024 匂い・ため息・あてにしない

「遥、おかえり」

「ああ、ただいま」


 パジャマで出迎えてくれた雪季は一見無表情だが、よく見ると少し嬉しそうだった。

 最近、遥はだんだんと雪季の表情の微妙な変化が分かるようになってきていた。


(やっぱり、長いこと一緒にいると進歩するんだなぁ)


 呑気にそんなことを考えながら、雪季に上着を脱がせてもらう。

 カバンも渡して、リビングまで歩いた。


「……む」

「ん?」


 雪季がおかしな声を出し、キッチンで立ち止まった。

 振り返って様子を見ると、なにやら遥の上着を執拗にくんくんと嗅いでいる。

 一体、何をしているんだろうか。


「……どうした?」

「……女の子の匂い」

「ふぇっ?」

「……女の子と一緒だった?」

「えっと……まあ、うん」


 女の子、というのとは印象がずいぶん異なるが、たしかに橙子と二人で帰ってきた。

 それにしても、まさかそれを匂いで突き止めたのか、雪季は。

 まるで犬、いや、野良猫だ。


「……絢音じゃない、愛佳も違う。誰?」

「えぇ……」


 今度は誰にでも分かるような、明らかに不機嫌な顔だった。

 ジト目でこちらを睨み、頰が膨れている。


「バイト先の先輩だよ。橙子とうこさん」

「……トウコさん」

「ど、どうしたんだよ……」


 雪季はしばらく黙ったあと、再び歩き出した。

 上着とカバンを定位置に仕舞い、コップにお茶を入れてくれる。


「ありがとな、いつも」

「……ん」


 雪季は見るからにテンションが低かった。

 理由を聞くのも怖いので、さっさとシャワーを浴びることにする。


 雪季に用意してもらった着替えとタオルを持って、洗面所に入った。

 いつもよりのんびり目にシャワーを堪能し、髪を乾かす。

 リビングに戻ると、すでにカップ麺にお湯が入れられていた。

 なんて準備のいい。

 雪季も確実に二人暮らしに慣れてきていた。遥がバイトの日は特に気を利かせてくれる。


「いただきます」


 大好きなシーフードヌードルをすすりながら、ぼんやりとテレビを見る。

 しばらくそうしていると、いつものように雪季が後ろから抱きついてきた。

 慣れてしまっている自分に気がつき、遥は愕然とした。


「あ、あの、雪季? あんまりくっつくなって……」

「……やだ」

「ううん……」


 いつも通りの返答。

 引き剥がすほどの度胸も気力もないので、このままにすることにした。


「明日から連続でバイト入れてるから、また留守番頼むな」

「ん、頑張って。いつもお疲れ様」

「ああ。こちらこそ、ありがとな」


 風邪で休んだ分、振り替えでシフトを増やさなければならない。

 明日から3日連続、つまり今日を合わせて4連勤だ。

 自分の体力もそうだが、その間に一人になる雪季のことが、少し心配だった。

 とはいえ、任せるしかないのだけれど。


(暇つぶしになるような漫画も、もう無くなっちゃったしなぁ)


 カップ麺を食べ進めながら、遥はそんなことを思っていた。


「……遥」

「ん?」

「……遥、モテない?」

「な、なんだよ、またそれか。前も言ったろ、全然モテないよ」


 モテても困るし。

 遥は心の中だけでそう言った。


「……ホント?」

「ホントだよ。告白されたこととか、無いし」

「……怪しい」

「ホントだって。だから、雪季もやめといた方がいいんじゃないか?」

「ん、やめない」


 やめないらしい。

 ふぅ、と遥は吐息をついた。


 ただ、自分は本当にモテないのだ。

 告白されたことがないのも事実だし、そもそも恋愛自体、怖い。

 人の色恋沙汰はともかく、当事者にはなりたくない。


「でも、なんでそんなに疑うんだよ」

「……トウコさんは?」

「えぇ……。橙子さんはそんなんじゃないぞ。後輩として可愛がってもらってはいるけど、あんな凄い人、俺なんか眼中にないだろうし」

「……」

「な、なんで黙ってるんだよ……」

「……遥の言うことはあてにしない」

「えぇ……」


 なんてことだ。遥は今日も今日とて頭を抱えた。

 なぜこんなにも信用がないんだ。

 なにもおかしいことは言っていないはずなのだが。


「……絢音は?」

「ん? 絢音がどうした?」

「……」

「……絢音こそ、俺になんて興味ないぞ。好きな人いるって言ってたし」

「……はぁ」

「ため息!?」


 なぜか雪季にため息をつかれてしまった。

 納得がいかない。

 絢音は遥の恋愛恐怖症を、よく知っている。

 それに、これは絢音の口から直接聞いたことだ。

 間違いなく真実。

 ため息をつくべきは自分の方のはずだ。


「……もういい」

「お前なぁ……」

「ん。じゃあ遥を好きなのは私だけ」

「……そうですか」

「ん。……だから、私にしよ?」

「……しよ、って言われましても」


 雪季が後ろにいて良かった。遥は心底そう思った。

 間違いなく今、自分の顔は真っ赤になっているだろうから。


(可愛すぎるだろ……今の)


 鼓動が早まるのがバレないように、遥は息を整えた。

 雪季の顔も同じように真っ赤になっているということは、遥には知る由もなかった。

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