028 美人・ドキドキ・当たり前
「と、いうわけでして……」
「ほ、ほーお……そーか……」
日曜日の夜、バイトの帰り道で、橙子は遥の話を気が遠くなるような思いで聞いた。
自分の、自分だけの想い人であったはずの遥が、あろうことか同年代の女と同居しているという。
明らかに、人生最大の危機だった。
「噂の美少女転入生っていうのも雪季のことで……あの……黙っててすみませんでした……!」
「い、いや……それはまあ、仕方ないと思うが……」
しかもあの日見た限り、その水尾雪季という女は非常に危険な存在だと思われた。
なにせ、かなりの美人だ。
自惚れるわけではないが、橙子は自身の容姿を優れていると思っている。
それがあくまで客観的に、周りの評価も踏まえた結論だ。
しかし、同じく客観的に見て、あの雪季という女は凄まじい美人だった。
そして、遥とやけに親しげだったということも理由の一つだ。
同居しているなら当然かもしれないが、あの日の二人はやたらと親密そうに見えた。
それどころか、雪季は遥に抱きつき、遥はそれを受け入れていた。
「ま、まあ、決して褒められたことではないにしろ、悪いことでもないわけで……」
「それはそうなんですけど……やっぱり、恋人でもない男女が二人で、って橙子さんも引いちゃいます、よね……?」
「ひ、引くというか……その、羨ましいというか……ずるいというか」
「え?」
「い、いや! なんでもない! ただ……」
遥の話では、二人の関係についてはあまり触れられていなかった。
だがあの様子を見るに、少なくとも雪季が遥を好いているということは明らかだった。
そんな状況で、遥と二人きりで暮らしているとは。
橙子は胸が張り裂けそうな思いだった。
焦りと嫉妬心で狂いそうになる。
絶対に、遥を奪われたくなかった。
「は、遥は……その雪季という女のことが……好きなのか?」
「えっ……いやぁ、そういうのじゃないですよ、雪季は」
「そ、そうなのか! な、なんだ。そうか……」
「はい。でも、正直雪季、可愛いから、ドキドキすることはあります」
胸を締め付けられるよう痛みを感じ、橙子は顔を歪めた。
困ったようにはにかむ遥の顔は愛しいが、この顔を自分よりも近くで見ているかもしれない女がいると思うと、黒い感情が湧いてくる。
「自分でもすごく不思議なんですけど……雪季、どうやら俺のこと、まあ、好きになっちゃったみたいで……」
「お、おう……」
「い、いや! 雪季が自分で言ってたってだけで、やっぱり信じられないというか……」
「ふ、ふむ……」
「……どうすればいいんでしょう、俺」
そう尋ねる遥は本当に困っているという顔をしていた。
自分は果たして、なんと答えるべきなのだろう。
今の状況は、橙子にとっては全くの想定外で、計画的な人生を送る彼女にとってそれは非常に困難な問題だった。
当然ながら、遥と雪季が男女の仲になるのは全力で阻止しなければならない。
本来そこは自分の居場所になるはずだったのだ。
だが、あんな女はやめておけ、などと真っ向から言うことはできない。
それは橙子という人間のやることではない。
それにもしそう言えたとしても、なぜ、と問われれば答えに窮してしまう。
そうなれば、自分の想いを伝えざるを得ない。
だが今の橙子には、すっかりその度胸と自信がなくなってしまっていた。
「そ、そうだな……遥があの女のことを好きではない以上、正直にそう伝えるしかないだろう。気持ちに答えるつもりがないなら、拒絶してやるのが相手のためでもある」
だから橙子は、そんな風に答えることしかできなかった。
「……やっぱり、橙子さんもそう思いますよね」
「ん?」
そう言った遥の顔は、酷く悲しみに満ちているように見えた。
なぜ、彼はこんな顔をするのだろう。
聡明な橙子にも、それは分からなかった。
「だけど俺、好きなんです、雪季のこと」
「なっ!」
「あぁ、いえ。違うんです。一緒に住むようになって、仲良くなれて、雪季のいいところがたくさん見えて。今では俺、同居を楽しんでます。一人だった頃よりずっと楽しいんです。だから本当はけっこう、今の生活には満足してて……」
「あ、あぁ。そういうことか……」
「……だけど、もし雪季の気持ちを拒否したら、それも終わってしまうんじゃないかって」
「……なるほど」
「俺、それは嫌なんです。雪季は好きだし、同居も楽しい。でも、雪季の気持ちには答えられない……」
遥の表情は真剣だった。
悔しいが、その声からは雪季への思いやりや愛情も伝わってきた。
(だが、なぜだ……?)
なぜ、遥はこんなにも頑なに、雪季の気持ちに答えようとしないのだろう。
もちろんそれは橙子にとっては都合が良いが、仮に自分が遥のことを好いていなければ、「ならさっさと付き合ってしまえ!」と言っているに違いなかった。
どうにも腑に落ちない。
「あ、すみません! 橙子さんにこんな話……。ウジウジしたのが嫌いですもんね、橙子さんは」
「い、いや……そんなことは」
「あー、もう、悩むのはやめにします。俺、バカだから、多分悩んでも分からないし」
遥は打って変わって清々しい顔をしていた。
たしかに遥はあまり利口なタイプではないし、要領も良くないが、切り替えは早い。
辛い出来事や失敗を引きずらない。
だからバイトでも成長し、今では立派に働いているのだ。
「だけど、もし本当に困ったら、その時は橙子さんを頼ります。いいですか?」
「お、おう! 当たり前だろう! 私は君の先輩だからね!」
「あはは、ありがとうございます」
頼られたことは嬉しい。
信頼関係を実感できて幸せだ。
しかし橙子の心は穏やかではなかった。
人の気持ちも、人と人との関係も、あっさり変わるものだ。
それが橙子には良くわかっている。
いつ遥が雪季を受け入れてもおかしくはない。
計画を練らなければならない。
こと恋愛に関して、橙子がここまで気合を入れるのは初めてのことだった。
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