025 視線・転倒・バカなやつ
カバンを置き、上着を脱ぎ、所属メーカーの制服に着替えて、汐見橙子(しおみとうこ)はロッカーを出た。
今日も放課後からバイトだ。生徒会の集まりがあったため、今は17時前。
21時の閉店まで、売り場に立つ。
同じようなことを、もう二年も続けてきた。
正直、仕事自体は少しマンネリ化している。
飽きた、といっても過言ではなかった。
本来、橙子はマンネリを良しとしない。
常に新しいことに挑戦するべき、と考えている彼女は、このバイトも持ち前の学習力で仕事を身につけ、一年ほどで辞める予定だった。
だが、橙子はまだこのバイトを続けている。それはなぜか。
「あ、橙子さん。おはようございます!」
「ああ、遥。おはよう」
月島遥がいるからである。
「昨日はありがとうございました、コーヒー、ご馳走になっちゃって」
「いや、私が自分から申し出たことだ。気にしないでくれ」
それに、お陰で遥と話すこともできたし。
橙子は心の中で満足げに頷いた。
何を隠そう、橙子は月島遥をひどく気に入っている。
後輩として、そして異性として。
去年の四月、「そろそろ辞めようか」、そう思っていた橙子の前に、遥が現れたのである。
「今日も暇ですかね?」
「まあ、そうだろうね。こんな日にこそ販売数を上げるのが、私たちの仕事なのだけれど」
「そうですよねぇ。はぁ、厳しいなぁ」
時給1400円というだけあって、このバイトは実力主義だ。
販売実績を上げられない者や、勤務態度が悪い者、不真面目な者はあっさりクビを切られる。
橙子はもうあまりこの職場に未練はないが、遥はそうはいかないらしかった。
「俺、この前出た新商品の仕様、まだ頭に入ってないんですよ……」
「それはよくないね。だが、旧モデルからの変更点はあまりないよ。液晶が少し変わったくらいで、基本スペックは同じだ。それと、価格が下がったから売りやすいと思う」
「うわぁ、さすが橙子さん! ありがとうございます!」
「いいよ。発表から発売まであっという間だったからね。風邪で寝込んでいた君が把握できていなくても仕方ないさ」
そうフォローしても、遥は恐縮そうに感謝していた。
(まったく、可愛いやつだ。貰ってやろうか、こいつめ……)
心の中で悶えながらも、橙子は居住まいを正した。
遥の前では、常にできる先輩でいたい。
狼狽えるなどもってのほかだ。
「お疲れっすー」
「あ、
「お疲れ様です」
「おー、今日はハルちゃんと橙子か。よろしくー」
それからは大学生の先輩、相田も交えて勤務時間の開始を待った。
売り場に入ると、やはり客の入りはまばらで、新商品の集客力も実感できそうになかった。
橙子たちの担当する品目はパソコンである。業界最大手のブランド力を持つノートパソコンを、話術と知識で販売する。
ニッチな情報を求めてくる顧客も多いため、日々勉強が欠かせない。
家でも製品のことを調べているのはもともと勤勉な橙子くらいのものだが、休憩時間に調べ物をしている遥の姿は何度も見たことがあった。
「暇ですねー」
遥が近づいてきて、新型の展示機を触りながら言った。
「ゴールデンウィークに一気に増えるだろうね。それまではこんなものだよ」
「去年は死ぬほど忙しかったですからねぇ」
しかも今年は、新商品の発売とも時期が重なっている。
今のうちから気を引き締めておかなければ。
◆ ◆ ◆
「結局、俺が3台で橙子さんと相田さんが2台ですか」
「まあ、こんなもんじゃないかな。客数のわりには、売れた方だろう」
閉店間際の20時半、橙子と遥は展示機のディスプレイを拭きながら小声で話した。
まだ店内に数名のお客さんがいるが、おそらく今からパソコンを購入することはないだろう。
大人しく、売り場の清掃に時間を使うことにする。
「社員さんももう諦めムードですね」
「無理もないさ。今相田さんが接客している女性がダメなら、今日はそれで終わりだろうね」
そんなことを話しながら、橙子は暗いディスプレイに反射した遥の顔を見た。
その視線に気づくこともなく、遥は小さくあくびをしている。
(あぁ、そんな無防備なところもたまらん……。モテないというのが信じられん。世間の女どもの目は節穴か?)
思わずまじまじと見つめてしまう。
すると、不意に遥の表情が慌てたものに変わり、素早く振り返るのが見えた。
「危ない!!」
遥が叫んだ時には、既に肩に衝撃を受けていた。
激しくぶつかってきた男性客と一緒に、橙子は床に勢いよく倒れた。
「お客様! 大丈夫ですか!」
「お怪我はありませんか!」
「橙子さん!!」
ほかのスタッフやメーカーの社員が数名、慌てた様子で駆け寄ってくる。
どうやら、前を見ずに店内を走っていたところで橙子に衝突したらしい。
「いてて……ちょっと! 気をつけてくださいよ!!」
「すみませんお客様! うちのスタッフの不注意で!」
「申し訳ございません!」
スタッフたちが男性客に頭を下げるのを、橙子は床に倒れたまま見上げた。
よかった、客に怪我があっては厄介なことになっていたところだ。
幸い、自分は咄嗟に床に手をつくことができた。
大したことはない。
だがスタッフがみな男性客の方へ集まるなか、遥だけは青ざめた顔で橙子の方へ駆けて来てしまった。
「橙子さん!! 大丈夫ですか!!」
「つ、月島くん! まずはお客様だろ!」
「あっ、す、すみません……!」
ひとりのスタッフに叱責され、遥は慌てて頭を下げるスタッフたちの列に加わった。
振り向く直前、橙子には自分を心配している不安そうな遥の顔が見えた。
(遥……君は本当に、馬鹿だな……)
橙子は遥の迂闊さに毒を吐きながらも、喜びと愛しさに打ち震えた。
ニヤケがバレないように、顔を伏せてゆっくり立ち上がる。
「大変失礼致しました。申し訳ございません」
なんとか怒りの収まり始めた男性客に、橙子もゆっくり頭を下げる。
男性客は不服そうにしながらも、「今度から気をつけてくださいね!」と言って去っていった。
大ごとにならずに済んで、ひとまずは安心だ。
「ふぅ……月島くん! 気持ちは分かるけど、こういう時はお客様最優先でしょ! 汐見さんの心配するにしても、先にお客様に気を使わないと!」
「す、すみません!! でもあれは……」
「汐見さんが悪くないのはみんな分かってるよ。でも、あれでお客さんが余計怒っちゃうかもしれないでしょ。働いてる以上は、お客様第一。もう一年働いてるんだから、分かるでしょ」
「はい……本当、すみませんでした……」
そう言うと、呆れきった様子の年配スタッフはさっさと離れていってしまった。
失敗した。
頭をあげた遥は、そう思っている顔をしていた。
庇ってやりたいが、今回は向こうの言い分が正しい。
自分が割って入れば余計に遥の立場が悪くなったかもしれなかった。
「橙子さん、本当に大丈夫ですか? けっこうな勢いでぶつかってたから……」
「平気だよ。ありがとう。話していたらまた睨まれるから、また帰りにね」
本当は、今すぐにでも遥を抱きしめたかった。
だがそんな度胸もなければ、目をつけられるのも厄介だ。
橙子は冷静さを装い、身体のホコリを払いながら一度バックヤードへ戻った。
遥は本当に馬鹿だ。
けれど、本当に優しい。
そして素直で不器用で、たまに男らしくて。
橙子はそんな遥がどうしても気になって、どうしても目が離せないでいるのだった。
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