023 バイト・先輩・帰り道

「お疲れ様です」


 火曜日の放課後、遥は4日ぶりにバイト先のバックヤードに顔を出した。


「おー、ハルちゃん復活?」

「はい、おかげさまで」

「ハルくんお疲れー。よかったねー風邪治って」

「ありがとうございます。ご迷惑をお掛けしました……」

「いいっていいってー」


 男女二人に声を掛けられて、遥は挨拶を返した。

 二人とも、大学生の先輩だ。

 どうやら同じ時間からシフトが入っているらしい。

「今日忙しいかなー?」

「暇だろーなー、ゴールデンウィーク前だし」

「去年も今頃は暇でしたもんね」


 他愛ないことを話しながら、伝言板を確認する。

 シフトが入っていなかった間にあったことや、店の施策の変更などを一通り、頭に入れた。


 遥のバイト先は、大手の家電量販店だ。

 とあるブランドメーカーの販売スタッフとして、売り場に立ってお客さんに商品を販売する。

 去年から働き出して、もう二年目になる。


 決め手は何を隠そう、時給の良さだった。

 高校生で時給1400円は破格であり、遥は迷わず応募を決めた。

 さすがは有名ブランドのスタッフ。

 そしてその名に違わぬ数百倍の倍率を奇跡的に突破し、遥は雇われたのである。

 そのせいで、遥のバイト仲間には高校生がほとんどいなかった。


 三人でまとまって、売り場へ出る。

 一歩売り場に立てば、そこはもうお客さんの前だ。

 遥は気を引き締め、背筋を伸ばして歩いた。

 こんな割りのいいバイトを、クビになるわけにはいかないのである。

 絶対に。



   ◆ ◆ ◆



「お疲れー」

「じゃあねーハルくん」

「あっ、はい! お疲れ様でした!」


 閉店後、先に帰っていく先輩を見送り、遥は休憩室で一息ついた。

 予想通り、今日はあまり忙しくはなかった。

 ただ、売り場では常に気を張っているため、それなりに疲れる。

 加えて、この仕事は座る時間が全くと言って良いほどないのである。


 少しゆっくりしてから帰ろう。

 遥は自販機でコーヒーを選びながらそう思っていた。


「やあ。お疲れ様、遥」

「あ、橙子さん。お疲れ様です」


 横から、ひとりの女性が声をかけてきた。

 遥以外の唯一の高校生アルバイト、汐見橙子しおみとうこだ。

 遥と同じ高校に通う、一つ年上の先輩だった。


 橙子は後ろで一つ括りにした髪をほどきながら、凛々しい表情で遥を見た。


 アッシュグレーのセミロングと、高校生離れした儚げで色っぽい瞳。

 隠しても隠しきれない美人だ。


(橙子さんなら、雪季にも負けてないかもしれないなぁ)


 遥はそんなことを考えながら、財布から小銭を出した。


「私がご馳走するよ。病み上がりで余計に疲れたろう」

「えっ、そんな、ダメですよ!」

「いいから、気にするな。先輩の奢りくらい、素直に受け取っておくといい」


 橙子はそう言うとサッと財布を取り出し、半ば強引に遥と自分の飲み物を買ってしまった。

 同じ時給なので気が引けるが、やはりありがたい気持ちが強い。

 遥は橙子の言う通り、素直にいただくことにした。


「ありがとうございます、橙子さん」

「ああ」


 休憩室の長椅子に、遥と橙子は並んで腰掛けた。

 一口コーヒーを飲む。

 仕事終わりのコーヒーは非常に喉に沁みた。


「それにしても、一人暮らしで風邪など、大変だったろう。困っていなかったか?」

「えっ? あ、あぁ! はい! なんとか! あはは……」


 思わず狼狽えてしまった遥を、しかし橙子は同情の篭った眼差しで見つめていた。


「そうか。だが、困ったらいつでも私に言うんだぞ? 君は私の大切な後輩なんだから」

「……はい、ありがとうございます。橙子さんはいつも優しいですね。なんだかお姉さんみたいで、甘えそうになってしまいますよ」

「甘えてくれ」

「えっ?」

「あぁ!! いや、なんでもない!!」


 何やら取り乱した様子の橙子を、遥は首を傾げながら眺めた。

 橙子は持っていた缶コーヒーを一気に飲み干すと、深く大きく息を吐いた。

 胸に手を当て、目を閉じている。


「いや、すまない。気にしないでくれ」

「は、はあ。分かりました」


 言って、遥もまたコーヒーを飲んだ。


 遥にとって、汐見橙子は本当に姉のような存在だった。

 それに、橙子はとても頭がいい。

 年齢にそぐわぬ大人っぽさと落ち着きには、遥も憧れていた。

 自分は間違いなく偶然だが、橙子は受かるべくしてこのバイトの面接に受かったのだろう。

 遥はそう信じて疑わなかった。


「さて、そろそろ帰ろうか」

「そうですね。途中まで、一緒に帰っていいですか?」

「ああ、もちろん」


 空き缶をゴミ箱に捨て、遥は橙子の後に続いて休憩室を出た。

 帰り支度を整え、一緒に店を出る。

 時刻は夜の9時半。

 辺りはすっかり暗く、隣を歩く橙子の髪が輝いて見えた。


「そういえば、君のクラスに転入生が来たそうだね」

「あ、あぁ……そ、そうなんですよ。よくご存知ですね……」


 雪季のことだった。違う学年にまで話が広がっているとは、さすが規格外の美少女、雪季だ。


 だが、果たして橙子はどこまで知っているのだろう。

 まさか、その転入生が遥のことを好いている、なんてことまでは知らないと思いたい。

 まあ、知られていたからどうというわけではないのだが、なんとなく居心地が悪いのだ。


「生徒会の二年生組が騒いでいたからね。……なにやら、かなりの美人だそうじゃないか」

「ま、まあ、周りはみんなそう言ってますね」

「ふむ……君はそうは思わないのか?」


 橙子は何やら神妙な、不安そうな顔で遥の顔を覗き込んできた。


「いや、間違いなく美少女ではあるんですけど、そんなに興味が、無いというか、なんというか……」


 橙子に全て話してしまおうかとも思ったが、結局遥にはそれができなかった。

 まあ、橙子とは絢音やクラスメイトたちと違い、そこまで学校で関わることはない。

 隠していても問題ないだろう。


「そ、そうか! ふむ、いや、見かけに騙されないその慧眼! さすが遥だ!」

「え、あ、はい……まあ、あはは」

「うむ。やはり人間というのは外見よりも内面。遥はそれをよく分かっているんだな」


 橙子はやけに満足そうだった。

 いつも冷静な彼女の妙なオーバーリアクションがおもしろくて、遥は思わず笑ってしまった。


「でも、そのセリフを橙子さんが言うと、なんだか変ですね」

「ん? なぜだ」

「だって、橙子さんものすごく綺麗なのに 」

「きっ!」


 突然、橙子の顔が驚愕の表情のまま凍りついた。

 しばらくしてからスッと下を向き、ゆっくり顔を上げる。


「……ゴホン。まあ、その、ありがとう」

「……あ、いえ、本当のことですから」

「ほっ!」


 また少し固まり、橙子はフルフルと首を振っていた。


 何やら、今日の橙子は様子がおかしい気がする。

 まあ、橙子のような聡明な人間の考えていることは自分には想像も及ばないのだろう。

 遥はあまり気にしないことにした。


 そういえば、雪季はちゃんと夕飯を食べただろうか。

 遥は橙子と別れた後、少し小走りで自宅へ向かった。

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