032 ごめん・くちびる・頑張るよ


『いやぁーほんっとごめん! まさか、雪季ちゃんに話してないなんて思わなくて……』

『まっ、遅かれ早かれ言うことになるんだから、べつにいいだろ』

『たしかにな。むしろ引っ張り過ぎずにすんで良かったかもしれないぞ』

『でも、雪季が平然としてたのがちょっと気になるわね……』

『もし雪季ちゃんとの間になにかあったら、私が全力でサポートするから! ね!』


「……ふぅ」


 今日の勉強会での出来事を思い出し、遥は思わず深く吐息をついた。

 ベッドに倒れるように横になり、真っ白い天井を見上げる。


 結局、勉強会の後半はあまり身が入らなかった。

 秘密がバレたような気まずさと、雪季への後ろめたさのせいで、勉強どころではなかったのである。

 一方で、意外にも雪季は普段通りの様子で、問い詰めてくることもなければ怒ることもなかった。

 勉強会の後にみんなで寄ったファミレスでも、雪季は特に変わったところもなく、普通に食事を楽しんでいた。

 それがますます、遥の不安を煽っていたのではあるが。


「うーん……」


 雪季がシャワーを浴びるかすかな音を聴きながら、遥は目を細めて唸った。


 べつに、隠していたというわけではなかった。

 ただ、わざわざ話すことでもないと思っていたし、そのきっかけもなかったのだ。

 遥にしてみれば、自分からこんな話をするという方が、よっぽど変なような気がした。


 しかし、ではこの罪悪感の正体は一体なんなのだろうか。

 いや、遥には心当たりがあった。


 自分のことを好きだと言って、まっすぐ気持ちを伝えてくれる雪季。

 しかし恋愛恐怖症を打ち明ければ、その気持ちを拒絶することになる。

 そうして今の関係が壊れてしまうことが、遥は怖かったのだ。

 きっと、それが恋愛恐怖症を黙っていた本当の理由なのだろう。

 ただ、正式に交際を求められていたわけではない以上、遥にはどうすることもできなかったというのもまた事実だった。


 とはいえ、やはり煮え切らない。

 遥は悶々と答えの出ない問いに頭を悩ませながら、ただ時が過ぎるのを待っていた。


「……ただいま」


 ぼーっとしていたところに不意に声をかけられ、遥はピクッと肩を跳ねさせ上体を起こした。

 見ると、髪を乾かし終えた雪季が、バスタオルをかぶって洗面所から出てきたところだった。


「あ、あぁ、おかえり」

「……ん」


 雪季は遥の前で立ち止まった。まっすぐこちらを見つめてくる。

 ほんのり赤くなった頬といつもの無表情が不釣り合いで、不思議な色気がある、気がした。


「ど、どうしたんだ……?」


 尋ねても、雪季は返事をしなかった。


「ゆ、雪季……? うわっ!」


 突然、ベッドに座っている遥を、雪季が押し倒してきた。

 咄嗟のことで踏ん張りがきかず、遥はそのまま後ろに倒れ、雪季に股がられている状態になる。


「こ、こら雪季! そういうのはやめろって言ってるだろ……!」


 言いながらも、力ずくで押しのけることもできず、遥は雪季の顔を見上げた。


「お、おい……雪季……?」


 雪季は無言で遥の両手に指を絡ませると、身動きを封じるかのように押さえつけてきた。

 そこで気づく。

 目の前にある雪季の目が、甘えるようないつもの目とは違う、ギラギラした獣のような瞳になっていた。


「……遥」

「ゆ、雪季! 待て! な、なにする気だ!?」


 身の危険を感じ、遥は身体をよじった。が、思ったよりも雪季の力が強く、抜け出せない。

 ゆっくり、それでいて確実に、雪季の顔が近づいてくる。


(な、なんか知らんがヤバい!!)


「お、落ち着け雪季! 話し合おう! なんだ? 何か欲しいものがあるのか? ん?」

「……ん、欲しいものは遥」

「えぇ!? じ、冗談はよせ雪季! この状況は色々マズいって! 雪季!」


 遥の制止も虚しく、雪季はどんどん顔を近づけてくる。

 もう雪季の顔は、文字通り目と鼻の先まで来ていた。


「わ、わかった! 俺が悪かった! 恐怖症のこと黙ってたのは謝るから! だから許してくれぇ!」

「ん、許さない」

「そ、そんな! 雪季、ホントにごめ」


 遥の言葉を遮るようにして、雪季のくちびるが遥の顔に触れた。


 口、ではなく、頬に雪季のくちびるの柔らかさを感じながら、遥は全身を強張らせて固まっていた。


「……ん、ごちそうさま」

「……え、えっと」


 再び顔を離した雪季は、頬を真っ赤に染めてこちらを見ていた。

 目線が自然と雪季の薄いくちびるに吸い寄せられ、遥は心臓が大きく跳ねるのを感じた。


「……ゆ、雪季……。お前……き、キス……」

「ん、お仕置き」

「お、お仕置き……? おわっ!」


 雪季はいつもより力強く、そして勢いよく抱きついてきた。

 仰向けに寝る遥にのしかかるように抱きしめ、頬をくっつけてくる。


「ゆ……雪季……?」

「…………遥」


 耳元で響いた雪季の声には、涙が混じっているように聞こえた。


「……ごめんね」

「な……なんで雪季が謝るんだよ……」

「……遥、好きでそうなったわけじゃない」

「えっ……」


 雪季は小さく肩を震わせていた。


「……言って欲しかったけど、気持ちはわかるから」

「ゆ、雪季……」


 雪季はそれ以上、何も言わなかった。

 気持ちはわかる、と雪季は言った。

 本当なのだろうか。

 そして一体、どこまでのことがわかるのだろうか。

 遥は考える。


 だが、なんとなく遥にも、雪季の気持ちがわかるような気がした。

 それは一緒に暮らした時間のおかげかもしれないし、知らずのうちに雪季を抱きしめ返してしまっているおかげかもしれなかった。


「遥」

「……おう」

「私は遥が好き」

「……おう」

「……待つから。遥が大丈夫になるまで、ずっと待つから」

「……ああ、分かったよ」


 二人はしばらくの間、ずっとそうしていた。

 身体越しに伝わる雪季の鼓動が、遥の心をノックしてくるようだった。

 その小さな音がなぜだか心地良くて、遥は今よりも少しだけ強く、雪季を抱きしめた。


 恋愛恐怖症というのは、何も冗談や酔狂で言っているわけではない。

 あの日、母親に裏切られた日、それが発覚した日。

 遥は心の底から悲しみ、そして怒った。


 人に理解してもらおうとは思わなかった。

 それどころか、誰もこんな気持ちは知らない方が良いと思った。

 これは一生消えない心の傷だと、遥は信じていた。


 だから、「待つ」というその言葉が、遥には嬉しかったのだ。

 交際を求められれば、断らなければいけない。

 しかし、待ってくれるなら。

 雪季がそれで良いと言ってくれるなら。


「……雪季」

「……ん」

「……俺、頑張るよ」


 ゆっくりと、立ち向かってみても良いかもしれない。そう思うのだった。


「……うん」

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