027 キケン・一緒に・私だけ

「雪季」

「……」

「雪季、無視するなよ」

「……ん」


 遥と雪季は、夜道を二人で歩いていた。

 あの一件の後、呆然と立ち尽くして動かない橙子に何度も頭を下げ、遥たちは橙子と別れた。

 申し訳なくはあったが、あれ以上雪季と橙子を同じ場所に置いてはいけないという気持ちが勝ったのである。


「雪季、なんでこんな時間にここにいるんだ? 先に帰ってたんじゃないのか?」


 雪季はなぜか、学生服にカバン姿だった。

 本来ならこの時間、家で待っているはずなのだが。


「ん、買い物してた」

「買い物?」


 尋ねると、雪季はカバンから一冊の本を取り出した。


「これは……レシピ本か?」

「ん。料理、修行する」

「おお。なんとまさか」

「遥はバイト、私は料理。頑張る」

「……そうか。ありがとな」

「ううん。私の方が、ありがとう」


 相変わらず、雪季は意外と努力家だ。

 それに、遥のことを思いやって行動してくれる。

 突飛な言動も目立つが、遥はどうしても雪季を愛しく思ってしまうのだった。

 もちろん、恋愛的な意味は無しにして。


「って、違う。それはいいとしても、なんで急に現れたんだよ。場所だって分からないはずだろ?」

「ん、女の勘」

「またそれか……」

「危なかった」

「何が危なかったのやら……」


 雪季はさっきも同じことを言っていた。

 橙子と自分の前に突然現れ、あろうことか橙子の前で抱きついてきた。

 おかげで橙子の様子はおかしくなってしまい、今に至る。

 しかも、雪季は橙子に同居していることを明かしてしまったのだ。

 なんということだろう。


「バレちゃったじゃないか、橙子さんに……」

「ん、牽制」

「ケンセイ?」

「遥は気にしなくていい」


 なんとなく身に覚えのあるやりとりだった。遥は理解するのを諦めて、ふうっと深く息を吐く。


 できれば知られたくはなかった。

 橙子はバイト先では一番尊敬し、一番好きな先輩だ。

 良好な関係でいたかったが、同年代の女の子と二人で暮らしているなど知れたら、普通の感覚なら軽蔑するはずだ。


 遥は憂鬱だった。

 特に、橙子は他人にも自分にも人一倍厳しい人だ。

 次に会った時は、何を言われてもおかしくない。


「はぁ……」

「……」

「雪季……どうすんだよ、橙子さんに嫌われたら……」

「……ん、仕方ない」

「いや、まあ確かに、本当のことなんだから仕方ないけどさ……でもなぁ」

「……だって」

「ん?」

「……あの人、ものすごく綺麗」

「あ、あぁ。まあそうだな、橙子さんだし」


 やはり、雪季から見ても橙子は美人らしい。

 タイプこそ違うが、どれくらい美人か、という点で雪季と橙子はいい勝負をするだろう。

 だがそれが一体今、なんの関係があるのか。


「……綺麗な人は危険」

「キケン?」

「……遥が好きになっちゃう」

「えっ」

「……それだけはやだ」


 少しだけ前を歩いていた雪季の耳が、ほのかに赤い気がした。

 きっと、自分の顔もそうなっている。

 遥は雪季が振り返らないことを祈りながら、ゆっくり雪季の背中を追いかけた。


「……それに、あの人」

「……橙子さんがどうかしたのか?」

「……ん、何でもない」

「な、なんだよそれ……」


 雪季と遥の距離は縮まらず、二人はそのままマンションまで歩いた。

 夜風は涼しいのに、顔がものすごく熱かった。



   ◆ ◆ ◆



「遥」


 テレビを見ながら冷凍のミートスパゲティを食べていると、今日も雪季が背中から抱きついてきた。

 しかも、なんとなくいつもより、抱きつく力が強い気がする。


「雪季、苦しい……」

「んー」


 雪季は力を弱めようとせず、頬を背中にくっつけてきた。

 こういう時は大抵、何かがあった日だ。


「どうしたんだよ、今日は」

「……ううん」

「……もしかして、橙子さんのことか?」

「……ん」

「あのなぁ。前にも言ったろ? 橙子さんは俺のことなんて眼中にないって」

「……もういい」

「えぇ……」


 それっきり、雪季は本当に黙り込んでしまった。

 それでも離れたりはせず、ずっと抱きついている。

 遥もすっかり慣れたもので、雪季の腕が邪魔にならない動きでパスタを口へ運んでいった。


「さて、寝るか」

「ん、寝る」


 並んで歯を磨いて、布団を敷いた。

 電気を消して横になると、遥は今日の帰りのことを思い出した。


『遥……私は』


 あの時、雪季が現れる直前の橙子は、どこか様子が変だった。

 まるで、何か大事なことを言おうとしているような、そんな神妙な顔だった。


(あれはなんだったんだろうなぁ……)


 ぼんやりと、暗い天井を見上げながら遥は思った。

 もし深刻な悩みでもあるのなら、自分に相談してほしい。

 橙子は遥にとって、それほど大切な先輩だった。


 その時、ベッドの下の布団で寝ていた雪季が、スッと起き上がるのが分かった。

 一体、どうしたのだろうか。


「……遥」

「……どうした、雪季」

「……そっち行ってもいい?」

「は?」


 思わず、間の抜けた声が出た。

 そっち行く、というのは、どういうことだ。

 そのままの意味なのか。


 考えている間にも、雪季は遥のベッドに近づき、そのまま布団に入ってきた。

 咄嗟のことで防御が遅れ、侵入を許してしまう。


「あっ、こら! やめろ!」

「ん、やだ。一緒に寝よ」

「なんでだよ! いつも別々に寝てるだろ!」

「ん、今日だけ」

「今日も明日もダメだ! こら!」


 抵抗むなしく、雪季はすっぽりと遥の隣に収まってしまった。

 暗闇の中で近くに瞳が見えて、心臓が跳ねる。

 やっぱり、雪季はとびきりの美少女だ。

 美人は三日で飽きる、なんてことは全くなかった。


「な、なんだよ雪季……」

「今日だけ。お願い」


 あざとく口元に指を添える雪季。

 こんな仕草は珍しいが、遥は思ってしまった。


(……か、可愛すぎる……)


 遥はガシガシと頭を掻いた。

 断れない。

 これで断れる男がいるなら、この場へ連れてきてみて欲しかった。


「……くっつくのは禁止な」

「やだ」

「だめ! 触るのも禁止!」

「やーだー」


 可愛らしく駄々をこねながら、雪季はこちらへ腕を伸ばしてくる。

 払いのける度胸も無く、遥はぎゅっと抱き締められてしまった。

 押しに弱い、と人は言うのかもしれない。

 が、遥は雪季の甘えるような目が、心底苦手だった。


「……」

「……」

「……遥」

「は、はい……!」

「……好き」

「……ぞ、存じております」

「……私だけが好き。遥は私のもの」

「お……俺は誰のものでもありません」

「……うん」


 反論されると思ったのに、雪季は素直に頷いてしまった。

 なんだったんだろうか、今のは。


 それ以上、雪季は何も言わなかった。

 遥の胸に顔を埋め、静かに息をしていた。


『私だけが好き』


 雪季は言った。

 その言葉の意味を、遥はぼんやりと考えていた。

 いつの間にか眠気が襲い、瞼が閉じていく。

 薄れゆく意識の中で、遥は雪季の声を聞いた気がした。


「大好き」

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