026 チャンス・やめろよ・女の勘

「はぁ……やってしまった……」


 退勤後、バイト帰りの夜道を橙子は遥と二人で歩いた。


「あまり気にするなよ。問題も起きなかったわけだし」

「でも……社員さんに目つけられたかも……」


 遥はあれから、ずっと落ち込んでいるようだった。

 一人暮らしの遥にとってこのバイトは生命線だ。

 そう思えば、気持ちは分からなくもない。


「あれくらいで辞めさせられたりしないさ。その時は、私も一緒に辞めてやる」

「あはは。ありがとうございます、橙子さん」


 きっと冗談だと思っているのだろうな。


 橙子にとって、今のバイトを続ける理由は遥だけだった。

 だからその言葉は、紛れもない本心だ。


「だが、やはり客の前であれはマズかったね。心配してくれたのは嬉しいが、君の立場が悪くなるだけだ。もっと冷静になれ」


 先輩として、大人として、橙子はそう言わなければならない。

 もちろん、心の中は遥への愛しさでいっぱいだった。

 咄嗟に客ではなく自分を心配してくれた遥のことが、愛しくて愛しくて仕方なかった。


 なんて馬鹿で、なんて可愛いやつだろう。


「でもあの人、前見てなかったんですよ! それに橙子さんは通路の端にいたのに!」

「まあそれはそうだけれど、私も足音に気づいていなかったからね」

「だけど、本当に大丈夫でしたか? 怪我とか、どこか痛いとか……」

「平気だよ。私を甘く見るんじゃない。倒れ方くらい心得ているさ」


 身体は本当になんともない。

 ぶつかったところの痛みすら、今はもうない。

 大袈裟だ。

 けれど、橙子にはその心配が嬉しかった。


「それにしても、君は入った時から変わらないな。ずいぶん成長したけれど、やはりまだ子供だ」

「そ、そんなことないですよ! 俺はもう大人です!」

「ふふ、どうだか」


 言いながら、橙子は遥と出会った頃のことを思い出した。


 橙子は最初、働き始めた遥のことを、鈍臭いやつだな、と思っていた。

 要領は悪いし、仕事は遅いし、優先順位もぐちゃぐちゃだった。


 すぐ辞めるだろう。

 そう思っていたある日、橙子はひとりの酔っ払った若い男性客に絡まれた。

 売り場で声をかけられ、商品に関係ない個人的なことをいくつも質問された。

 それまでもそんな経験が無かったわけではない。

 適当にあしらって、それで終わり。

 そう考えていたところに割って入ってきたのが、まだ出勤4日目の遥だった。


「『やめろよ、みっともないな!』だったね」

「あっ! やめてくださいよそれ……黒歴史なんですから……」


 そのセリフと声を、橙子は今でもはっきり覚えている。

 橙子と男の間に割り込んだ遥は、客に対してとは思えないような口調で男を追い払ってしまった。


 責任者にこっ酷く叱られたあと、バックヤードに戻ってきた遥の照れたような笑顔を見たとき。

 あのときから橙子は、遥を特別に気に入ってしまったのだった。


「まあ、ああいう正義感の強いところも思いやりのあるところも、君の素敵なところだからね。仕事じゃなければ、だけれど」

「あはは……ですよね」


 歳下の遥に思いを寄せ続け、もう一年が経つ。

 ずいぶんと親しくなり、信頼も尊敬もされている、そんな実感が橙子にはあった。

 それにどうやら、遥は全くモテないらしい。

 周囲の女どもの見る目のなさは憤慨ものだが、ライバルがいないというのは都合が良い。

 もちろん遥には、現在交際している相手もいなければ、好きな相手もいない。

 そこまではしっかり聞き出してあった。


「だけど、本当に嬉しかったよ。あの時も、それから今日も」

「いやぁ、橙子さんのことになると、つい身体が動いちゃって……」


 遥の言葉に、思わず舞い上がりそうになる。

 橙子はざわつく心を何とか落ち着け、平静を保った。


(いける。今日こそチャンスだ)


 夜、バイト帰り、二人、良い雰囲気。

 これ以上ないシチュエーションだ。

 今なら言える。


 人間関係を進めることに、汐見橙子は躊躇しない。

 こんな好条件の元で物怖じするわけもない。

 今こそこの想いを伝え、遥と恋仲になる最良のタイミングだ。


「遥」


 名前を呼んで、立ち止まる。

 少し遅れて足を止めた遥が、不思議そうな顔でこちらを振り返った。


「橙子さん……?」

「遥……私は」

「遥!」


 橙子の言葉を遮るようにして、突然聞き覚えのない声が前方から響いた。

 呆気にとられて二人でそちらを見ると、少し先から一人の若い女がこちらに駆けてくるのが見えた。


 猫のようなパチッとした目。

 透き通る白い肌。

 夜の闇の中でぼんやり輝く水色のパーカー。

 夜風にそよぐフード。

 その下に覗く黒い髪が夜空に溶けていくようだった。


(誰だ? それに今、やつは遥の名前を読んだような……)


 橙子がそんなことを考えた直後、女は勢いよく遥に抱きついた。


「なにっ!?」


 告白の寸前、謎の女、予想だにしない行動。

 聡明なはずの橙子の頭は一気に掻き乱されていた。

 なんだ。一体、何が起こっている。


「ゆ、雪季!? ど、どうしたんだよ、こんなところで」

「ん、女の勘」

「おんなのかん?」

「ん。遥、救出」

「救出って……何言ってるんだよ、雪季」


 目の前の光景を、必死に整理する。


 なぜ、この女は遥を抱きしめているのか。

 なぜ、遥は抵抗もせず大人しく抱きしめられているのか。

 そしてなぜ、この二人は親しげなのか。


「き、き、貴様! 何者だ!」


 明らかに冷静さを欠いた声が出た。

 身体が震え、冷や汗が額に滲む。

 今日はこのまま想いを伝え、晴れてカップル成立。

 そこまで予定していたのに、事態は橙子の計画とは大きく違う方向に進み始めていた。


「あ……え、えーっと……雪季は、まあ、なんというか」

「ん、遥のカノジョ」

「はあっ!?」


 遥の脇からヒョコッと顔を出した雪季が、敵対心の篭った視線で告げた。


 そんなわけがない。

 遥は言っていた。

 自分は全然モテない、と。

 それも、ごく最近の話だ。

 なのに、何の前触れもなく、急にこんな美人と交際を始めるなど、あり得ない。

 あり得てはいけないのだ。


「こら雪季、嘘つくなって……。まあ、あのー、と、友達です! 同じクラスの!」

「む。友達じゃない」

「雪季! 頼むから黙っててくれよ……」


 遥が呆れたような、しかし優しい表情で雪季というらしい女を宥めている。


 橙子の頭の中で、様々な可能性が渦を巻く。

 とにかく、女は遥の恋人というわけではなさそうだ。

 最悪の事態は免れた。未だ結論は出ないが、唯一確実なのは、この女は自分の敵だということだった。


「は、遥! 本当は何者なんだ、その女は! 追い払うなら手を貸すぞ!」

「と、橙子さん! 落ち着いてください! 本当に友達なんですよ!」

「友達じゃない!」

「こら雪季!」


 このままでは埒があかない。

 業を煮やした橙子は二人に近づき、遥から雪季を引き剥がそうと手を伸ばした。

 その時。


「一緒に住んでる」

「ゆ、雪季ぃ……」


 絶望的な表情で顔を手で覆う遥。

 対して雪季は、得意げな様子で橙子を睨んでいた。


「…………は?」

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