれば質問するように言って、橙子は遥の様子を眺めることにした。


 少しだけ長い前髪を掻き分け、遥は顎に手を当てている。

 決して整っているわけでもないのに、橙子はその顔を見ると胸が高鳴って仕方ないのだった。

 湿った唇と穏やかな瞳。

 細くも骨張った指。

 そのどれもが橙子を悩ませてやまない。

 橙子は知らず知らずのうちに、ぼんやりと遥を見つめてしまっていた。


「……橙子さん」

「……」

「橙子さん?」

「……あ、ああ! すまない。どうした? どこかわからないところが……」

「あ、いえ……その。なんというか」

「ん……?」

「じ、実は、相談したいことがありまして……」


 そう言った遥は、随分と困っている様子だった。


「む、相談? テストのこと以外で、か?」

「はい……。雪季のこと、なんですけど……」

「なにっ!」


 思わず大きな声が出て、橙子は浮いた腰をゆっくり下ろした。


 それは、是非聞きたい。

 勉強中であることを差し引いても、今すぐ聞きたい。

 いや、待て。

 橙子は自分にそう言い聞かせ、冷静さを保った。

 もしこれが、雪季に恋愛感情を持ってしまった、などのような相談なら、絶対に聞きたくない。


「あ、いや……まあ、雪季のこと、というか、俺自身のこと、というか……」

「……ほ、ほお」

「いや、でもやっぱり、まずは勉強ですよね……。帰り道にまた話します。すみません」


 そんなじれったい、と思ったが、内容次第では勉強を教えるどころではなくなってしまう。

 橙子はひとまず遥に賛同し、勉強に集中することにした。


(やはり、事態は一刻を争う、か……)


 一時間後にやってくるかもしれない正念場へ向けて、橙子は改めて心を強く保つことにした。

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